第32話 海の向こうからの留学生
朝の図書館に、ページをめくる音が小さく響いていた。
差し込む光が棚の背表紙をなぞり、静かな空気の中をゆっくりと移動していく。
テルムは開架の奥、窓際の席に座り、手元の歴史書を閉じた。
「……薄いな」
精霊に関する記述はどれも似通っている。
上位精霊イフリートの顕現。百五十年前の被害。そして学院の設立。
だが——理由がない。
(暴れた理由が、どこにも書いていない)
指でページをなぞる。
イフリートが人を依り代にした、とある。だが、なぜそうなったのかは記されていない。
精霊は、人の感情に引き寄せられることがある。
だが上位精霊は別だ。そんな程度で動く存在ではない。
(……俺の知っている精霊を思えば、なおさらだ)
「精霊って、暴れますかね」
隣で、エルが小声で言った。
「……顔に出てたか」
「なんとなくです」
テルムは本を閉じた。
「基本は面倒事を嫌う。暴れるより、寝ている方を選ぶ連中だ」
「ですよね」
エルが軽く頷く。
「でも、それでも動いたとしたら」
「何かが、動かした」
短い沈黙が落ちた。
エルの尾が、一度だけ静かに揺れる。
テルムは立ち上がった。
「……隠しているな」
露骨すぎるほどに。
本を棚へ戻し、そのまま図書館を後にした。
***
「勘弁してくれ」
廊下を走りながら、テルムは背後を振り返った。
三人。いや、四人に増えている。
「テル様、少しだけ——!」
声が反響して追ってくる。
「人気者ですね、テルムくん」
「笑えない」
発端はセリアだった。
「古代語を一瞬で解いた天才」と、妙な尾ひれをつけて言いふらされた結果がこれである。
「子爵家だぞ、俺は……無下にもできん」
「フォルティスさんの分も頼まれてましたよね?」
「図々しいにも程がある」
角を曲がり、渡り廊下へ入る。
人通りが減る。少しだけ速度を落とす。
だが、靴音はまだ追ってきていた。
反響しながら、距離を詰めてくる。
***
渡り廊下の中ほど。
前方に、輪を作る一年生の集団が見えた。
その中心に、小柄な少女。
ミラ・カンディス。
横をすり抜けようとした、そのとき。
——違和感。
言葉にできない、薄いざらつきのようなものが、肌に触れた。
「すごいです!」
「本当にすごいです!」
同じ言葉が繰り返される。
笑っている。だが——
熱の向きが、揃いすぎている。
ミラの笑顔が、ほんのわずかに遅れているようで、その遅れだけが、妙に目についた。
(……なんだ、これ)
足は止めない。
今はそれどころではない。
「テルムくん、あの子——」
エルの声が途中で止まった。
尾が低く、警戒するように揺れる。
***
渡り廊下を抜けたところで、正面から人影が来た。
「おっと」
互いに足を止める。
二人組だった。
日焼けした顔の男子と、穏やかな目の女子。
胸元の刺繍は見慣れない——島国風の文様。
「うわ、ヴェレント様やないか!」
男子が大げさにのけぞる。
「……なんや、その本の量。全部歴史書か?」
「今それどころじゃない」
テルムは短く言った。
遠くで、まだ靴音が響いている。
男子が振り返る。
「ああ、なるほどな」
にやりと笑った。
「ほな、こっちや」
言うが早いか、袖を引かれる。
階段脇の死角へ滑り込んだ。
三人と一匹、壁際で息を潜める。
足音が通り過ぎる。
「こっちじゃないか?」
「いや、向こうだろ」
やがて遠ざかり、消えた。
「逃げ切りや」
男子が顔を出して言った。
「ただの死角やけどなぁ」
女子がのんびりと返す。
「細かいことはええねん」
胸を張る。
「わいは逃走経路の専門家や」
「今決めたやろ」
「……助かった」
テルムは息を吐いた。
女子が微笑む。
「屋上、行く? 風通しええで」
***
屋上には風が通っていた。
猫が気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。
欄干に寄り、中庭を見下ろす。
遠くから、昼のざわめきが混ざって届く。
「わい、マレオンや」
男子が胸を叩いた。
「マルって呼んでくれてええで」
「フィデアです」
女子がゆっくり頭を下げる。
「テルム・ヴェレントだ」
「知ってるで、有名人やもん」
マレオンが笑った。
「この前の授業、ほんま驚いたわ」
「ひっくり返るか思ったで」
「古代語のやつやろ」
フィデアが穏やかに言う。
「そうそれ!」
「最初から立ってへんかったんちゃう?」
「それ言う?」
やり取りが軽やかに流れる。
テルムは少しだけ肩の力を抜いた。
「……で、用件は」
マレオンが指を立てた。
「古い石板、読んでくれへん?」
「マル、それじゃ雑やろ」
フィデアがため息をつく。
「うちら、島国の神殿の守り人でなぁ」
一拍置く。
「神託受けて、こっち来とるんよ」
「石板が山ほどあってな」
「読めへんのよ、全然」
テルムは短く考えた。
「……機会があればな」
マレオンの目が見開かれる。
「ほんまか!」
「頼んでみるもんやなあ!」
風が吹き抜ける。
その音に混ざって、会話が軽くほどけていく。
テルムはふと気づいた。
違和感とは逆の感覚。
この二人の言葉の調子。
語尾の柔らかい丸まり。
それが、妙に自然に身体に馴染む。
(……知っている)
言葉より先に、身体がそう判断していた。
(過去の転生か)
確証はない。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
マレオンが伸びをした。
「おっと、次の授業やな」
「ほな、またな」
フィデアが軽く頭を下げる。
二人はそのまま扉の向こうへ消えた。
風だけが残る。
しばらくして、エルが言った。
「意外でした」
「なにがだ」
「初対面なのに、距離が近かったことです」
テルムは中庭を見たまま答える。
「……訛りに馴染みがあった」
「行ったことがあるんですか?」
「今世ではないはずだ……」
風が流れる。
そして——
「ということは……」
エルの声が少しだけ弾んだ。
「これで確定しましたね」
「なにがだ」
エルは欄干に前脚を乗せた。
尾がぴんと立つ。
「この学院生活は——」
一拍。
「熱血友情ものです!」
テルムはゆっくり息を吐いた。
「……どこがだ」




