第8話 夜市前夜、シャッターに色を塗る
夜市前日、商店街に色と人が戻り始める。
夜市前日の白灰商店街は、久しぶりに音があった。
がらがらとシャッターを上げる音。
脚立を運ぶ音。
誰かがバケツをひっくり返して、別の誰かが笑う声。
アーケードの端から端まで賑やか、とはまだ言えない。空き店舗は多いし、電灯は半分しか点かない。けれど、灰色の通りに人が立っているだけで、空気の重さが少し変わる。
セト・コスメの前には、白い布が敷かれていた。
その上に並ぶのは、絵の具、刷毛、古い写真、申請書、色見本帳の写し、商店街の人が持ち寄った昔の品々。
魚辰の藍色の前掛け。
宮田青果の若草色の値札。
山吹文具の黄色い包装紙。
ノエル写真館の空色のリボン。
セト・コスメの桃色の試供品袋。
莉愛はそれらを見て、胸が熱くなった。
最初は写真の中にしかなかった色が、少しずつ今の街へ戻ってきている。
「莉愛ちゃん、これ本当に塗っていいのか?」
青果店の宮田さんが、シャッターを指して聞いた。
「許可は?」
「店主がいいって言えばいいでしょ」
「いや、俺が店主だけどさ」
「じゃあいいじゃん」
「軽いなあ」
「重く言ったら塗料乾く」
宮田さんは笑った。
その笑い声を聞いて、近くの生徒たちも少し緊張を解く。
莉愛たちがやろうとしているのは、夜市のためのシャッターアートだった。取り壊し反対の大きな横断幕ではない。各店が持っていた色を、シャッターの一部に戻す。塗りつぶすのではなく、古い写真をもとに、かつての色を少しだけ今の上に乗せる。
保存か、取り壊しか。
その二択にする前に、何を残したいのか見えるようにする。
それが、莉愛の作戦だった。
「反対運動に見えます」
美玲が言った。
彼女は制服の上にエプロンをつけている。白いリボンは外していないが、今日は手首に薄い黄色の糸を巻いていた。母の裁縫箱にあったものだという。
「見えるかもね」
「違うんですか」
「違うって言い切ると嘘になる。壊されたくないって気持ちはある。でも、ただ止めろって言いたいだけじゃない」
「では、何を」
「見てから決めてって言いたい」
美玲は黙った。
彼女はまだ、自分がどこまでこちら側に立っていいのか迷っている。莉愛はそれでいいと思った。いきなり全部を裏切れと言うほうが無理だ。昨日まで正しいと思っていたものを疑うには、時間がいる。
ノエルは、写真を一枚ずつ確認していた。
「宮田青果は、看板の角に若草色。魚辰は藍の縁取り。山吹文具は文字の影が黄色です」
「ノエルちゃん、記憶力えぐ」
「写真があるので」
「写真見ても、普通そこまでわかんない」
ノエルは少し困った顔をした。
「祖母が、色を見る時は端を見なさいと言っていました。中心は誰でも見る。端に、その人の癖が出ると」
莉愛は刷毛を止めた。
いい言葉だと思った。
人も同じだ。
中心にある肩書きや評判ではなく、端に出る癖。謝る時の手、笑いそうになる口元、怖い時に握る指。そういうところに、本当が残る。
昼過ぎ、律が生徒たちを連れてきた。
全校集会で声を上げた子たちだ。赤いミサンガの律、髪留めの女子、手ぬぐいの男子、写真を撮られるのが怖いと言っていた一年生。彼らは最初、商店街の人たちに遠慮していたが、宮田さんが「若い手は貴重だぞ」と笑うと、少しずつ動き始めた。
律は袖をまくり、赤いミサンガを見せた。
「今日は、見えててもいいですか」
「もちろん」
「先生に見られたら」
「申請中って言う。あと、今は校外活動」
「強い」
「律くんも強い」
律は照れたように笑った。
その笑顔を、美玲が少し離れた場所から見ていた。
莉愛は彼女へ近づく。
「美玲ちゃんも塗る?」
「私は」
「上手い下手じゃなくて、一筆」
「……では、端だけ」
美玲は山吹文具のシャッターに、細い黄色の線を引いた。
まっすぐで、きれいで、少し硬い線だった。
「美玲ちゃんっぽい」
「どういう意味ですか」
「ちゃんとしてる。でも、ちょっと緊張してる」
「見ないでください」
「見るよ。ウチ、顔見る係だから」
美玲は困ったように顔をそらした。
準備の途中、芹が小さなカードを配り始めた。
撮影OK。
顔はNG。
手元だけOK。
撮影不可。
四種類のカードだ。芹が前の晩に、自分で考えて作ってきたという。白い紙に手書きの文字。端には、小さな色鉛筆の線が引かれている。
「これを持っていれば、聞かれる前に意思表示できます」
「天才」
「天才ではないです。怖かっただけです」
