樹木の墓碑銘――歩道脇の泰山木
初出:カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/16816700426809476053/episodes/11054822663830812561
道を歩いていたら、いつも見掛けていた大きな泰山木が見当たらない。
見過ごしたのだろうか? とにかく、早く用事を済ませて、帰りに確かめよう。
そうして、帰り道。
注意して歩いたのだがやっぱり無い。
ここだろうと目当てにしていた建物の前を行きつ戻りつしてみたのだが、影も形も無かった。切り倒されたのなら、その痕跡が間違いなくある筈だが、どうにも見当たらない。
おや、場所を間違ったのだろうか? もう少し先だったか知らん。
そう考え考え進むが、それらしい場所は出て来ない。やっぱりさっきの所だったのだろうか、そうに違いないと後を振り返ってみたのだけれど、ここまで来てしまってからはもう確かめようがない。もう一度来た道を戻ってみようかとも思ったが、背中のリュックサックは随分重たいし、近頃は年のせいかすぐに足が疲れてしまうので断念した。
本当に切り倒されてしまったのだろうか。
あの木は歩道の脇に立っていて、初夏には白い花が咲いた。
かなり背が高く大きな木だったため、枝は悉く人間の頭上にあり、花が咲いたところで、僕らはそれを下から見上げる恰好。したがって、開いた表側を正面から拝むことは到底不可能であり、裏側から見るにしても葉叢に覆い隠されている部分が多いため、背伸びをしたり屈んだり身をよじったりして姿勢を変えつつ、あちらこちらと場所も移動しながら、ちらちら見え隠れするものを何とかより詳細に観察しようと試みたものだった。
たまに、大きな花弁が地面に落ちていることもあった。
僕には『花びらの柄杓』という詩があるが、まさにここで、その落ちた花弁を目にしたことがモティーフになっている。
夏の暑い日には、信号や建物の二、三階よりもずっと高いところから僕らの頭のすぐ上まで、複雑に交叉する多くの枝にわさわさ隙間無く茂った厚い葉の重なりが、強烈な日差しをしっかりと遮り、実にありがたい蔭を提供してくれた。
僕が泰山木という名前を知ったのは、梅崎春生の短編を読んだことがきっかけである。何でも『植木屋』というタイトルで国語の教科書に載っていたと記憶するが、調べたところ、『侵入者』なる小説の一部らしい。
はっきりと端緒を記憶しているのは、「泰山木」という立派な名前がそのとき鮮明に印象に刻まれたからに相違あるまい。
実物を知ったのは、それから少し後、多分何年か経ってからのことだった。
おそらくは、公園だか並木だかの木に、名札が懸けられているのを目にするかして、名と実とを連関させることができたのではなかろうかと思う。
「泰山」とは中国の名山だが、大きく立派な山というのがもともとの由来らしい。
「泰然自若」という言葉があるように「泰」という字は、ゆったりとしてこせこせしたところが無い印象。
まさにこの木の秀でた樹高や威風堂々たる全容を表すのに相応しい。また、大ぶりかつ繊細な花や存在感のある葉の容子も、名前の荘厳なニュアンスに似つかわしい。
他に、「大山木」や「大盞木」の字が宛てられることもある。「大盞」、すなわち、大きな盞とは花の姿の形容らしい。かかる酒器に酌む馨しき一献はいかばかりか、思いを巡らすだに愉しい。
花の蕾は細かな毛に覆われて、鳥の雛のように愛らしく、開いた後の白くふっくらとした花弁や窈窕たる蕊の姿はもちろん、散った後の果実の精密なさまも容子が佳い。
ただ、その実が熟れてきて、種が表面に露出し始めると、百目という妖怪を見たような怪しい雰囲気となり、更に熟成と乾燥が進み、赤い種子が蓇葖から脱落して糸状の珠柄で垂れ下がっているさまはどうもグロテスクで目を背けたくなる。集合体恐怖症には何とも致命的であるが、そうでなくとも、まるで眼球が眼窩から飛び出して筋や神経の繊維でぶら下がっているかのような妄想を惹起せしめる――
後日、歩道脇の泰山木を改めて捜しに出かけたが、矢張り切り倒されてしまったらしい。
いろいろな事情はあるだろうし、僕なんぞが容喙しうる話では毫も無いのだけれど、個人的には実に残念である。
<了>
『花びらの柄杓』
https://kakuyomu.jp/works/16816452219790883809/episodes/16818093079019333485




