第6話 盛った写真が炎上する夜
悪意ある切り取りが、莉愛たちを追い詰める。
炎上は、夜に来た。
最初に気づいたのは律だった。セト・コスメのグループチャットに、震えた文字が届く。
『これ、莉愛さんですか』
リンクを開いた瞬間、莉愛の胃が冷たくなった。
動画ではない。
写真だった。
セト・コスメのカウンターで、莉愛が白灰学園の生徒の手に色を乗せている。実際には、律のミサンガ申請のために袖口を整えていただけだ。けれど切り抜かれた写真では、莉愛が生徒に派手な装飾を施しているように見える。
添えられた文章は、もっと悪質だった。
『商店街再開発反対派、学園生徒を利用か。ギャル店員が校則違反メイクを指南』
ギャル店員。
校則違反。
利用。
言葉の選び方に、悪意がある。
コメントは、すでに増え始めていた。
『こういうのがいるから商店街って古い』
『生徒を巻き込むなよ』
『白灰学園も落ちたな』
『灰原ノエルも関わってるらしい』
ノエルの名前が出たところで、莉愛はスマホを伏せた。
店内には、ノエル、律、レオンがいた。閉店後、全校集会の記録を整理していたところだった。カウンターには申請書のコピーと、色見本帳の目次の写しが並んでいる。
律は顔を青くしている。
「僕のせいです。僕が相談に来たから」
「違う」
莉愛は即答した。
「悪いのは撮ったやつと、切り抜いたやつ」
ノエルは黙って画面を見ていた。
「私の名前も出ています」
「見るな」
「見ます。見ないと、何をされているのかわかりません」
その声があまりに静かで、莉愛は止められなかった。
ノエルは一つひとつコメントを見ていく。傷ついていないわけがない。指先が震えている。それでも彼女は、目を逸らさなかった。
レオンが自分のノートパソコンを開いた。
「元画像の出どころを探す」
「できるの?」
「完全には無理。でも、投稿された画像に残った情報を見るくらいなら」
彼は淡々とキーボードを打った。
数分後、眉をひそめる。
「画像のメタデータはほとんど消されている。ただ、ファイル名が変だ」
「ファイル名?」
「h_shiraha_meeting_03。白灰説明会資料と同じ命名規則だ」
莉愛は目を細めた。
「灰原不動産?」
「断定はできない」
「でも近い」
その時、店の外で何かが鳴った。
がしゃん。
全員が振り向く。
莉愛がドアを開けると、シャッターに紙が貼られていた。
『生徒を利用するな』
『商店街の恥』
『ギャルは帰れ』
赤いペンで書かれた文字。
まだインクが乾いていない。
ノエルが息を呑んだ。
莉愛は紙を剥がさなかった。
「写真撮って」
「え?」
「証拠。剥がす前に全部」
レオンがすぐにスマホを構える。
律は震えながら、周囲を見回した。
「まだ近くにいるかもしれません」
「追わない」
莉愛は自分に言い聞かせるように言った。
追ったら、たぶん怒鳴る。
怒鳴ったところだけ撮られたら、また切り取られる。
今は、証拠を残す。
写真を撮り終えると、莉愛は貼り紙を一枚ずつ剥がした。紙の裏にテープがべったり残り、昨日拭いたばかりのシャッターの桃色が少し剥げた。
その傷を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。
怒りだ。
でも、同時に怖かった。
自分のせいで祖母の店が傷ついた。
自分のせいでノエルがまた名前を出された。
自分のせいで律が青ざめている。
「莉愛さん」
ノエルが言った。
「私が、いなければ」
その言葉が出る前に、莉愛は振り向いた。
「それ禁止」
「でも」
「ノエルちゃんがいなければ、とか、ウチがいなければ、とか、そういう言い方してると、悪いやつがめっちゃ楽する」
ノエルは口を閉じた。
莉愛は声を落とす。
「誰かを黙らせたい時に、その人が自分から消えてくれたら、相手の勝ちじゃん」
「勝ち、ですか」
「そう。だから、消えないで」
ノエルは何も言わなかった。
莉愛はすぐに反論文を投稿したかった。
違う。
利用していない。
校則違反メイクなんてしていない。
頭の中には言いたいことが山ほどあった。けれど、レオンが首を横に振った。
「感情だけで返すと、相手の狙い通りになる」
「わかってるけど、黙ってたら認めたみたいじゃん」
「だから、黙るんじゃない。順番を決める」
レオンはノートパソコンの横に紙を置いた。
時系列。
写真の撮影位置。
相談者本人の許可。
校則申請の条文。
貼り紙被害の記録。
「この五つをそろえてから出す」