「怖かったから作れたやつ、強い」
芹は照れたようにうつむいた。
そのカードは、思った以上に役に立った。
商店街の人たちは最初「別に撮ってもいいよ」と軽く言った。けれど、芹が「顔が写っていいですか。店名はいいですか。SNSに上げていいですか」と一つずつ確認すると、少し考え直す人もいた。
魚辰の奥さんは、撮影OKのカードを持ちながら言った。
「顔はいいけど、手元を大きく撮って。年寄りの顔より、魚を捌く手のほうが店だから」
宮田さんは、顔はNGのカードを首から下げた。
「髪が薄いからな」
「そこ?」
「そこだよ」
笑いが起きる。
でも、その笑いも、本人が選んだ上での笑いだった。
莉愛は芹のカードを一枚、自分の胸に貼った。
顔OK。
ただし悪意ある切り取り禁止。
芹が慌てた。
「そんな項目ないです」
「手書きで足した」
「運用が乱れます」
「美玲ちゃんみたいなこと言う」
「えっ」
美玲が遠くで「聞こえています」と言った。
その声に、また小さな笑いが広がった。
ノエルは、写真館跡のシャッターに空色の細い線を引いていた。
莉愛は近づき、隣にしゃがむ。
「大丈夫?」
「大丈夫ではありません」
「正直でよろしい」
ノエルは刷毛を止めた。
「ここに色を塗ると、祖母の店を勝手に変えている気がします」
「うん」
「でも、塗らないと、誰もここが写真館だったと気づかない気もします」
「うん」
「どちらも、怖いです」
莉愛は空色の塗料缶を見た。
「じゃあ、怖いほうじゃなくて、後で見たいほう選ぶ?」
「後で見たいほう」
「十年後のノエルちゃんが見て、あ、ここから逃げなかったなって思えるほう」
ノエルは少し黙った。
そして、もう一筆、シャッターの端に空色を乗せた。
細い線だった。
でも、確かな線だった。
夕方近く、怜司から莉愛へ短いメッセージが来た。
『搬入口の時間が早まりました。明日の午前九時半』
続けて、
『見える位置に、別紙があるとは限りません』
莉愛は笑った。
『見える位置にあったら見る。なかったら別の手』
少し間が空いて、返事。
『無茶です』
『知ってる』
それきり返事はなかった。
でも、怜司が知らせたという事実だけが残った。
その時、アーケードの入口に黒い車が停まった。
灰原不動産のロゴが入っている。
降りてきたのは、スーツ姿の男性たちだった。真ん中にいるのは、灰原宗一郎。怜司とノエルの父であり、灰原不動産の専務。
怜司も後ろにいた。
宗一郎はシャッターの色を見て、わずかに眉をひそめた。
「無許可の塗装ですか」
商店街の空気が一瞬で固まる。
宮田さんが前へ出た。
「うちのシャッターだ。俺が許可した」
「個別店舗の所有権は尊重します。ただし、再開発予定区域内で景観を乱す行為は控えていただきたい」
「景観?」
莉愛は笑った。
「灰色にしてから言う?」
宗一郎の視線が莉愛へ向く。
「あなたが瀬戸莉愛さんですね。未成年の生徒を巻き込んだ活動は感心しません」
「本人たち、けっこう自分で来てます」
「それを誘導と言います」
「写真切り抜いて炎上させるのは何て言うんですか」
宗一郎は表情を変えなかった。
「根拠のない発言は控えなさい」
美玲の手が震えた。
莉愛は気づいた。
宗一郎は、美玲の父の会社を握っている。ノエルの家も、怜司の将来も、商店街の土地も。いろんな人の弱い場所を知っている人間の顔だ。
怜司が一歩前へ出る。
「父さん。今日は、夜市準備の様子を確認するだけでは」
「怜司。余計な口を挟むな」
怜司は黙った。
けれど、その拳は握られていた。
宗一郎はノエルへ目を向ける。
「ノエル。帰りなさい」
ノエルの顔が白くなる。
それでも、彼女は刷毛を置かなかった。
「私は、手伝います」
「灰原の名で、反対運動に加わるのか」
「これは、反対運動だけではありません」
「言葉遊びはいい」
宗一郎の声が低くなる。
「君の祖母の写真館は、すでに終わった店だ。終わったものに縛られるな」
その瞬間、莉愛はノエルの手が震えるのを見た。
怒りより先に、胸が痛んだ。
終わった。
その言葉は、簡単に人を切る。
ノエルは唇を噛んだ。
「終わったとしても、なかったことにはなりません」
小さな声だった。
でも、確かに言った。
宗一郎の目が細くなる。
「怜司」
「はい」
「明日の説明会で、商店街の現状資料を追加しなさい。このような無責任な活動が行われていることも含めて」
怜司は一瞬、莉愛たちを見た。
