Blue
「お忘れ物のないようお気を付けください」
心地よい振動の中で目が覚めた。どれだけ眠っていたのだろうか、体じゅうが痛む。あまりに疲れているようで、また瞼が閉じはじめる。
数分後、また聞こえてくる。
「お忘れ物のないようお気を付けください」
あと10分だけ──ヘトヘトなんだ。
彼女は許してはくれなかった。
「お忘れ物のないようお気を付けください」
その女性の声は感情に欠けていて、さっきとまったく同じだ。
録音だ。彼女は人間じゃない。つまり、俺の願いは届かないのだ。
仕方なく起きて背中をポキポキと鳴らした。いや、ボキボキのほうが正しい。ひどい音だ。
荷物をまとめないと。眠い目をこすりながらテーブルに散らばった荷物をケースに詰め始めた。
携帯デバイスにチケット、何種類かの薬と未開封のお菓子とその他諸々。そしてハンドガンをケースに詰めた。
ハンドガン…?
なぜこんな物騒なモノがあるんだ?そりゃ護身用に携帯するのは分かるが、テーブルに置くほど素敵な代物でもないし、そもそも入場──
「ハハッ、マジか」
乾いた笑いが出た。それがあまりにばかげているから。
ここが何らかの乗り物である事は、彼女のアナウンスから察していた。
そして到着した事も。ここを出ようとしたことも。
このときはじめてわかった。俺は自分が誰かわからない。ここがどこで、何をしているのかもわからない。何一つ覚えていない。
「お忘れ物のないようお気を付けください」
また彼女だ。こっちは全てお忘れだってのに。
まずはここから出ないと。とにかく支度をして、長い廊下を辿った。
道中、窓から見えたのは青い空に青い惑星──地球だった。
コーヒーを啜ってベーコンエッグの最後のひと切れを口に放り込み、デバイスで会計を済ませた。
大戦以降技術は飛躍的に進歩したが、結局このベーコンエッグが一番の発明だろう。少々塩辛いが、トーストとコーヒーとの相性は最高だ。せっかくの休日だから別の区へいって羽でも伸ばそうか、と思い時計を見た。
午前九時を過ぎたばかりだった。急ぐ必要はない。今日は仕事が無いからだ。
戦争が終われば俺達みたいな元軍人は職につかなきゃいけなくなる。
幸い元パイロットだった俺は輸送用HAVの会社を経営してる。といっても個人経営で、操縦も自分で行う。
デバイスを取り出してメールをチェックする。確か来週の依頼は──
画面を見てある事に気づく。輸送リクエストの中に、太文字で"PRIORITY MAIL"と書いてあった。
個人ドメイン且つ何処にも登録していないアドレスだから詐欺メールが届くとは思えない。ベンチに腰を掛け、メールをじっくり確認した。
TO:アイザック・クーパー isaaccooper@pangea.org
FROM:NOAH noah@gov
SUBJECT:最重要伝達事項
こんにちは。私はグレース・ラングフォード。パンゲア政府直下組織NOAHの技術顧問です。
貴方の事はタッカー軍曹に伺いました。優秀なパイロットだと聞いています。
貴方に協力をお願いしたい案件があります。早速ですが、現在地を共有してください。20分程で回収に伺います。
何の冗談だ?
NOAH──三次戦以降、地球は国家という単位を捨て"パンゲア"という一つの政府で成り立っている。そして今のは直属の組織のお偉いさんからのメールだ。
そしてタッカー軍曹──タッカー・バウマン軍曹。俺が軍にいた頃の鬼軍曹だ。もう名前も聞きたくなかったんだが。
とにかく、俺に会って話をしたいらしい。悪事を働いた覚えはない。きっと仕事か何かの話だと信じたい。
軍曹の顔が脳裏にちらつく。断ったら面倒そうだ。
現在地を共有するメールを送った。ものの数秒で最寄発着パッドが指定された。よほど急いでるらしい。
遠くに見える軌道エレベーターを横目にパッドへ向かう。今日は天気がいい。刹那、何かが太陽を覆い隠した。巨大な金属の塊──迎えのHAVだ。太陽の光を反射しながらこちらへ向かってくる。凄い性能だ。俺が乗り回してるのがモーターボートなら、これはクルーズ船と言っても過言じゃない。
HAVがパッドへ到着した。ものすごい粉塵が舞っている。思わず手で目元を覆いながら開いたドアの方へ向かう。
「クーパーさんですね?」
大柄な男は言う。
「お迎えに伺いました。ここから15分程で到着します」
オーケー。拒否権はもう無いみたいだ。
「急に呼び出されて、一体何の要件なんです?」
彼は答えなかった。
轟音と共に飛びたった。せっかくなら景色を楽しみたいが、このHAVの客席には生憎窓がなかった。
自分の船のそれとは比べ物にならない程快適なフライトだった。政府の高級モデルとは知っていたが、なんだか悔しかった。
ものの数分で目的地へ着いた。軌道エレベーターが目と鼻の先だ。
NOAHと書かれたその巨大な施設に辿り着いた時点で、俺は心の中でのんびりした休日に別れを告げた。
「こちらへ」
寡黙なその男に着いて行き、広い施設内の一室に案内された。もう少し愛想良くしたらいいのに。
彼がデバイスをかざし、ドアが開いた。
白衣の女性が出迎えた。奥には会議をしている偉そうな人達。
「ようこそ。私はグレース」
つまりメールを送った張本人だ。
「どうも。クーパーです」
握手を交わし、彼女に案内され椅子へ腰掛けた。
「何かお飲み物は?」
彼女は言う。
「コーヒーを。ブラックで頼む」
俺は生粋のカフェインジャンキーだった。
彼女が部屋の隅でコーヒーを入れている間、部屋を眺めた。そこには"NOAH"と"MILLENNIUM PROTOCOL"の文字。なんだか難しい事をやっているようだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
コーヒーを啜る。いい豆だ。あの店は泥水を出してたのか?
しかし政府の施設なだけあって設備が立派だ。持ち帰りたいくらい座り心地の良い椅子においしいコーヒー、最先端機器の数々。そこらじゅうにホロスクリーンがあって、研究員らしき人達が夢中でそれを眺めてる。
「気になるかしら?」
彼女は言う。
「まぁ正直ね。この手のテックには常に驚かされる」
「驚くのはまだ早いかも」
彼女は意味ありげな笑みを浮かべた。
「中央のスクリーンを見て」
部屋の中央には映画でも観るのかという程のサイズのホロスクリーンがある。そこには先程の文字列と惑星の写真が映されていた。
青い惑星──それは、地球ではなかった。




