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第10話「極東の熊」

【作中時間】2026年6月20日 09:00 - 10:00(日本標準時 / UTC+9)

※モスクワ標準時(MSK / UTC+3):6月20日 03:00 - 04:00

※台湾標準時(UTC+8):6月20日 08:00 - 09:00

03:05 ロシア・モスクワ/クレムリン 大統領府

ヨーロッパが経済的自傷行為に怯え、アジアが戦火と株価の大暴落に阿鼻叫喚の様相を呈している頃。ユーラシア大陸の北に横たわる巨大な帝国の首都モスクワは、まだ冷たい深夜の闇の中にあった。

赤の広場を見下ろすクレムリンの一室。

重厚なシャンデリアの下に置かれた長大なオーク材のテーブルの奥で、20年以上にわたりこの国を支配し続けるロシア連邦大統領は、無表情のまま報告書に目を通していた。

「……北京の同志たちは、順調に事を進めているようだな」

大統領が低い声で呟くと、控えていた国防相と軍参謀総長が静かに頷いた。

「はい。中国人民解放軍は開戦から数時間で台湾の制空権と制海権をほぼ掌握しました。現在、アメリカの空母打撃群はフィリピン海で足止めを食らっており、日本の自衛隊も身動きが取れていません」

参謀総長が、壁面のスクリーンに東アジアの戦況図を映し出しながら説明する。

「アメリカという『世界の警察官』が、ついにその限界を露呈したわけだ。ウクライナ、中東、そして台湾。覇権国が三つの火ダネを同時に消すことなど不可能なのだ」

大統領の口元に、微かな冷笑が浮かんだ。

数年前から続くウクライナでの泥沼の戦争により、ロシア陸軍は膨大な数の兵士と戦車を失い、深刻な疲弊状態にある。しかし、それゆえにこそ、ロシアにとって中国の台湾侵攻は「千載一遇の好機」であった。

アメリカとヨーロッパの軍事的・経済的リソースが極東へ釘付けになれば、ウクライナへの軍事支援は間違いなく枯渇する。それは、ロシアが西側諸国との消耗戦に最終的な勝利を収めることを意味していた。

「大統領、北京から『約束』の履行を求める暗号通信が入っています」

国防相が慎重な口調で切り出した。

数ヶ月前、中露の首脳会談で密かに交わされた「戦略的協調」の合意。

それは、中国が台湾へ侵攻する際、ロシアは極東において大規模な軍事演習を実施し、日本とアメリカの軍事力を北へ牽制バインディングするという盟約であった。

「我々はすでにウクライナで手一杯だ。地上軍を極東に回す余裕はないぞ」

「その必要はありません。ウクライナ戦線に投入されていない無傷の戦力――すなわち、太平洋艦隊と戦略爆撃機部隊を使います。地上軍を動かさずとも、海と空から日本を恫喝するだけで、自衛隊の戦力転用を完全に封じ込めることが可能です」

大統領は少しの間沈黙し、スクリーン上の日本列島――その最も北に位置する「北海道」へと視線を移した。

「……よろしい。極東の太平洋艦隊に『抜き打ち演習』を発令しろ。オホーツク海、日本海、および宗谷海峡周辺での実弾射撃を許可する。また、戦略爆撃機を日本の領空ギリギリまで飛ばし、彼らの防空網を限界までこすり上げろ」

大統領は冷徹な眼差しで命じた。

「東京の指導者たちに思い知らせてやれ。彼らが南の島に気を取られている間に、背後の雪原から熊が喉笛を狙っているということをな」

09:30 日本・北海道 宗谷海峡上空/海上自衛隊 P-1哨戒機

日本標準時、午前9時30分。

北海道の最北端・宗谷岬と、ロシアのサハリン(樺太)を隔てる宗谷海峡(ラ・ペルーズ海峡)。

幅わずか42キロメートルのこの狭い海峡の上空を、海上自衛隊・第2航空群(青森県八戸基地)に所属するP-1哨戒機が、鉛色の雲を切り裂きながら飛行していた。

「レーダーに多数の輝点エコー! 距離30マイル、サハリン南部のアニワ湾方面から、宗谷海峡へ向けて急速に南下してくる大編隊です!」

機内の戦術航空士(TACCO)が、レーダー画面を凝視しながら緊迫した声で叫んだ。

「数と艦種は?」

「……信じられない数です。スラヴァ級ミサイル巡洋艦『ワリャーグ』を先頭に、ウダロイ級駆逐艦、ステレグシュチイ級フリゲートなど水上艦艇が15隻以上。さらに海中からはキロ級潜水艦のスクリュー音を複数探知。ロシア太平洋艦隊の主力部隊、ほぼ全杯が動いています!」

機長(3等海佐)は操縦桿を握る手に力を込めた。

「ウクライナで陸軍がすり減っているというのに、海軍はこれほどの大部隊を隠し持っていたのか……。針路はこのまま、オホーツク海から日本海へ抜けるつもりか?」

「いえ、機長! ロシア艦隊、海峡の中央部――我が国の領海ギリギリの国際海峡ルート上で突然減速し、陣形を展開し始めました。これは……海上封鎖陣形です!」

宗谷海峡は国際海峡に指定されており、外国の軍艦であっても「トランジット(継続的かつ迅速な通過)」であれば通航が認められている。しかし、彼らは通過するのではなく、海峡のど真ん中に居座る構えを見せていた。