「……承知しました」
宗一郎たちは去っていった。
車が見えなくなるまで、誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのは、美玲だった。
「録れました」
彼女はスマホを握っていた。
莉愛が振り向く。
「今の?」
「はい。父の仕事のことを直接言わせるつもりでしたが、そこまでは。ただ、広報部のメールと合わせれば、圧力の証拠にはなるかもしれません」
美玲の手は震えている。
けれど、スマホを離さなかった。
「美玲ちゃん」
「怖いです」
「うん」
「でも、私ももう、知らなかったことにはできません」
莉愛はうなずいた。
夜が近づくにつれ、シャッターの色は少しずつ増えていった。
藍。
若草。
山吹。
桃。
空色。
塗りムラもある。はみ出しもある。商店街の人が「昔はもっと濃かった」と言い、生徒が「写真だとこっちに見える」と言い合う。完璧ではない。
でも、誰かが自分の記憶を差し出している。
それが、莉愛には何より強く見えた。
夜九時、準備が一段落したころ、怜司が一人で戻ってきた。
誰もいないアーケードで、彼は色の戻ったシャッターを見ていた。
莉愛は近づく。
「父さんに怒られない?」
「怒られます」
「じゃあ何しに来たの」
「確認です」
「何の」
「僕が、何を壊そうとしているのか」
莉愛は黙った。
怜司の顔には、いつもの硬さが残っている。けれど、その奥に疲れが見えた。
「数字は嘘をつきません」
「うん」
「老朽化も、空き店舗率も、維持費も、本当です」
「うん」
「でも、数字に入れていないものがあることも、わかっています」
怜司は、ノエル写真館の空色の線を見た。
「ノエルは、小さいころよく笑っていました。僕は、それを覚えている」
「言ってあげた?」
「言える立場ではありません」
「立場って便利だね」
「あなたはそればかり言う」
「便利すぎるから」
怜司は苦笑しかけて、やめた。
「明日の説明会で、父は住民同意書を出します。景観協定の保存条件は伏せたままです」
「それ、言っていいの?」
「言ってしまいました」
「じゃあ、もうちょい言って」
怜司は莉愛を見た。
「地下保管庫の書類は、明日の午前、説明会場へ運ばれます。その時なら、搬入口で目に入るかもしれない」
「盗めってこと?」
「見えるかもしれない、と言っただけです」
「怜司、言い方ずるい」
「灰原なので」
初めて、少しだけ冗談のように聞こえた。
莉愛は笑った。
「ノエルちゃんに言ってあげなよ。笑ってたって覚えてるって」
「考えておきます」
「それ、だいたい言わないやつ」
「……言います」
怜司はそう言って、夜のアーケードを去っていった。
セト・コスメへ戻ると、ノエルが看板の下で待っていた。
「お兄様でしたか」
「うん」
「何を話しました?」
「明日、勝ち筋ちょっと増えた」
ノエルは不安そうに莉愛を見る。
莉愛は、塗りかけの桃色のシャッターを指した。
「明日、全部返してもらお。色も、記録も、勝手に終わったことにされた話も」
ノエルは空色のリボンを握った。
「はい」
アーケードの奥で、夜市用の提灯が一つだけ試しに灯った。
赤い光が、灰色だった通りに落ちる。
明日、この場所で全部が決まる。
莉愛は透明の爪に、桃色を一筆だけ乗せた。
決戦用の派手な色ではない。
それでも、今の自分で行くための色だった。
店の奥で、ノエルが明日の展示順を確認していた。
最初に商店街の古い写真。
次に、各店の色。
その次に、校則申請の話。
最後に、景観協定と住民同意書。
感情から入って、証拠へ進む。
レオンがそう言った。莉愛は最初「証拠からじゃないの?」と聞いたが、レオンは首を振った。
「数字だけなら、灰原不動産のほうが強い。先に、何の数字なのか見せる」
何のための安全か。
誰のための清潔か。
何を残すための再開発か。
そこを見せてから、書類を出す。
美玲は説明用の文面を整えた。硬すぎる言葉を莉愛が削り、軽すぎる言葉を美玲が戻す。二人で言い合いながら、最後にはちょうどいい文章になった。
『この街をそのまま残したいのではありません。何を残すかを、勝手に決められたくないのです』
ノエルがそれを読んで、静かにうなずいた。
「これなら、言えます」
莉愛は彼女の空色のリボンを見た。
「明日、つける?」
「つけます」
「学校じゃないしね」
「はい。それに、私が選びました」