「時間かかる」
「炎上は速い。でも、事実を急がせると崩れる」
悔しいが、その通りだった。
律が袖を握りしめた。
「僕、名前を出してもいいです」
「律くん」
「僕の相談だったって言えば、莉愛さんが勝手にやったんじゃないって」
「だめ」
莉愛は即答した。
律が驚く。
「なんでですか」
「君の名前を出すかどうかは、君が落ち着いてから決める。今、罪悪感で言ってる」
律は言葉を失った。
ノエルが小さくうなずく。
「罪悪感の許可は、あとで本人を傷つけます」
その言葉は、ノエル自身の痛みから出ているようだった。
莉愛はスマホを開き、相談に来た生徒たちへ一人ずつメッセージを送った。
『今、店の写真が悪く切り取られて出ています。説明にあなたの話を使っていいか、使うならどこまでか、落ち着いてから教えてください。今すぐ返事しなくて大丈夫』
送信する指が震えた。
自分のせいで、また誰かの怖さを呼び起こしている。
数分後、芹から返事が来た。
『名前は出さないでください。でも、写真が怖い子がいることは書いていいです』
髪留めの女子からも来た。
『母のことは少しだけなら。黄色の髪留めって書いてください』
手ぬぐいの男子は、写真を一枚送ってきた。祖父の店の前で、幼い彼がかき氷を食べている写真だった。
『店名は出していいです。祖父、目立つの好きだったので』
莉愛は笑いそうになって、泣きそうになった。
みんな怖い。
それでも、少しずつ自分で決めている。
「ノエルちゃん」
「はい」
「ウチ、今まで目立つのって、自分が見られることだと思ってた」
「違うのですか」
「たぶん、誰かの見えなかったものまで一緒に見えるようにすることもある」
ノエルはその言葉を、ゆっくりノートに書いた。
「記録しなくていいって」
「忘れたくないので」
レオンが画面を見たまま言う。
「投稿アカウント、過去にも似た記事を拡散している。商店街再開発に批判的な人を、感情的な迷惑者として扱う内容が多い」
「灰原不動産と関係ある?」
「直接の証拠はない。でも、投稿直後に同じ文面を引用したアカウント群がある。拡散の初速が不自然だ」
「業者?」
「断定しない」
「レオン、その言い方ちょっと癖になってきた」
「断定しない」
緊張していた律が、少しだけ笑った。
その笑いで、店内の空気が一瞬だけほどける。
けれど、すぐにノエルのスマホが震えた。
画面を見たノエルの顔から、血の気が引いた。
「どうした」
ノエルは画面を莉愛に見せなかった。
「家からです」
「帰れって?」
「はい。それと……写真館のものを、勝手に持ち出すなと」
まだ誰も、家に写真箱のことを話していない。
莉愛の背筋が冷えた。
「見張られてる?」
「わかりません」
ノエルはスマホを胸に抱いた。
莉愛は、今すぐ一緒にいてと言いたかった。けれど、それを言うことがノエルの選択を奪うのではないかと思って、言葉が喉で止まる。
代わりに言った。
「帰るなら、着いたら連絡。帰りたくないなら、ここにいていい」
ノエルは長く迷った。
その迷う時間を、誰も急かさなかった。
やがてノエルは、苦しそうに言った。
「今日は、帰ります。逃げたと思われたくないので」
莉愛は頷いた。
「じゃあ、帰るって決めたノエルちゃんを尊重する。でも、連絡は絶対」
ノエルは小さくうなずいた。
その夜は、解散するしかなかった。
レオンは画像の解析を続けるため資料室へ戻り、律は姉に迎えに来てもらった。ノエルは灰原家へ帰ると言った。
「送る」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔してる」
「……でも、帰らないと、お兄様が」
怜司。
莉愛は一瞬迷ったが、ノエルの意志を無視したくなかった。
「着いたら連絡して」
「はい」
ノエルはそう言って帰った。
連絡は来なかった。
夜十時。
十一時。
既読もつかない。
莉愛は何度もスマホを見た。胸がざわざわして、店の片づけが手につかない。
十一時半、律から連絡が来た。
『ノエル先輩、家に帰ってないそうです』
莉愛は椅子から立ち上がった。
店を飛び出す。
夜の商店街は、昼間よりずっと暗い。アーケードの電灯は半分しか点いていない。シャッターの貼り紙跡が、街灯の下でまだらに光っている。
「ノエルちゃん!」
返事はない。
莉愛は写真館の前へ走った。
シャッターは閉まっている。
けれど、裏路地へ回ると、細いドアが少しだけ開いていた。
中に入る。
暗室の奥で、ノエルは座り込んでいた。
