第18話 天才の焦り
ガシャン。
暗い部屋に音が響いた。
陶器の欠片が石の床を滑った。インク瓶だった。投げつけた先の壁に黒いしみが広がり、一筋の雫が伝って止まった。
「なんなのよ」
金茶色の髪を片手で掻き上げて、女は低く言った。
部屋の四方に書類が貼られていた。地図には書き込みが幾重にも重なり、各所に赤い印がついている。移動経路、見張りの交代時間、魔力残照の分布。貧民街の派閥構図、採取場の魔物の生息域、地下水道の構造図、ヴェレント領主邸までの壁の材質と厚さ。紙一枚一枚に緻密な計算が走っていた。棚の上には調合の記録が几帳面に積まれている。ここまで丁寧に設計した作戦が、いつものことなのに、またこうなっている。
もっとも、自分は天才なのだ。天才でもついていない日はある。
——そう自分に言い聞かせ、女はもう一つ、視線を部屋の奥に向けた。
檻の中でワニが数頭、丸まって眠っている。規則的に腹が上下している。冬眠中だった。そのまた奥に、試作品が整然と並んでいる——アンデッドスライム。スライムと腐った魔石から生み出した、この計画の核だった。試行錯誤に何ヶ月もかけ、ようやく安定した生成ができるようになった。
計画通りだった。
***
「つくった。とめた。誘導した!」
椅子に腰を下ろしたまま、独り言が出た。
アンデッドスライムの生成に成功した。魔力量の多い大人を貧民街から意識誘導で集め、人口魔石を用意した。採取場に魔物を流し込んで素材不足を引き起こし、アンデッドポーションの棚が空になっていることを正当化した。ポーションの流通も二ヶ月以上前から止めた。卸元ごと押さえたから表立って追いようがない。準備は全部整っていた。
あとはワニにアンデッドスライムを纏わせ、地下水道から領主邸に送り込む。それだけだった。騒ぎが起きれば評判が落ちる。ヴェレント家の力を削ぐ——任務通りの、完璧な仕事になるはずだった。
なのに。
「なんでいいところでワニが冬眠するのよ!!」
声が石壁に反響して返ってきた。
ある夜、突然気温が下がった。季節外れの寒波だ。あの日からの冷え方は、どう考えてもおかしい。理解できない。
アンデッド化への調整を進めていたワニが、一斉に本能を剥き出しにした。変温動物が季節外れの寒さに反応した。意識誘導は意識のある対象に効く——本能で動くものには届かない。それはわかっていた。わかっていたが、こんな形で直面するとは思わなかった。
暴れたワニは逃げた。地下水道に溢れた。どうにもならなかった。戦闘は得意ではないし、あの数相手に正面からというのも無理な話で……
さらについていなかったのは、アンデッド化が完了していた一頭まで逃げてしまったことだった。アンデッドポイズンをまとったワニが外を歩けば、隠してきたものが全部明るみに出る。誰かに見つかれば、ここまでの積み上げが無駄になる。
「ついてないにも程があるでしょう」
背もたれに深く体を預けて天井を見た。石の継ぎ目が規則的に並んでいる。
残ったワニはまだ冬眠中だ。気温が戻れば目を覚ます。——が、それまでにヴェレント家がどう動くか。時間がない気がしていた。
***
「そもそも、聞いていた話と全然違うじゃない」
もう一度、独り言が出た。
ヴェレント家については事前に調べてある。ヴェレント家の次男は騎士見習いで、人気はあるが政治的な脅威にはならないと聞いた。三男は魔術の実験を繰り返すやんちゃな少年だと聞いた。確かめるために採取場の依頼に紛れた。
見たものは、それではなかった。
次男はひと目でわかった。ああいう人間がいる——引力を持って生まれた人間が。話しているだけで周囲が動く。孤立させることができない。あれを敵に回せばこちらが確実に不利になる。聞いていた「騎士に憧れる見習い」の話はどこへ行ったのか。
問題は三男だった。
ぼんやりとしていた。採取場の端に突っ立ったまま、視線がどこにも向いていないように見えた。——見えただけだった。違った。微細に、静かに観察していた。術式の組み方を見れば分かる。小さく展開し、的確に魔力を運ぶ。無駄がない。どれだけの経験が裏打ちしているのか、どこで身につけたのか、いくら見ても底が測れなかった。年齢がおかしい。あの目は、何十年も生きた人間の目だった。
「底が見えない子供って何よ……」
泣きそうな声が出た。
あれとぶつかるのは得策ではない。しかし回避するにも、もう深く関わりすぎた。向こうがどこまで掴んでいるかもわからない。このまま計画を進めるなら、今より強い戦力が要る。
それと。
あの子供の傍にいるあの猫のような生き物は——本当に愛らしかった。
ギルドの棚の上で、でんと座って尻尾を振っていた。毛並みが良い。毛色に独特な模様がある。思わず三度、視線がそちらに向いた。あの毛に顔を埋めて思う存分吸いたい——ずっとそのことが頭の片隅を占領していた。何なのだろうあの猫は。魔物にしては気配がおかしい気もしたが、それはもう別の話だ。今それどころでは……
「今の戦力じゃダメね。なんとかしないと」
立ち上がった。机の上の書類を引き寄せる。計画を組み直す。方法はある。天才なのだから。
あるはずだった——その思考を断ち切るように、遠くで音がした。
ドーン、と。
地上から聞こえた。貧民街の方角だった。住民は家の中に隠れている。外には出てこない。スネークが本格的な号令をかけたのだ。抗争が大きくなっている。
(これでは、貧民街からの補充も難しい)
選択肢がまた一つ、消えた。
「なんとかしないと」
女はもう一度だけ言い、掻き上げた髪を手ぐしで整えた。壁のしみが目の端に映る。インクが乾きかけていた。
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