第28話 賢者の実技試験
闘技場に着いたら、他に誰もいなかった。
昼を過ぎた頃、セリアが走ってきた。
「ヴェレント様、闘技場に来ていただけますか」
中庭のベンチで昼食をとっていたテルムは、パンをひと口かじったまま顔を上げた。
「実技試験ですか?」
「はい。アルデン先生が担当されます。午後すぐに来てほしいと——」
テルムはパンをもう一口食べてから立ち上がった。
エルが膝から飛び降りる。
「楽しみですね」
「ああ、他の人はどんな実力なんだろうな」
——と思っていたのに。
***
学院の闘技場は、校舎の裏手にあった。
石造りの円形空間で、観覧席が半周ほど取り巻いている。
訓練用に設えられた場所らしく、壁面には焦げ跡や打撃痕が残っていた。
イグナス・アルデンは、闘技場の中央で腕を組んで待っていた。
王国でも指折りの炎魔術師として知られる男である。
実戦演習の担当で、上級生ですら彼の試験を嫌がる。
ただ立っているだけなのに、空気が少し重かった。
午前中に教務室を出ていった時と同じ表情——というより、表情そのものがほとんどない。
ただ目の奥に何かが燃えていた。
「来たか」
「遅くなりました」テルムは答えた。
「実技試験だが、単純な話だ」イグナスが口を開いた。
「俺の攻撃を魔術で耐えたら合格にする。なんなら反撃してもいい——攻撃は最大の防御とも言うしな」
「それはないでしょう!」とセリアが声を上げた。
二人がセリアを見た。
一瞬ひるんだが、引くことはなかった。
「アルデン先生の炎魔術は大規模展開の術式です」
「この学院の学生で対応できる方はまずいません。一年生の入学試験として、これは——」
声がわずかに震えていた。
イグナスは答えなかった。テルムを見ていた。
「構いません」
テルムがイグナスを見ながら言う。
「おそらく、大丈夫です」
イグナスは少し間を置いた。
「……大口を叩くなよ」
「いつでもいいですよ」
テルムが腰に携えていた杖を持ち、構える。
短い沈黙があった。
イグナスが腕を解いた。
***
「本当に大丈夫ですか?」と言いながら、セリアは観覧席の端まで下がった。
「猫はそのままでいいのか?」
イグナスがテルムの足元で丸まっているエルに視線を向ける。
エルが大きく尾を振った。
「なるほど、生意気な猫だ……」
イグナスが一歩踏み出し、そのまま、両手を広げた。
魔法陣が展開された。
闘技場の床面に、巨大な幾何学の紋様が広がっていく。
一重、二重、三重——それぞれが異なる速度で回転しながら重なり合い、中心から熱波が押し寄せてきた。空気が揺れた。
石畳が軋んだ。観覧席の端でセリアが思わず後退した。
炎の高位魔術。
通常の訓練用魔術ではない。
これが完全に展開すれば、闘技場の半分は焼け落ちる。
テルムはその場を動かなかった。
(……良い先生だ)
先ほど筆記試験で前提を覆した大魔術の再現だった。
(筆記の続きを、実際に見せろということか)
熱ではなく、術式の規模を見ていた。魔法陣の構造が視界の中で輪郭を結ぶ。
三重の環がそれぞれ別の役割を持っている。
外環が魔力の収束。中環が属性の固定。内環が出力の調整。
三環の接続は三箇所。どこか一つでも断てば、循環は崩れる。
(接続点は……)
杖に魔力を集中していく。
内環と中環のあいだ、三箇所に結節がある。そこで魔力の流れが合流し、次の環へ送られる仕組みだ。
(あそこか)
「なるほどな」
テルムは軽く頷いた。
「——」
イグナスが何かを言いかけた、その前に——
テルムは杖を一度だけ、闘技場の魔法陣の一点に向けて動かした。
そこに己の魔力を、針のように細く通した。
魔法陣の内環と中環が繋がる結節のひとつ——そこに差し込み、魔力密度を上昇させる。
魔法陣が、揺れ、切れた。
三重の環が連動を失い、それぞれが別々に回転を続けようとした。しかし補完される魔力がない。一秒、二秒——内側から崩れるように、炎が散った。
熱波が消えた。
石畳に刻まれた紋様が薄れて消え、静寂が戻る。
セリアが息を飲む音がした。
イグナスは動かなかった。
闘技場の中央に立ったまま、自分の手を見ている。展開が消えた、その手を。
長い間があった。
「……術式に、介入したのか」
つぶやきだった。
展開した魔法陣は、まだ完全に発動していない。
だが展開中の術式に外部から触れるなど、普通は不可能だった。
「魔力密度が過剰になれば接続点は切れます」
テルムは答えた。
「環が三重で独立しているなら、どれかひとつを断てば連動が崩れる、そう読みました」
イグナスはしばらく何も言わなかった。
やがて、「……合格だ」と言った。
それだけだった。それ以上、言葉が出なかった。
「……」
テルムは何も言わず、杖を腰に戻した。
エルが足元から顔を上げた。
「すごかったですよ!」
小声だったが弾んでいた。
セリアが青い顔で駆け寄ってきた。
「……ヴェレント様、おケガは」
「ない」
「……そうですか。よかったです」
それだけ言って、セリアはイグナスを見た。
イグナスはまだ自分の手を見ていた。
***
夕刻。
学院長室の扉をセリアが叩いた。
イグナスと並んで入室する。
レニス・メンダは窓際の椅子に座っており、二人を見て「どうぞ」と促した。
セリアが報告した。筆記試験での出来事。
三十問目の前提式への指摘。
そしてイグナスが実技を申し出た経緯。闘技場での一部始終。
レニスは目を閉じたまま聞いていた。
セリアが話し終えると、しばらく沈黙があった。
「あの術式への介入は、単純な魔力量の話ではない。構造を読んでいる。展開中の魔法陣の接続点を、あの短時間で特定するのは簡単じゃない」
イグナスが口を開いた。
「……そうか」
レニスはゆっくりと目を開け、窓の外を見た。
「合格は出したんじゃな」
「出しました」
静かな時間が流れた。
レニスはしばらく何かを考えるように窓の外を見ていた。
それから静かに言った。
「……なるほど」
小さく息を吐く。
「確かめるかの」
イグナスとセリアが顔を見合わせた。
レニスはそれ以上、何も言わなかった。




