第30話 学院長の密命
最初の授業で、テルムは早速やらかした。
午後の授業は魔法理論だった。
セリアが黒板の前に立つ。
「セリア・ヴィレスです。魔法理論の担当をしています。よろしくお願いします」
落ち着きのある笑顔だった。入学受付のときにサインをねだった相手とは思えない。
今はちゃんと教師らしく見える。
テルムと目が合うと、わずかに肩が震えた。
(俺は監査でもなんでもないぞ……)
はあ、とため息を吐く。
授業が始まると、案の定、退屈だった。
(まあ、一年目の最初はこんなものか)
黒板に書かれていくのは元素と魔術の基礎分類だった。
術式の書き方から術の発動までの魔力の流れ。
十五歳向けだから当然とはいえ、テルムにとっては出発点にもならない。
「つまらなそうですね」
エルが膝の上から小さく言った。
「基礎の基礎だしな」
視線を周りに向ける。
「他も似たようなものだろう。貴族であれば家で学ぶ範囲だ」
「聞いてて楽しいか?」
「はい、こんなこと考えたこともありませんでしたから」
「……そっちでは術式はないのか?」
「想像したら、ぽんと出ますから」
「……なるほどな」
窓の外を見る。
中庭では武術の授業だろうか走り込みをしていた。
午後の光が斜めに差し込んでいる。
景色だけは美しかった。
——せめて、失われた術式の断片でも出てくれば違った。
考古魔術の再現でも、術理の未解明領域でもいい。
だが、今やっているのはその手前ですらない。
ぼーっと外を眺めながら、今読み進めている古文書の内容を頭の中に広げ、考えを巡らす。
(あの魔術式はどう現代に再現するか……)
ふと、声がかかった。
「ヴェレント様は、こちらどう思われますか」
顔を上げた。セリアがこちらを見ていた。周囲の目も一斉に集まった。
(……何の話だったか)
黒板を見た。
古代語の術式記号と、現代の簡素化された術式が並んでいる。
(ははん——水魔術がなぜ水を生み出せるかか。魔術の本質と元素学の組み合わせだな。)
「それは——」
黒板の古代語の術式を辿りながら説明し始めた。
元素間の変換機構と魔力の触媒作用、それが術式の制約条件にどう結びつくか。
半分ほど話したところで、教室が妙に静かなことに気づいた。
(ん? 反応がおかしい?)
視線を横に向けると、エルが尾を振り回している。
「……いえ、この現代の術式で省略されてしまったものはなんだと思いますかという質問で——」
セリアが小声で言った。
「え、あの——読めるんですか、今の古代記号」
(……やってしまった)
汗がものすごい勢いで出てきた。
全員の目がこちらに向いている。
「さらっと知識無双してますね」
エルが目を輝かせた。
口を閉じさせたかったが、それも目立つ。
テルムは黙った。
数秒の間があった。
「……ヴェレント家は魔術師の家系だからな」
遠くの席で誰かが言った。
「実験狂いで有名だったろ。古代文字読めても不思議じゃない……」
「特級に入るわけだ」
周囲が勝手に理由を作っていく。
その中でセリアだけがまだ、驚きに固まったままだった。頼む、流してくれ。
(今後は気をつけないとな……)
テルムは小さく呟く。
「気をつけられるといいですね」
エルは尾を振る。
***
授業が終わると、視線を避けるように教室を出た。その背に声がかかる。
「お前——本当にあれ、読めるのか」
振り向くと、小柄な生徒が立っていた。
耳が長い。帽子の下から覗く耳は人のそれより一回り大きく、先端がわずかに尖っている。
ぶかぶかのローブの裾に、見慣れない刺繍が施されていた——森の国の意匠だ。
「フォリアだ、古代語を研究している」
小さなエルフは腕を組み名乗った。
「古代語を“読める”者はいる。だが、術式として“考えている”者はいない」
フォリアはそう言って、テルムをまっすぐ見た。
目が真剣だった。
「私は、あの術式は……成立しないと思う」
テルムは目の色が変わった。
