第30話「分断工作」
【作中時間】2026年6月21日 05:00 - 06:00(台湾標準時 / UTC+8)
※日本標準時(JST / UTC+9):6月21日 06:00 - 07:00
※モスクワ標準時(MSK / UTC+3):6月21日 00:00 - 01:00
※中央ヨーロッパ夏時間(CEST / UTC+2):6月20日 23:00 - 24:00
05:05 ロシア・モスクワ/クレムリン(大統領府)
モスクワ標準時、午前0時5分。
赤い星が輝くクレムリンの尖塔の下、重厚なオーク材の扉で閉ざされた大統領執務室は、深夜にもかかわらず不気味な熱気を帯びていた。
巨大な長机の奥に深く腰を下ろしたロシア連邦大統領は、無表情のまま、壁面のモニターに映し出された台湾海峡の惨状を見つめていた。燃え盛る中国の輸送船団、そして台北港からなだれ込む重戦車部隊。
その映像の横には、アメリカ軍の空母打撃群の配置や、沖縄周辺での日米の激しい防空戦闘のデータが、ロシア軍参謀本部(GRU)によってリアルタイムで更新され続けている。
「……習近平の同志たちも、随分と派手に出血しているようだな」
大統領は、氷のように冷たい青い瞳を細め、傍らに立つ安全保障会議書記に向かって静かに言った。
「はい、大統領閣下」
書記が恭しく頷く。
「中国軍は第一波、第二波の上陸作戦で数万人の死傷者を出したと推定されます。しかし、彼らは台北港の橋頭堡を確保し、機甲部隊の揚陸を強行しました。……現在、アメリカのインド太平洋軍と日本の自衛隊は、完全に台湾および南西諸島に釘付け(ピンダウン)にされています」
「予定通りだ」
大統領は、机の上の書類を指先で弾いた。
「北京の独裁者は、自国の兵士の血を何リットル流そうとも、あの島を手に入れるだろう。そしてアメリカは、太平洋の同盟国を救うために、なけなしの弾薬と兵站を全て東アジアに注ぎ込まざるを得なくなっている。……ウクライナと中東で疲弊していたワシントンの『弾薬庫』は、今度こそ完全に底を突く」
ロシアにとって、中国による台湾侵攻は、アメリカの覇権を太平洋に引きずり込み、疲労骨折させるための「世紀の陽動作戦」でもあった。
数ヶ月前、モスクワと北京の間で結ばれた極秘の軍事・経済協力協定。そこには、中国が台湾へ侵攻した際、ロシアおよび北朝鮮がユーラシア大陸の反対側で「猛烈な牽制(グレーゾーンの挑発)」を行い、日米欧の戦力を極限まで分断させるという恐るべき密約が交わされていたのである。
「さて。我々も、同志(北京)との約束を果たすとしようか。ヨーロッパの腰抜け共が、アメリカに同調して中国に制裁を科したり、太平洋へ軍艦を派遣したりしないよう、彼らの首に巻かれた『鎖』を思い切り締め上げてやるのだ」
大統領は、冷酷な笑みを浮かべて命令を下した。
「国営ガスプロムに対し、ヨーロッパへ向けて細々と輸出を続けていたLNG(液化天然ガス)および、トルコ経由のパイプラインによる天然ガス供給の『完全停止』を命じろ。理由は『西側による中国への不当な内政干渉に対する、対抗措置』だ。
同時に、バルト海艦隊およびカリーニングラードの部隊に、戦術核兵器『イスカンデルM』の配備・移動演習を公然と開始させろ。……EUが中国に経済制裁を発動するなら、我々はそれを『ロシア・中国からなる多極化世界への経済的宣戦布告』と見なし、ヨーロッパを完全に凍死させると恫喝するのだ」
「承知いたしました。直ちに実行します」
モスクワの深夜。
ユーラシア大陸を支配するもう一つの核大国が、自らの巨大な資源と核の威嚇を武器にして、台湾海峡の戦火を「第三次世界大戦」の瀬戸際へと一気に押し上げる引き金を引いたのである。
