13
地には鈴虫たちの歌声が沸き返り、空にはまん丸になりかけの月が蒼白く光る。村に帰った二人と一匹が迎えたのは、そんな夜だった。
「綺麗…。」
夜空の穏やかな光を仰ぎ、歌に耳を澄ませる。今まで体に纏わりついていた、今日一日分の出来事がゆっくりと溶けてゆく。そんな感じがした。
「――――ぁ、直ちゃんに夕紀ちゃんに紅霞!お帰り~。どこ行ってたの?心配したよ~。」
夜闇によく通る声。振り向くと、ウェーブがかったロングヘアーの女性が出てきて二人にニコリと笑い掛けた。
「咲音…。」
「咲音さんっ、ただいま!」
満面の笑顔で勢いよく抱き付いてきた夕紀を、咲音は優しく微笑み抱き締め返した。
「咲音…はい。呪術師の村で貰ってきた。」
「え…ぁ、ありがとう直ちゃん!やっぱり頼りになるねっ!…良かったぁ。」
心からの安堵の表情を浮かべる咲音。…夕紀の見間違いでなければ、一瞬、直樹の表情が止まっていた。…ように見えた。
「…それにしても今日は月が綺麗だよなぁ~…。」
「うん、本当にねぇ…」
いきなり切り替わった話題に何の疑問も抱かず、咲音は朗らかに笑う。
「咲音さんって本当に素直だな~…。ていうか鈍…」
「夕紀早いところ紅霞を家に帰して暁くんに薬渡してきなさいお兄ちゃんの命令だ。」
人生において稀に見る早口で夕紀の言葉を打ち切る直樹。
「けっ、咲音さんと二人で話したいからって妹を除け者にするとは酷い兄だ。直兄のバーカ。」
「んだと…おい夕紀ッ」
振り向かず舌をベッと出して歩く夕紀の耳に、咲音の「二人って本当仲良しなんだね。『喧嘩するほど仲が良い』って言うもんね」という声が聞こえた。断じて違います、咲音さん。
――――それから約四時間後。夕紀は布団に埋まったまま、閉じたり開いたりを繰り返す瞳で薄暗い天井を見つめていた。
もうあと二時間もすれば、今日も昨日になってしまう。眠いな、早く寝なきゃな、とか頭で思っていても何故だか余計な事ばかりが思い出されて一向に眠れない。
―――――『最終的にはあなたではなく周りが痛手を負う』――――というあの言葉。氷雨の姿をした満夜のあの言葉が、強烈な痛みと共に心に焼き付けられる。だけど、その通りだと思う。私がしっかりしていないから、暁が。
「…ダメな奴だな…私。」
そんなことないよ、といつもなら言ってくれる声も今は聞こえない。雷斗から絶対安静を勧告されて、暁は自宅療養を余儀無くされることになったらしい。
さっき見舞いに言った時、「剣術練習に付き合えなくなってごめんな」と笑う顔を見るのは辛かった。…だけどそんな表情をさせたのは私。もう二度とあんな目に遭わせないと誓ったはずなのに、私は…。
己の内で渦巻く思いに飲み込まれるように、夕紀はようやく眠りに堕ちてゆく。
そこに広がるのは光も温度もない闇。
――――そして、夢を見た。夕紀と暁にとって厄日とも呼べる『あの日』の夢。今も覚えている。冬の白い空を飛び交う矢。白銀の刃が空を斬る音。士気を高めるためであろう雄叫び。それら全てが自分に向かってきたこと。避けるにも受け止めるにも、もう時間はない。…これまでか。まぁ、もう何もかもどうでもいい…。本気で終わりを覚悟したこと。口元に諦観の笑みを浮かべたこと。
「――――夕紀…っ!」いつも戯れ合う時の優しい口調とは似ても似つかぬ声音に、咄嗟に顔を上げた。
目の前に立ち塞がる人物の脇腹に紅い染みが出来ていた。
「夕紀、大丈夫…か?」
こちらを向いた笑顔は、体を貫く痛みに歪んでいた。
「ぁ…きら…。」
「…平ッ気…。」
暁は苦しげに咳き込み、口を押さえた手の隙間から真紅が伝い、雪がうっすらと覆う大地を濡らした。
「――――…ッ…!」
呼吸のたび、彼の体から空気が抜けていくかのような音を聴いた気がした。刹那、紅に染まった体が白い雪に埋もれてゆくのが見えた。そして、
「―――――暁!!」
ただ叫ぶしか出来なかった。
「夕紀…ッ」
「…ぇ」
突然両肩を捕まれ、慌てて起きると、先ずは直樹の若干動揺しているだろう表情が目に飛び込んできた。
「夕紀ちゃん…大丈夫?」
直樹の隣に膝をついた咲音が心配そうに問い掛ける。ていうか何故、家に…。
「私の家、今夜が近辺パトロールの日なんだ。だけど本来の任命者である暁が療養してるから、代わりに両親が行ってて…。子供だけで一晩を過ごすのは危ないから、今夜は泊めさせて頂けることになったんだ。それで…、家に入ったら夕紀ちゃんの呻き声が聞こえたから気になって…。」
「ぁ、そう…なんですか。私は…大丈夫、あはは~」
「作り笑い。」
夕紀が視線を流した刹那、頬をむにっ、と摘ままれた。
「痛い~。」
地味な痛みから逃れようと夕紀は直樹の手をバシバシ叩く。直樹は僅かに眉根を潜めながら「夕紀、変に誤魔化すな。誰が見ても全然大丈夫そうに見えないと思うよ…?」
「大丈夫本当にっ!今日は朝早くから仕事あるから明日はもう遅いし寝るっ!おやすみっ!」
直樹が「夕紀、今の台詞何かおかしかったぞ」と突っ込むが、それより早く扉は閉じられた。