その言葉だけで、夜市前夜の全部が少し報われた気がした。
けれど、報われた気がしただけで眠れるほど、莉愛は図太くなかった。
深夜、セト・コスメの二階で布団に入っても、目が冴えていた。天井の木目を数え、スマホを伏せ、また手に取る。通知を見るたびに心臓が跳ねる。
炎上はまだ残っている。
夜市を茶化す投稿もある。
灰原不動産を擁護するコメントもある。
莉愛の髪や爪だけを切り取って笑う言葉もある。
それでも、別の投稿も増えていた。
『撮影カード、いい取り組み』
『商店街の色、見に行きたい』
『校則申請の話、うちの学校にもあるのかな』
全部が味方ではない。
でも、全部が敵でもない。
莉愛はそのことを、何度も自分に言い聞かせた。
スマホが震えた。
ノエルからだった。
『眠れません』
莉愛はすぐに返した。
『ウチも』
少し間が空く。
『明日、声が出なかったらどうしましょう』
莉愛は、すぐに「大丈夫」と打ちそうになって、消した。
大丈夫かどうかは、明日にならないとわからない。
だから、正直に返す。
『出なかったら、隣にいる。出るまで待つ。無理なら読む』
また少し間が空いた。
『それなら、行けます』
莉愛は画面を見て、胸がぎゅっとなった。
行ける。
勝てる、ではない。
怖くない、でもない。
行ける。
その言葉が、今は一番強かった。
朝になれば、搬入口で書類を見る。
昼になれば、展示を整える。
夜になれば、ステージに立つ。
莉愛は布団の中で、自分の桃色の爪を見た。
明日の自分が震えても、この色だけは自分で選んだものだ。
そう思うと、少しだけ眠れた。
夢の中で、莉愛は灰色の体育館にいた。
壇上には誰もいない。客席もない。ただ、床いっぱいに色見本帳のページが散らばっている。拾おうとすると、ページは紙ではなくシャッターになり、重くて持ち上がらない。
困っていると、ノエルが隣に来た。
夢の中のノエルは、空色のリボンを結んでいる。声は小さいけれど、はっきりしていた。
「全部は持てません」
「じゃあどうする?」
「ここに置きます。見えるように」
目が覚めた時、外はまだ薄暗かった。
莉愛は布団の中でしばらくその夢を覚えていた。
全部を背負わなくていい。
でも、見えるようにはできる。
それが今日のやり方だ。
起き上がると、スマホにノエルから一通だけメッセージが来ていた。
『おはようございます。行けます』
莉愛は笑って返した。
『行こ』
午前九時十五分、莉愛たちは説明会場の裏手にいた。
搬入口には、灰原不動産の社員が資料箱を運び込んでいる。正面から近づけば止められる。だから莉愛たちは、宮田さんが貸してくれた台車に塗料缶を乗せ、夜市準備の業者みたいな顔で通りの端を歩いた。
「顔、普通にして」
「莉愛さんが一番普通ではありません」
「ノエルちゃん、今それ言う?」
小声で言い合いながら、視線だけを箱へ向ける。
怜司は社員の列の後ろにいた。莉愛たちを見ても、表情を変えない。ただ、持っていたファイルを一瞬だけ傾けた。
箱の側面に貼られたラベルが見えた。
住民同意書控え。
景観保存条件別紙。
レオンがすぐにメモを取る。
莉愛は息を詰めた。
別紙は、ある。
配られていないだけで、存在している。
その事実だけで、夜のステージで言えることが変わる。
社員の一人がこちらを見た。
莉愛は反射的に塗料缶を持ち上げた。
「夜市準備でーす」
軽い声。
でも、心臓は全然軽くなかった。
角を曲がって見えなくなった瞬間、ノエルが小さく息を吐いた。
「ありました」
「うん」
「本当に、隠していました」
その声は震えていたが、折れていなかった。
莉愛は頷く。
「夜、返してもらお」
その言葉に、ノエルは空色のリボンを握った。
怜司は遠くで社員に呼ばれ、こちらを振り返らずに建物の中へ入っていく。
味方とは、まだ呼べない。
でも、完全な敵でもない。
その曖昧さが、今は少しだけありがたかった。
白か黒かではなく、間にある色を見つける。
今日の夜市でやろうとしていることは、きっと人間関係にも同じなのだ。
莉愛は台車を押し直した。
塗料缶が小さく鳴る。
決戦の日の朝は、思ったより普通に始まっていた。
普通に始まるから、怖さも少しだけ扱いやすい。
特別な勇気が降ってくるわけではない。
台車を押す。
塗料を運ぶ。
資料を見る。
隣の子が歩いているか確認する。
その積み重ねで、夜まで行くしかない。
空は、少しずつ白んでいた。
街も、少しずつ起きていく。