05:20 ベルギー・ブリュッセル/EU(欧州連合)本部
中央ヨーロッパ夏時間、午後11時20分。
ブリュッセルのEU本部、エウロパ・ビルディングの円卓は、かつてないほどの混乱と怒号に包まれていた。
急遽召集されたEU首脳会議(欧州理事会)の議題はもちろん、台湾海峡で始まった日米中による未曾有の大戦争についてであった。
「……先ほど、ロシア政府より公式な声明が出されました。もしEUが中国に対する経済制裁(SWIFTからの排除など)に同調した場合、ロシアは欧州へのエネルギー供給を『恒久的に、かつ完全に』遮断し、さらにバルト三国およびポーランド国境における軍事的緊張を最高レベルに引き上げるとのことです」
EU外務・安全保障政策上級代表が青ざめた顔で報告すると、会議室は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
「プーチンのハッタリだ! 我々は絶対に屈してはならない!」
ポーランド首相が、机を拳で叩いて激昂した。
「台湾が倒れれば、次は間違いなく我々だ! アメリカが太平洋で血を流している今、ヨーロッパが中国に強力な制裁を科さなければ、民主主義の連帯は崩壊するぞ! 今すぐ中国への全禁輸措置と、NATOによる極東への艦隊派遣を決定すべきだ!」
バルト三国の首脳たちも一斉にこれに同調し、円卓の東半分は「対中・対露強硬論」で沸騰した。
しかし、円卓の中央に座る西欧の大国――ドイツ首相の顔は、苦渋に満ちて歪んでいた。
「……感情論で経済は回らないのだよ、ポーランド首相」
ドイツ首相が、重々しく、しかし疲れ切った声で口を開いた。
「過去数年間、我々はロシアからのパイプライン・ガスを断たれ、中東からのLNGと、アメリカからのシェールガスに頼ってなんとか産業を維持してきた。だが現在、アメリカのLNGタンカーは太平洋の米軍の兵站維持のために優先的に振り向けられ、中東のシーレーンも機能不全に陥りつつある。……ここでロシアからの最後のエネルギー供給ルートを絶たれ、さらに最大の貿易相手国である中国市場を完全に失えば、ドイツの、いやヨーロッパの重工業は『数週間以内』に完全停止する。失業者は数千万人に達し、我々の経済は文字通り崩壊するのだ」
「経済が崩壊するのを恐れて、独裁者の大量殺戮を黙認するというのか!」
フランス大統領もまた、ドイツの弱腰に苛立ちを隠せない。
「我々は理念の共同体のはずだ。人権と民主主義を売って暖を取るのか!」
「現実を見たまえ、大統領!」
ドイツ首相が声を荒らげた。
「理念で戦車は動かせないのだ! ウクライナ支援で、ヨーロッパの弾薬庫は既にスッカラカンではないか。我が軍のレオパルト戦車も、榴弾砲の砲弾も、太平洋に送る余裕など一発たりとも存在しない。その上、ロシアが戦術核をチラつかせているのだぞ。我々が太平洋の火事に首を突っ込めば、ヨーロッパそのものが二方面作戦の火の海に巻き込まれる!」
首脳たちの激しい議論は、平行線を辿るばかりであった。
アメリカの大統領からは「民主主義陣営として、即時の対中全面制裁に同調してほしい」という強烈な圧力がかかっていたが、ロシアの「ガス遮断と核の恫喝」という分断工作が見事にヨーロッパのアキレス腱を直撃したのだ。
「……合意は、不可能です」
数時間の紛糾の末、EU理事会議長が力なく首を振った。
「本日付での、EUとしての対中包括制裁の発動は……見送らざるを得ません。各国の独自判断に委ねる、という玉虫色の声明を出すのが限界です」
深夜のブリュッセル。
自由と民主主義の砦を自任するヨーロッパは、物理的な「資源」と「恐怖」の前に足並みを完全に乱され、事実上、台湾有事からの『沈黙の離脱』を余儀なくされた。
