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ファンタジー小説

作者: 人鳥

会話はありません。

 世界はカオスに満ちている。

 彼――清一は、普段からそう感じていた。理由は特になく、ただただ代わり映えしない日常に嫌気がさし、世界がカオスであると思わなければ生きることにすら希望が見いだせないのだった。世界がカオスである理由――つまりきっかけがあったわけではなく、ある種の妄想でそう思ってきた。それが正しいことだったのかどうかは定かではない。ひとつだけわかるのは、たとえカオスだったとしてもそれを清一自身が認識できないであろうということだけである。

 朝日が差し込んできている寝室は、いつにもまして大きく見えた。巨大な白いフトンのように見えるそれの上に、清一は立っている。清一という男は、普段は死んだ魚のような目をしており、何事にもやる気がない男だった。その男が、今日に限って体が羽のように軽く感じていた。今にも飛び立てそうな体の軽さは、生まれて今まで一度も感じたことのないものだった。それは快感にも似ており、清一はあまりの快感に体を震わせた。

 しかし気楽にもいられない。清一はその場所を見まわして違和感を覚えた。その場所はどう見ても自分の部屋そのものである。にも関わらず、見える景色は圧倒的な巨大さで、自分が今まで使っていたものと同じには見えない。押しつぶされそうになる恐怖を抑えながら、清一は歩き出した。

 またしても違和感を覚えた。歩き方が普段と違う。普段ならば、足だけで歩いているはずなのにも関わらず、どういうわけか、今日は両手まで使って歩いている。それに気づいてしまえば、違和感はそれにはとどまらない。見える景色の大きさもそうだが、そもそも見え方がおかしい。普段とは全く異なる景色だ。見える景色――否、見ているものは同じだが、その見え方に差異がある。

 清一は世界がおかしいのか自分がおかしいのか、その判断ができなくなっていた。彼が夢見ていたカオスは、ここにあった。ところが清一は、そのような状況に陥ってなお、大きなため息をついた。それがカオスに呑まれてのことなのか、普段の自堕落な清一に戻ってしまったのか。それは彼自身にもわからないことに違いない。

 ふと、清一は自分の体に違和感を覚えた。今日はなんとも違和感の多い日である。これほどまでに違和感を覚えることなど、無意味に牛のごとくノロノロと歩く大人たちを見た時以来のことだ。自身の体に覚えた違和感の正体は、その形状であった。自分が手だと思っていたそれは、たしかに足だった。しかしそれは足とは思えぬほどにか細く、すこしの衝撃で折れてしまいそうだ。人とは違う、繊毛と言うべき毛が足から無数に生えている。色も真っ黒で、人のそれとは到底思えない。

 しかし不思議と吐き気はもよおさなかった。気が狂うようなトリガーも見受けられない。ありのままを受け入れてしまっている自分に気づき、清一は自分自身に鳥肌が立った。その鳥肌が立つための肌すらないのだが。

 清一は今の自分の姿を確認しようと、鏡の前まで飛んだ。夢の中だからか、空を飛ぶことすら可能だった。高く細い音を鳴らしながら、鏡の前まで飛ぶ。そこには一匹の蚊がいた。清一が忌み嫌い、見つければ見境なくチリ紙にくるんでゴミ箱に捨ててきた虫――その姿に清一自身が変貌を遂げていた。今度こそ悲しみに包まれた清一は、何度も自分の姿を見なおした。当然、その姿が清一本来の姿に映ることはなく、鏡に映る姿はいつまでたっても醜い蚊の姿のままだ。

「蚊、か」

 自分の身に舞い降りたこのカオスというよりも、エンディングに近い状況の中で、清一は自身の不運を嘆くことはしなかった。むしろその皮肉に満ち満ちた現状を、どのように楽しむかを考え始めた。もともとカオスだなんだと頭を無駄な方向に使ってきた。良く良く考えてみれば、この状況は清一が望み続けてきた世界そのものだった。