膝を抱え、古い写真の箱を抱いている。
莉愛は息を切らしながら言った。
「いた」
ノエルは顔を上げた。
目が真っ赤だった。
「すみません」
「謝る前に、連絡」
「スマホ、見られたくなくて」
「誰に」
「家に」
ノエルは箱を抱きしめる。
「帰ったら、もう関わるなと言われると思いました。写真も、目次も、全部渡せと」
「怜司?」
「お兄様ではありません。父です」
灰原不動産の家。
ノエルの声が震える。
「私は、灰原の名前で守られていると言われてきました。でも、その名前で、商店街の人には嫌われます。学校では、会社の子だと見られます。家では、写真館の孫だと疑われます。どこにいても、私の顔を見てくれる人がいません」
莉愛は黙って聞いた。
ノエルは続ける。
「莉愛さんは、顔を見たいと言ってくれました。でも、見られるのが怖いです。見られたら、何もないとわかってしまう気がする」
その言葉は、莉愛の胸にも刺さった。
派手にしていると、中身がないと言われる。
地味にしていると、何もないと思われる。
どちらにいても、人は勝手に決める。
莉愛はノエルの隣に座った。
埃っぽい床だった。
スカートが汚れる。
でも、どうでもよかった。
「ウチもさ、見られるの怖いよ」
「莉愛さんが?」
「うん。ギャルだから平気そうに見えるだけ。派手にしてるのも、好きだからだけど、好きって言い切るの怖い時ある。笑われたら痛いし」
ノエルが莉愛を見る。
「それでも、やめないんですか」
「やめたら、笑ったやつのほうが正しかったみたいになるじゃん」
莉愛は自分の爪を見た。
貼り紙を剥がした時についた糊で、ラメが少し曇っている。
「でも今日、ちょっと折れた」
「私のせいで」
「違うって。折れたのは、ウチの心がちゃんとあるから。折れたら直せばいい。ネイルもそう」
莉愛は笑おうとして、うまく笑えなかった。
ノエルが箱を開ける。
中には、古い写真が何枚も入っていた。
青いリボンをつけて笑う幼いノエル。
セト・コスメの前で口紅を選ぶ若いサチ子。
夜市で踊る人たち。
写真館の祖母が、カメラを下ろして笑っている一枚。
その下に、封筒があった。
『サチ子さんへ』
莉愛の祖母宛てだ。
ノエルが差し出す。
「ここに隠してありました。祖母が、瀬戸さんに渡すつもりだったのかもしれません」
莉愛は封筒を開けた。
中には、色見本帳の一ページが入っている。
セト・コスメ 桃。
そのページには、祖母の店の写真と、手書きの説明があった。
『この店の桃色は、若い子のためだけではない。仕事に戻る人、葬儀のあと初めて口紅を買う人、娘の結婚式で泣きたくない人。顔を上げるための色』
莉愛は、息ができなくなった。
祖母の店は、ただ化粧品を売っていたのではない。
誰かが顔を上げるための色を、選ぶ場所だった。
ノエルが言う。
「莉愛さん」
「うん」
「私、逃げるのをやめたいです」
「うん」
「でも、一人では無理です」
「一人でやんなくていい」
ノエルは、初めて莉愛の手を握った。
冷たい手だった。
でも、力があった。
「明日、家で知っていることを話します。灰原不動産の資料室に、色見本帳の残りがあるかもしれません」
「行ける?」
「行けません。でも、見たことがあります。棚番号なら覚えています」
「それ、めっちゃ強い」
莉愛は笑った。
今度は、少しだけちゃんと笑えた。
その時、暗室の外で足音がした。
怜司だった。
「ノエル」
彼は二人を見て、ため息をついた。
怒鳴らなかった。
それが意外で、莉愛は身構える。
怜司は低い声で言った。
「父が、君を探している」
「帰ります」
「今帰れば、資料のことを聞かれる」
「……」
「だから、今日は僕が送ったことにする。セト・コスメにいたとは言うな」
ノエルが目を見開く。
莉愛も驚いた。
「怜司、あんた」
「勘違いしないでください。騒ぎが大きくなると会社にも不利益です」
「そういう言い方しかできないわけ?」
「そういう言い方なら、まだできます」
その声には、少しだけ疲れがあった。
怜司もまた、何かに縛られている。
莉愛はそう思ったが、今は踏み込まなかった。
ノエルは写真の箱を胸に抱き、立ち上がった。
「莉愛さん。明日、話します」
「うん。待ってる」
ノエルと怜司が去ったあと、莉愛は暗室に残った。
手には、セト・コスメの桃色のページ。
炎上は消えていない。
貼り紙の跡も残っている。
ノエルの家の問題も、学校の問題も、何一つ終わっていない。
でも、莉愛は今日初めて、この物語の中心に触れた気がした。