中国とロシアが企図した「分断工作」は、完璧な成功を収め、アメリカと日本は、巨大なユーラシア大陸の独裁国家群に対し、文字通り「孤立無援」で立ち向かうことを強いられることとなったのである。
05:40 北朝鮮・平壌/地下作戦指揮所
モスクワと北京が結んだ「陽動作戦」の楔は、ヨーロッパだけでなく、日本の目と鼻の先、朝鮮半島でも同時に打ち込まれていた。
平壌の地下深く。最高指導者の肖像画が掲げられた作戦指揮所において、朝鮮人民軍の将官たちが直立不動で居並ぶ中、人民服を着た最高指導者が、満足げにタバコの煙を吐き出していた。
「……北京の同志からの要請通り、アメリカと南朝鮮(韓国)、そして日本の連中を震え上がらせる準備は整ったか」
「はっ!」
人民軍総参謀長が、声を張り上げて答える。
「全軍に対し、戦闘準備態勢『第1号』を発令済みです! すでに非武装地帯(DMZ)の最前線に展開する長距離砲兵部隊(ソウルを火の海にする部隊)の坑道陣地のハッチを完全開放。さらに、内陸部において、移動式発射台(TEL)に搭載された新型の大陸間弾道ミサイル『火星17型』および『火星18型』計12基を、発射位置へ展開させました!」
スクリーンには、平壌の国営放送(KCTV)の女性アナウンサーが、激しい口調で声明を読み上げている映像が映し出されていた。
『――米帝と日本の反動勢力による、中国の神聖なる領土(台湾)への不当な武力介入を、我が共和国は断じて容認しない! もし米軍と自衛隊がこれ以上戦闘を継続するならば、我が共和国は、アジアの平和を守るため、ソウルおよび東京、そして米本土の主要都市を『核の火の海』に変える無慈悲な先制打撃を加えるであろう!』
「よろしい」
最高指導者は、冷笑を浮かべた。
「アメリカ軍は今、台湾海峡で手一杯だ。ここで我々がミサイルを発射する素振りを少し見せるだけで、在韓米軍(USFK)と韓国軍の数十万は、一歩も朝鮮半島から動けなくなる。日本の自衛隊も、我々のミサイルから身を守るために、イージス艦やパトリオット部隊を日本海側や首都圏に張り付けざるを得なくなるのだ」
北朝鮮の狙いもまた、中国の台湾侵攻を間接的に支援するための「戦力の分散」であった。
実際にミサイルを撃つ必要すらない。TEL(移動式発射台)を動かし、国営放送で核の恫喝を行うだけで、日米の軍事リソースを台湾から強烈に引き剥がすことができる、最高のグレーゾーン戦術であった。
「……太平洋の覇権が、ついにアメリカから我々(独裁陣営)の手へと移る瞬間だ。日本海に向けて、短距離弾道ミサイル(KN-23)を数発、威嚇として撃ち込んでやれ。奴らの顔を青ざめさせてやるのだ」
05:50 日本・東京/首相官邸 地下危機管理センター
日本標準時、午前6時50分。
東京の空には完全に太陽が昇り、初夏の眩しい朝日が永田町のビル群を照らし出していた。
しかし、首相官邸の地下深くにある危機管理センターは、文字通り「絶望の淵」に立たされていた。
「……EU首脳会議、対中制裁の合意に失敗。ヨーロッパからの軍事・経済的な支援は、当面一切期待できません」
「ロシア太平洋艦隊が、ウラジオストクから出港! オホーツク海および北方領土周辺において、異例の大規模な海上演習(実弾射撃)の開始を通告してきました! さらに、北海道の宗谷海峡付近で、ロシア軍の爆撃機(Tu-95)の不穏な飛行を探知!」
「同時に、北朝鮮が弾道ミサイルの発射兆候(TELの展開)を露骨に誇示! 平壌放送は『東京を核の火の海にする』と公式に恫喝してきました!」
次々と飛び込んでくる情報局や外務省からの報告に、防衛大臣(小泉進次郎 モデル)は、両手で頭を抱え込んだ。