その直後、P-1哨戒機の通信機に、国際VHFチャンネルを通じてロシア語とたどたどしい英語の警告音声が飛び込んできた。

『――こちらはロシア連邦海軍。これより本海域において、ミサイル実弾射撃を伴う大規模な対艦・対空戦闘演習を実施する。演習区域に侵入する航空機および船舶の安全は保障しない。直ちに退去せよ――』

「演習だと!? こんなタイミングで!」

TACCOが怒りの声を上げる。

「機長! 艦隊の後方から、対空ミサイルの射撃レーダートプ・ドームが照射されています! ロックオンされました!」

ESM(電子戦支援装置)のオペレーターが悲鳴を上げた。

「チャフ・フレア散布準備! 回避機動ブレイク!」

機長は機体を急旋回させ、レーダー波の照射範囲から強引に離脱した。

ロシア軍は本気だ。彼らは台湾有事の混乱に乗じて、日本の北の玄関口を物理的に塞ぎにかかっている。

さらに数分後、北海道の航空自衛隊・千歳基地の防空指令所(DC)からも、絶望的な報告が上がった。

『千歳DCより各機へ。ロシア空軍のTu-95MSベア戦略爆撃機、およびSu-35戦闘機の編隊が、北海道本島の領空スレスレを南下中。ただちにスクランブル発進せよ!』

北の空と海が、突如として赤く染まり始めた。

これは偶然ではない。中国軍の動きと完全に連動した、極めて計画的な陽動作戦フェイントであった。

09:50 東京・市ヶ谷/統合作戦司令部(JJOC)

「ロシア太平洋艦隊、宗谷海峡および津軽海峡の周辺で実弾演習を開始。民間船の航行は完全にストップしています。また、北海道全域の防空識別圏(ADIZ)に対して、ロシア軍機による波状的な接近飛行(ゾンビ飛行)が継続中。北部航空方面隊のF-15Jは、スクランブル対応で完全に忙殺されています!」

市ヶ谷の地下深くにある統合作戦司令部。

大型ディスプレイの右半分(南西諸島)は中国軍の赤いシンボルで埋め尽くされているが、今や左半分(北海道・東北地方)までもが、ロシア軍を示す不気味なオレンジ色のシンボルで覆い尽くされようとしていた。さらに西側(日本海)には、北朝鮮の弾道ミサイル警戒のマーカーが点滅している。

「……見事なものだ」

統合作戦司令官は、血の気の引いた顔で巨大なスクリーンを見上げた。

「南は中国、西は北朝鮮、そして北はロシア。彼らは事前の打ち合わせ通りに、我が国を三方向から同時に締め上げにきた。完全な『三正面作戦スリー・フロント・ウォー』だ」

傍らに立つ統合幕僚長が、歯ぎしりをするように言った。

「司令官、陸上幕僚監部より具申がありました。南西諸島防衛のため、北海道に駐屯する陸上自衛隊・北部方面隊(第7師団などの機甲科部隊・特科部隊)から、地対艦ミサイル連隊や防空部隊を九州・沖縄へ転地シフトさせる計画でしたが……」

「中止だ」司令官は即座に首を振った。

「ロシア軍が宗谷海峡と津軽海峡を塞ぎ、これほど大規模な挑発を行っている状況下で、北海道の防衛をすっからかんにすることはできない。もし部隊を南へ抜いた瞬間にロシアが北方領土から国後・択捉を超えて北海道本島への上陸の構えを見せれば、大パニックになるぞ」

「しかし、それでは南西諸島(台湾方面)を支える戦力が圧倒的に不足します! 中国軍の揚陸艦隊は、すでに数千隻規模で海峡に集結しつつあるのですよ!」

「分かっている! だが、これが連中の狙いなのだ!」

司令官は声を荒げた。

「ロシアは実際に日本へ攻め込んでくるつもりはない。だが、『攻め込んでくるかもしれない』という脅威を北にチラつかせるだけで、我が国の陸上自衛隊の精鋭(北部方面隊)と、海上自衛隊の護衛艦隊の半分を北に縛り付ける(バインドする)ことができる。我々は、自国の領土を守るだけで手一杯になり、台湾を助けるための戦力を捻出できなくなるのだ」

日米同盟を中核とする西側陣営は、各個撃破の危機に瀕していた。

アメリカはヨーロッパ(ウクライナ)と中東、そしてアジアに戦力を引き裂かれている。

日本は、ロシア、西(北朝鮮)、南(中国)という三つの核保有国に完全に包囲され、なけなしの自衛隊を分散配置することしかできない。

圧倒的なまでの戦略的劣勢。

独裁国家たちの連携は、民主主義国家のもろい同盟関係を、物理的にも心理的にもバラバラに引き裂こうとしていた。

午前10時。

開戦から10時間が経過した。

日本の政治家たちが「重要影響事態」の書類の文言を整えている間にも、自衛隊の四肢はすでに見えない鎖によって雁字搦め(がんじがらめ)にされていた。

台湾という孤島を救うための道は、東西南北すべての方向から、分厚い鋼鉄の扉で閉ざされようとしていたのである。

この話はシミュレーション小説であり現実のいかなる国を中傷するものでは有りません。

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