「……その通り。あの黒板の術式には前提がある。わかるのか」
「ああ」フォリアが小さくうなずいた。
「一見、成立している」
「ただ、魔力抵抗が弱すぎる。普通に使えば焼き切れるのでは?」
一歩踏み出して囁くような声だった。
「あれは、大きな機能の一部だ。並列処理することを前提にしている」
「なるほど、それであの出力か……並列処理について、詳しく聞きたい——今度お茶でもどうだ?」
「ああ」
テルムは強く頷いた。
フォリアは去っていった。
短い交流だった。
それでも、確かなものがあった。
術式を語り合える相手というのは、久しぶりだ。正直、興奮した。
授業は期待外れだったが、これはこれでありだ。
(楽しみになってきたな……)
「気をつける気ないですよね」
「……うるさい」
***
夕方、呼び出しが来た。
学院長室、と書いてあった。
初日から呼ばれる羽目になったか。
テルムはため息をついて扉を見上げる。
学院長室の扉は大きく、重かった。
開けると、室内は薄暗く、本棚が壁一面を埋めていた。
古い表紙、煙草色の背表紙。
標本めいたものもあれば、整然と収められた箱本もある。
誰かの研究の跡が、長い年月をかけてここに積もっている。
窓際に、レニスが立っていた。
夕の光を背に受けて、白い髭が橙に滲んでいる。
「ヴェレント様、よくいらっしゃった。そちらに」
穏やかな声だった。演壇の上で聞いたそれとまったく同じだった。
テルムは椅子に腰を下ろした。
エルが足元で静かに伏せる。
「単刀直入に伺いたい」
レニスが窓から室内に向き直った。
夕光が老人の背中からじわりと差し込み、孤老めいた静かな影が広い壁に延びた。
「あなたは、奇妙な人生を過ごしておるね」
テルムは表情を動かさなかった。
「……いえ、普通の人生です」
「……ふむ」
レニスは少しの間、何も言わなかった。
テルムも言わなかった。
日が少し傾いていき、室内の色が残照から暗い緑へと変わった。
「一つ、お願いが」
レニスがゆっくり椅子に座った。
「どうにも、この学院の歴史には妙な部分がある」
「イフリートに関わる部分なんだが。——そこを調べていただけないかの」
「へえ」
少し前のめりになった。
「なぜ俺に」
「この学院の歴史には——触れてはいけない部分がある」
「あなたは……そういうものに、興味がありそうに見えたんだが、違ったか」
ねだるような言い方だった。
それでいて、おそらく正しい。
「調べるかどうかは、資料を見てから決めます」
「ふむ、助かるわい」
レニスが静かに言った。
間があった。
「そういえば——こちらは?」
レニスの視線が足元に落ちた。
「……従魔です」
テルムが短く答える。
レニスが目を細めた。観察するように。
——見えない。
一瞬、レニスの動きが止まった。
次の瞬間、老人の目が大きく見開かれた。
顔から血の気が引き、額に汗が滲んだ。
椅子から立ち上がろうとしてよろつく。
テルムが手を出すと、レニスが片手を挙げて制した。
「……大丈夫、よろけただけ」
声は穏やかだったが、椅子を押さえる指の先が白くなっていた。
「良い結果を期待しとるよ」
テルムは一礼して、学院長室を後にした。
***
廊下に出ると、夕暮れの橙が窓から流れ込んでいた。足音が石の床に静かに響く。
「……エルのこと、何か気づいたのかもな」
「神々しすぎましたかね?」
「……だろうな」
「女神バレも楽しそうですね!定番の展開です!」
「やめてくれ、身が持たない」
先ほどの学院長との会話を思い出す。
自分やエルに対する反応など、気になるところはある。
とはいえ、イフリートの歴史の調査という依頼は、悪くない。
精霊がなぜ暴れたのか。
その歴史が隠されているというのなら、なおさら放っておけない。
厄介ごとには違いない。だが、研究者として調べずにはいられなかった。
テルムは小さく息を吐き、廊下の角を曲がった。
エルが後ろからついてくる。
夕暮れが、ゆっくりと廊下の先に落ちていった。