「……中国、ロシア、北朝鮮。三つの核保有国が、完全に連動して我が国を挟み撃ちにしてきたというのか」
防衛大臣の声が震えている。
「南の台湾海峡で中国のミサイルと殺し合っている最中に、北の北海道でロシア軍が動き、西の日本海から北朝鮮が核ミサイルを突きつけている。……これでは、完全に『三正面作戦』だ。自衛隊の戦力で、三つの国を同時に相手にすることなど物理的に不可能だ!」
官房長官(木原稔 モデル)もまた、血の気のない顔で総理を見た。
「総理。先ほど、統合作戦司令部(JJOC)に対し、中国本土のミサイル基地に対するトマホークでの『反撃能力行使』の決断を下されましたが……」
彼は言葉を区切った。
「もし今、我が国が中国本土を直接攻撃すれば、それを口実(大義名分)として、ロシアと北朝鮮が『同盟国への支援』と称して、北海道や東京へ直接ミサイルを撃ち込んでくるリスクが極端に跳ね上がります。……彼らの恫喝は、反撃能力の行使を思いとどまらせるための、究極のブラフ(脅し)です」
官邸の空気が、凍りついた。
撃てば、日本が三つの核大国から同時に火の海にされるかもしれない。
しかし、撃たなければ、台湾は数時間以内に陥落し、中国の重戦車が台北を蹂躙し、日米の最前線のパイロットたち(ミヤビ・ツーの悲劇)の死は完全に無駄になる。
「……総理。反撃のトリガーを、一度引きますか」
防衛大臣が、すがるような目で高市総理に問うた。
高市総理は、目を閉じ、深く、長く息を吸い込んだ。
彼女の脳裏には、昨日まで平和に暮らしていた一億人の日本国民の顔と、先島諸島の空で散った若き自衛隊員の顔、そして今この瞬間も台北の街で血を流している台湾の人々の顔が交錯していた。
「……いいえ」
総理が目を開いた時、その瞳には、いかなる恫喝にも揺るがない、鋼鉄のような決意が宿っていた。
「防衛大臣、官房長官。よく聞きなさい」
総理の凛とした声が、危機管理センターの絶望の空気を一刀両断に切り裂いた。
「ロシアと北朝鮮の動きは、確かに脅威です。しかし、彼らは『今すぐ』我が国に本格的な上陸侵攻を行えるほどの兵站と準備を持っていません。彼らの目的は、あくまで『我々の決断を鈍らせ、中国の台湾制圧をアシストすること』です。……ここで我々が彼らの『グレーゾーンの脅し』に屈して矛を収めれば、それこそが敵の思う壺(心理戦の敗北)なのです」
総理は、デスクの上の赤いホットラインの受話器を自ら取り上げた。
「我々が守るべき『重心』は、ただ一つ。今、この瞬間に物理的な侵略を行っている中国軍の『台湾海峡における軍事力』を粉砕することです。これをやり遂げない限り、東アジアに明日は来ません。……三正面の脅しには、外交と、最低限の防空監視態勢で耐え忍びます」
総理は、受話器の向こうの統合作戦司令官に向かって、一切の迷いのない声で命じた。
「司令官。状況は変わっていません。……我が国の反撃能力による、中国本土・東部戦区の軍事拠点への統合打撃作戦を、予定通り、今すぐ実行しなさい。……責任は、全て私が取ります」
『――了解いたしました。これより、反撃作戦を本格発動します』
午前6時00分。
台湾標準時で午前5時00分。
ユーラシア大陸の独裁国家群による恐るべき分断工作と核の恫喝の嵐が吹き荒れる中、日本という島国は、自らの意思でその嵐のど真ん中へと突っ込む決断を下した。
戦後80年の平和の眠りから完全に目覚めた海上自衛隊のイージス艦から、次々とVLSのハッチが火を噴き、中国本土へ向けた数十発のトマホーク巡航ミサイルが、朝日が昇る太平洋の空へと、その巨大な反撃の狼煙を上げたのである。
この話はシミュレーション小説であり現実のいかなる国を中傷するものでは有りません。