スマホには通知がたまり続けていた。
知らない人からの悪意。
心配する友達からのメッセージ。
相談に来た生徒たちからの短い返信。
『芹です。名前は出さないでほしいけど、写真が怖いって話は使っていいです』
『黄色の髪留めの者です。母のこと、少しだけなら大丈夫です』
『手ぬぐい、祖父の店名出していいです。祖父なら目立てって言うと思うので』
その一つひとつを見て、莉愛は暗室の床に座り込んだ。
誰かが自分の痛みの範囲を、自分で決めて送ってきている。
名前は出さない。
でも話は使っていい。
写真はだめ。
店名はいい。
線引きはそれぞれ違う。
それでよかった。
みんな同じ色に塗る必要はない。
莉愛はノートを開き、ひとつずつ書き写した。スマホに残すだけでは足りない気がした。手で書くと、その人が差し出した勇気の重さが少しわかる。
律からは、姉と一緒に撮ったミサンガの写真が届いた。
画面の中で、姉弟の手首に同じ赤い糸が巻かれている。
『姉が、莉愛さんにありがとうって』
莉愛は返信に迷って、結局こう打った。
『こちらこそ。切らないでくれてありがとう』
送信してから、またページを見た。
顔を上げるための色。
自分が今日守りたかったのは、祖母の店だけではない。
誰かが「これは自分のものだ」と言える小さな色だった。
その時、レオンから新しいメッセージが入った。
『画像拡散の初動、灰原不動産の広報資料と同じ時間帯に集中している。証拠としては弱いが、説明会資料と照合する価値がある』
続いて美玲。
『広報部メールの原本を確保します。ただし、父の会社名はまだ出さないでください』
そして、最後にノエル。
『家に着きました。お兄様が送ってくれました。明日、資料室のことを話します』
莉愛は大きく息を吐いた。
よかった。
たった三文字で返すには、感情が多すぎた。
だから少し考えて、送った。
『おかえり。明日も一緒に怖がろ』
ノエルからの返事は、短かった。
『はい』
その「はい」が、昨日までより少しだけ強く見えた。
莉愛は暗室の小さな流しで手を洗った。
貼り紙の糊が、まだ指先に残っている。こすっても、爪の端に少しだけ引っかかった。桃色のラメはところどころ剥げ、透明な地爪が見えている。
いつもなら、すぐ塗り直した。
欠けたネイルはテンションが下がる。中途半端な自分を見られるみたいで嫌だった。
でも今日は、その剥げた爪をしばらく見ていた。
盛ったものが剥がれたあとに残る自分。
そこを見ないまま、もう一度色を乗せても、たぶん同じところで怖くなる。
莉愛は反論文の下書きを開き、最初に書いていた強い言葉を消した。
怒っている。
怖い。
悔しい。
その三つは消さない。
でも、誰かを殴る言葉にはしない。
ノエルが見つけた桃色のページを、莉愛はもう一度封筒にしまった。
明日、祖母に電話しよう。
怒られるかもしれない。
笑われるかもしれない。
それでも、聞きたい。
すっぴんの自分に、次は何を乗せればいいのか。
暗室を出る前に、莉愛は壁に貼られていた古い紙を一枚見つけた。
『撮る前に、聞くこと』
ノエルの祖母の字だろうか。箇条書きが続いている。
笑ってほしいか。
笑わなくていいか。
残していいか。
誰に見せていいか。
写真館の壁に、ずっと前から答えが貼ってあった。
勝手に撮らない。
勝手に使わない。
勝手に意味を決めない。
莉愛はその紙をスマホで撮った。
炎上に対する一番まっすぐな反論は、ここにある気がした。
写真を撮る前に、聞くこと。
それは、メイクの前にも同じかもしれない。
盛っていいか。
どこまで変えたいか。
何を残したいか。
誰に見せたいか。
莉愛は、祖母がいつも鏡の前で相手の話を長く聞いていた理由を、少しだけ理解した。
色を乗せるより先に、聞く。
それを飛ばすと、盛ることも、撮ることも、簡単に暴力になる。
莉愛はスマホのメモに書いた。
明日の相談室ルール。
一、先に聞く。
二、本人が決める。
三、勝手に意味を決めない。
書いてみると、当たり前のことばかりだった。
でも、その当たり前を守らない人がいるから、ノエルは傷ついた。
律も、芹も、名前を出さない誰かも、怖がっている。
当たり前を、ちゃんと当たり前として店の真ん中に置く。
明日の莉愛にできることは、まずそれだった。
色は、飾りではない。
顔を上げるための理由だ。
莉愛はページをそっと封筒に戻した。
「好きだけは、捨てない」
暗室の中で、桃色の記録が静かに息をしていた。




