第33話 公爵令嬢との出会い
カッカッカッ。
壁にペンが走る音が続いている。
テルムは図書館から借りてきた歴史書から目を上げずに言った。
「うるさい」
「うるさくありません」
エランは振り返らない。
「重要な作業をしています」
テルムはため息をついた。
エランは例の帽子をかぶり、パイプを咥えながら紙の前に立っている。
長いマントを羽織っていた。
壁には大きな三角形が描かれていた。
第一王子。アルヴァ。ミラ。
エランはその中央にペンを立てた。カン。
「ふむ、この構図は、もはや断罪イベントしか有り得ませんね」
テルムはページをめくった。
「……なんの話だ」
「テルソンくん、真面目に考えていますか?」
エランがマントを大げさに広げながら振り返る。
「このままではアルヴァ嬢は破滅まっしぐらですよ」
「イフリートの研究をしていたんではないのか」
「……ことの重大性がわかっていませんな」
エランは胸を張った。
「フラグはすでに立っているのです」
ペンを振り回す。
「もういつ動いてもおかしくない。イベントは待ってはくれませんよ!」
テルムは本を膝に置いた。
「……その"ふらぐ"とやらはどこで聞いてきた」
「猫様ネットワークです」
「なんだそれは」
エランが胸を張る。
テルムはため息をつき、壁の三角形を見上げた。
中央には走り書きがある。
賢人会の噂。
「ここは王都です」
エランがペンを回す。
「こういう話が回るのは早いんですよ」
トンっと、三角形の中央をペン先で突いて、にやりと笑った。
「役者は揃っています」
テルムは黙っていた。
「このままではアルヴァ嬢が破滅します」
エランがふと真顔になる。
「本当にいいんですか?」
「……」
テルムは答えなかった。
今日の昼間の出来事が、浮かんでくる。
——アルヴァの顔だった。
***
中庭に人影はなかった。
石畳の隙間から草が伸び、端の方に小さな花壇がある。
誰も好んで来る場所ではないらしい。
それがちょうどよかった。
エルが先に飛び降りた。
「ちょっと待て」
止める間もなかった。
白い猫は石畳を軽く跳ね、花壇の縁をすり抜ける。
「……あいつ」
テルムは小さく息をついて後を追った。
昼の中庭は静かだった。
授業の時間なのか、人の気配はほとんどない。
噴水の水音だけが遠くで響いていた。
エルは振り返りもせず、まっすぐ進む。
「どこへ行くつもりだ」
答える気はないらしい。
木陰の方へ駆けていくと、人影があった。
テルムは息を潜め、歩幅を狭める。
近づくにつれ、輪郭がはっきりしていく。
ベンチに座っていたのは、一人の少女だった。
シルバーアッシュの髪が午後の光を受けて、淡く金色に滲んでいる。
姿勢がまっすぐだった。
ただ座っているだけなのに、不思議と目を引く。
制服の着こなしも、どこか整っている。
上位貴族の娘だろうと、すぐに分かった。
テルムの足が、一瞬だけ止まった。
「あら」
エルがベンチの横で立ち止まり、上を見上げていた。
座っていた人物が顔を上げる。
明るいグレーブルーの瞳が、エルを見てわずかに細くなった。
次の瞬間——彼女はベンチから立ち上がり、そのまま迷いなく膝をついた。
石畳の上で、猫の目線に合わせた。
躊躇がない。
普通、貴族の娘は衣服を気にする。
それも上位貴族ならなおさらだ。
だが彼女は気にも留めていない。
「迷子?」
「大丈夫よ」
彼女はそっとエルの頭を撫でた。
白い毛並みが指の間をすり抜ける。
「……あら」
エルの耳がぴくりと動いた。
彼女は少しだけ目を丸くして、くすっと笑った。
「くすぐったいの?」
柔らかい、どこか落ち着いた笑い方だった。
その笑い方に、胸の奥がわずかに引っかかった。
足が、半歩だけ遅れた。
懐かしい、というのとも違う。
ただ——
どこか、記憶の奥に触れる感覚があった。
「あなたの連れ?」
顔が上がった。グレーブルーの瞳がテルムを見た。
「……ああ。すまない、勝手に近づいて」
「いいえ」
彼女は立ち上がった。スカートの裾を軽く払い、微笑む。
今度は、妃候補の顔だった。
テルムはそれ以上何も言わなかった。
エルを抱き上げ、踵を返す。
石畳を数歩歩いたところで、背後から声がした。
「また来てもいいわよ」
エルに向けた言葉らしかった。
白い猫が肩の上で耳を動かす。
テルムは振り返らなかった。
***
面影が似ている。だが、それだけではない。
声の落ち着き。あの笑い方。
言葉が見当たらない。
(……まさか、な)
長く生きてきても、こんな感覚はほとんど覚えがない。
もしエランの言う通り、彼女が破滅へ向かうのだとしたら——それは、少し困る。
ああいう顔をする人間が、
簡単に破滅するのは気分が悪い。
テルムは歴史書を閉じた。
立ち上がり、エランの書いた三角形の前に立つ。
「説明しろ」
「やっと聞く気になりましたか!」
「……うるさい」
エランはすでにペンを持ち直していた。