「どうせなら……そうだな、美人か可愛い子がいい」

 くつくつと嫌な笑みを浮かべ、清一は小さく開いたドアの隙間から、外の世界へと飛び出した。外は風が強く吹いていたが、不思議と風に流されることはなかった。スムーズに体が動いている。燦々と降り注ぐ町の中を、清一は飛んだ。向かう先には学校がある。清一が十年以上前に卒業をした高校である。清一はその高校の女性教諭に、若く美しい人がいることを、普段の散歩の中で知っていた。学校を出入りする彼女の姿を認めては、清一はすぐさま抱きつきたくなる衝動を抑えるのに必死なのだ。自分の暴力的な側面を隠すことは、今は必要ない。人にとってはとるに足らない一匹の蚊になったことで、清一は人を絡めているありとあらゆる束縛から解放されているのである。人の血を吸うことには全く興味はないが、それでいて、猛烈な吸血衝動に襲われているのだから始末に負えない。始末に負えないが、それは人の身であった場合の話。今は関係のないことだ。

 侵入は極めて簡単だった。校舎の周りをぐるぐると旋回し、職員室の窓から侵入を果たした。職員室には数名の男性教諭と女性教諭がいた。そして、目的の女性教諭の姿もその中にはあった。清一はその女性教諭に向かって勢いよく羽ばたいた。生徒たちがこの職員室内にいたならば、どこにいても清一が発するモスキート音に気づいたに違いない。それほどまでに、清一は気合を込めて飛んでいた。命をかけているといって過言ではあるまい。

 フライトは順調に進み、女性教諭の首元にまで迫った。清一は喜びと期待に胸を高鳴らせ、ゴクリ、と喉を鳴らした。鳴る喉はなかったが。そしてまさに女性教諭の首に着地を決めようとした刹那、女性教諭が動いた。蚊にとっては致死の暴力である手が、清一の後ろから迫る。清一はそれにギリギリ気がつくと、さっと移動して難を逃れた。死んでしまうかもしれないという局面に差し掛かりながらも、依然として清一の心は高なっている。今までの自分とは違う――否、本来の自分自身がそこにあるからだ。心の奥底に抱え込み、うっ屈してしまった自分がそこにあるからだ。

 清一は覚悟を決めてもう一度飛んだ。今度は鎖骨の辺りに着地しようとしたが、それを女性教諭に見とがめられてしまった。美しい顔は鬼の形相に変わり、素早く手が清一を襲う。両側から襲いかかる脅威は清一を完全にとらえたが、間一髪、清一は指の間から逃れた。しかしすでに存在は気づかれてしまっている。もはや血を吸うことは諦めるしかない、清一はため息をついた。そもそも人が人の血を吸おうとしたのが間違いだったのだ、と自分に言い聞かせながら、ゆらゆらと職員室を遊泳する。そとのムシムシとした暑さから解放された職員室は、蚊である清一にとっても快適な部屋であった。生物としては蚊であっても、その心は人間でしかないのである。

 自分の欲望よりは命が大切だと泣く泣く言い聞かせ、最後に女性教諭を見納めようと振り返った時、清一の視界は白く染まった。息苦しさと激痛が全身を遅い、もうろうとする意識の中で、清一は『殺虫』という文字を見た。清一の蚊としての生命は、ここで幕を下ろすことになった。


 気づけば清一は誰の家とも知らぬ場所にいた。清潔に掃除がなされた台所の一角、清一はそこでゆったりと腰をおろしている。やけに自分が動かせる関節が多いと思っていたら、どうやら足が四本以上あるらしく、不思議な気持ちで新しく増えた足を小刻みに動かした。今度はどんな生き物になってしまったのかと思ったが、あいにく、近くには体を映すような物はない。蚊としての生活は一瞬にして脆くも崩れ去ってしまった。今回もどうやら虫のようだが、できるならばもう少し長生きをした。そしてあわよくば、若くてきれいな女性を拝みたいと思うのだ。地を唸らせるような地響きが鳴り、女性が台所にやってきた。一体どのような運命のいたずらか、これが因果というものなのか、台所にやってきたのは、例の学校の女性教諭だった。女性教諭はいまだ、清一の存在に気づいていない。清一はばれたくないと思い、物陰から女性の姿を眺めた。ところが、女性が清一が隠れていたものをおもむろに持ちあげた。

 その瞬間、女性と清一は目があった。女性の悲鳴がを台所に響き、清一はその女性らしからぬ声の渋さに、我を忘れて駆けだした。


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― 新着の感想 ―
[一言] カフカでしたっけ? 朝起きたら虫になってたって話。 それをラノベ風にした印象を受けました。 やはり蚊の一生は短いですね。 そしてラストはG。 何ともシュールな展開です。 まぁ蚊は絶滅して欲し…
2011/07/10 23:01 退会済み
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