第19話 不自然な静けさ
書庫の片隅に、写しが一枚ずつ増えていった。
地下構造図は何年分も重ねると複雑だった。新しい拡張工事の層が旧い層を塗り替え、水路の位置が数十センチずれながら続いている。孤児院のあたりだけ、拡張工事の記録に一本増えた線があった。三十二年前。ヴェレント家の記録に照らせば、ちょうど先代が領主になった頃と重なる。
(誰も不審に思わないわけだ)
テルムは筆を止めずに写し続けた。背後に気配があった。
「……それか?」
振り返ると、フォルティスが書庫の入り口に立っていた。壁に片手をついている。左腕の包帯は新しいものに替わっていたが、体の運び方が普段と違った。いつも余分な力が入っていない歩き方をする人間なのに、今は一歩ごとにわずかに慎重だった。
「大丈夫なのか」
「まあな、この通り動けるようにはなった」フォルティスが書庫に入ってきて、腕を軽く上げてみせた。「アンデッドスライム、放っておけないだろ」
「明日にでも人を集めて地下水路を掃討する、と言うんだろ」
「はっはっは」
笑い声が本棚に吸われた。いつもより力がなく本当に大丈夫か、と思ったが、口には出さなかった。こうなったフォルティスを言葉で止める手段はない。テルムはその事実を十数年かけて学んでいた。
「場所はある程度絞れたか?」
「おそらく、このあたりだ」
テルムは写しを取り出し、孤児院の周辺を指でなぞった。フォルティスが横に来て、しばらく地図を見ていた。
「……だろうな。ここを狙うなら、妥当だ」
短い沈黙があった。
「よし」と続けて、フォルティスは作戦を話す。「俺は指揮して地下水路を攻める。もし上に逃げたら——」
「そこは俺が抑える」
最後まで言わせなかった。フォルティスが少し笑った。今度は普通の笑い方だった。
本棚の端で、エルがじっとこちらを見ていた。テルムとフォルティスを交互に見て、目を細め、尾をゆっくりと左右に振った。「これが……本当の兄弟もの……」と小さな声で言って、前足を揃えた。
「何か言ったか」
「何も言っていません」
***
翌朝、孤児院の前に立った。
日差しがまだ低い。石畳が朝の湿気を帯びている。
窓のカーテンが全部引かれていた。干し物竿には何もない。扉の脇にいつも置かれているはずの植木鉢が、今日はなかった。この時間帯なら子供たちが庭に出ているはずなのに、気配がなかった。声も聞こえない。以前ここを訪ねたとき、道の角を曲がっただけで中から雪崩のように飛び出してきたのに。
エルが肩の上でこじんまりとしている。前足の爪を肩布に立てたまま、耳だけが前を向いていた。
「あら、テルム様」
院長が扉を開けた。白い前掛けが清潔に整っている。朝の陽光が玄関先に差していて、院長の顔にはやわらかな表情があった。いつも通りの顔だった。
「急なところ失礼する。お時間はよかったか」
「ええ、どうぞ。最近はゆっくりしていますから」
院長が扉の内側に一歩引いた。ゆっくりしている、という言葉が引っかかった。この時間は一番忙しいはずだ。子供たちの朝食の後片付けと、午前の支度と——
「そういえば、春祭りの準備はもう始まっているか」
「ええ、街はもう賑やかになってきましたね。ただうちの子たちは最近おとなしくて、外へ出たがらないんですよ。以前は祭りのことを聞くだけで大騒ぎだったのに」
院長が苦笑した。苦笑の中に何も入っていなかった。ただそういうものだ、という受け取り方だった。
「子供たちが外に出たがらないのか」
「そうなんです。でもまあ、静かな分には助かりますよ」と院長は笑った。
静かな分には助かる。院長の口から出た言葉が、テルムの中で少しだけずれて聞こえた。
「実は、ここ一、二ヶ月で孤児院の中で変わったことを聞かせてほしい」
院長が首をかしげた。「変わったこと、ですか」何かを手繰り寄せようとしているのではなく、手繰り寄せようとして、うまく辿り着けていない。そういう顔だった。「そうですねえ……最近、お客様が増えるようになりました。それはとても賑やかになりましたよ」
「それはどんな用件で?」
「えーっと……あれ?なんでしたっけ。確か、うちのスタッフを訪ねてこられているような……」院長が少し首をひねった。記憶を辿っているというより、空白を埋めようとしているように見えた。
「そのスタッフはどなたですか?」
「えーっと、二ヶ月くらい前に入ってきた子で、名前は——」
「あっ!!」
エルが肩の上で飛び起きた。尾が真上に立った。耳がまっすぐ前を向いた。
「あの魔術の人です!」
院長が驚いて振り返った。玄関の奥、廊下の途中に、人が立っていた。
一瞬、目が合った。
女が踵を返した。「なんで、もういるのよ!?」叫び声が廊下を走った。「早すぎじゃない!まだ準備間に合ってないわよ!」文句の声を上げながら奥の廊下に消えていく。
テルムは院長に「失礼する」とだけ言って、廊下に踏み込んだ。エルが肩を蹴って飛んだ。
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