スピンオフ「10年後の塹壕:泥濘と電子の海」
【作中時間】2036年10月(開戦から10年4ヶ月)
【場所】台湾中部・台中市外縁部 第3防衛線(地下塹壕)
空を覆う「プラスチックの羽音」
「……耳栓を押し込め。また『羽アリ』の群れが来るぞ」
泥と自分の排泄物、そして強烈なオゾンの臭いが染み付いた塹壕の底で、分隊長の陳は、ひび割れた声で若い兵士たちに怒鳴った。
彼は2026年の「最初の48時間」を台北の学生として経験し、手製のドローンを飛ばしていた若者の一人だった。しかし10年が経過した今、彼の顔には深いシワが刻まれ、その目は感情を完全に失ったガラス玉のように濁っている。
『ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……』
灰色の雲に覆われた台中の上空から、無数の巨大な蚊が飛び回るような、脳髄を直接掻き毟る不快な高周波ノイズが降り注いできた。
中国大陸の無人工場から、毎日数万機という単位で吐き出される「フロントライン・プリンティング(前線3Dプリント)ドローン」の群れだ。機体は段ボールと再生プラスチックの張り合わせ。中には粗悪なモーターと、手榴弾が1個だけ無造作にテープで巻き付けられている。
「第4セクター、HPM(高出力マイクロ波)エミッター、起動!」
陳の命令とともに、塹壕の端に据え付けられたパラボラアンテナ型の兵器が唸りを上げた。
ディーゼル発電機の黒煙とともに照射された見えないマイクロ波の壁に直撃し、上空の「羽アリ」たちが次々とショートを起こす。パラパラと、まるで枯れ葉のようにプラスチックの残骸が塹壕の周囲に降り注ぎ、着地の衝撃で無数の手榴弾が虚しい爆発音を立てた。
「……今日の群れは、AIの誘導すらない『盲目』か。ただ風に乗せて飛ばしてきただけだな」
傍らの兵士が、塹壕の縁から落ちてきた段ボールドローンの残骸を軍靴で踏み潰しながら吐き捨てた。
開戦当初の、あの恐るべき極超音速ミサイルやステルス戦闘機は、もう何年も見ていない。台湾(TSMC)の半導体インフラが消滅し、双方が世界経済の崩壊という地獄を共にした結果、最新鋭の兵器は「作れないし、維持できない」オーパーツと化した。
今、この戦場を支配しているのは、極限までコストを削ぎ落とした「粗大ゴミの雨」である。
ゾンビの突撃
「分隊長! 正面2キロ、動く熱源あり! デカいです!」
潜望鏡を覗いていた兵士が叫んだ。
陳は双眼鏡を構えた。
泥濘の無人地帯を、キャタピラから凄まじい摩擦音を立てながら、不格好な鉄の塊がこちらへ向かって突進してくるのが見えた。
中国軍の「59式戦車」。冷戦時代に作られた、骨董品のような旧式戦車だ。
しかし、砲塔には砲身がなく、代わりに大量のコンクリートブロックと、むき出しの起爆装置が溶接されている。搭乗用のハッチは分厚い鉄板で完全に塞がれ、「中」には誰も乗っていない。
「『ゾンビ』だ……! 対戦車チーム、レーザー誘導の準備をしろ!」
使い捨ての特攻無人戦車。人間の兵士なら絶対に怯むような十字砲火の中を、機械のゾンビは痛覚を持たずに真っ直ぐに突っ込んでくる。塹壕の壁を突き破って自爆させるのが奴らの目的だ。
「撃てッ!」
日本から細々と海路で補給され続けている、旧式だが信頼性の高い無誘導の対戦車ロケット弾が火を噴いた。
ロケット弾はゾンビ戦車のキャタピラに命中し、履帯を吹き飛ばした。鉄の塊は泥の中でバランスを崩し、塹壕のわずか500メートル手前で、数トンの爆薬とともに巨大な火柱を上げて大爆発を起こした。
凄まじい爆風と熱波が塹壕の上を通り過ぎる。降り注ぐ泥の雨を避けながら、陳は深く息を吐いた。
「……また鉄クズが一つ増えただけだ。連中、いつまでこんなガラクタを送り込んでくる気だ」
精神を削る兵器
物理的な攻撃が止んだ塹壕に、一瞬の静寂が訪れる。
しかし、現代の消耗戦において、真の恐怖は「静寂」の中にこそ潜んでいた。
『……お父さん? お父さん、どこにいるの? 早く帰ってきて……』
突然、陳の分隊の若い兵士が身につけていたタクティカル無線のスピーカーから、ノイズ混じりの幼い少女の声が響き渡った。
「あ……」
無線の持ち主である若い兵士が、泥だらけの手で無線機を握りしめ、顔面を蒼白にさせた。
「娘だ……俺の娘の声だ……! 台北の地下シェルターにいるはずの……!」
『お父さん、熱いよ、苦しいよ……助けて……』
声は、すすり泣きから絶叫へと変わっていく。
「やめろォォォッ!!」
若い兵士が半狂乱になって塹壕から飛び出そうとした瞬間、陳は彼の襟首を掴み、泥の中へ力任せに引き倒した。
「目を覚ませ、馬鹿野郎! お前の娘じゃない!」
陳は、無線の電源を強引に叩き割りながら怒鳴りつけた。
「敵のディープフェイク(AI合成音声)だ! 俺たちの個人情報をSNSの過去のデータから抜き取って、局地電波で『オーダーメイドの絶望』を直接流し込んできてるんだ! 騙されるな!」
「ですが……あれは、本当に娘の……!」
兵士は泥の中でうずくまり、子供のように泣きじゃくった。
陳は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
ミサイルで吹き飛ばされる方が、まだマシだったかもしれない。10年間の戦時体制において、中国軍が最も力を入れたのは、こういった「認知領域」への直接攻撃だった。
空には不気味な高周波を流す気球が24時間浮かび、無線からは家族の死を偽装する悲鳴が絶え間なく流れ続ける。肉体を殺す前に、人間の「心」を削り落とし、自死や狂気へと追いやるのだ。
終わりのない日常
陳は塹壕の壁に寄りかかり、配給された泥水のようなコーヒーを喉に流し込んだ。
上空を見上げると、厚い雲の隙間から、成層圏に浮かぶ敵のHAPS(高高度疑似衛星)の不気味な銀色の巨大な翼が、まるで死神のようにゆっくりと旋回しているのが見えた。
あの向こう側では、アメリカも日本も、そして中国自身も、国内の暴動や経済崩壊と戦いながら、ただ「相手が先に根を上げる」ことだけを祈って、今日も安物のドローンと砲弾を作り続けている。
「……分隊長。この戦争、いつ終わるんでしょうか」
泣き止んだ若い兵士が、空の薬莢を指で弄りながらポツリと聞いた。
「さあな」
陳は、自らのライフル(これも旧世代のM16のツギハギだ)の泥を拭いながら、短く答えた。
「俺たちが10年前のあの2日間を生き延びたのは、自由を守るためだった。……だが今じゃ、自分が生きているのか、それとも泥にまみれた『ゾンビ』の一部になっちまったのか、時々分からなくなるよ」
陳は、再び聞こえ始めた上空の「不快な羽音」に耳を澄ませた。
「……HPMのバッテリーを替えろ。次の『ゴミ掃じ』の時間が来るぞ」
泥とオゾン、そして狂気が支配する塹壕の日常。
最新兵器の輝きが消え失せた世界で、兵士たちはただひたすらに、心をすり減らしながら「終わらない今日」を戦い続けていた。




