第13話 賑やかな夜と静かな傷
フォルティスの部屋は、まだ温かかった。
真夏の夜なのに、ヴェレント家の屋敷全体にあの実験の冷気が染みついている。廊下を歩くたびに壁から冷気がじわりと滲んでくる感覚があった。フォルティスの部屋も例外ではなく、タンスの上から毛布が一枚引き出されていたが、それでも自室の地下と比べれば、まだ人が住める温度だった。
テルムは椅子に座り、フォルティスは床に足を伸ばして背もたれにもたれかかっていた。エルはテルムの膝の上で小さく丸まって、黙っている。
「いやあ、テルムの采配には本当に感謝するよ。実際、一人だったら重傷を負っていたかもな! はっはっは」
フォルティスが腕を広げて、豪快に笑った。まるで今日の出来事が全て丸く収まった土産話でもあるかのような顔だった。その笑い声に、引っかかりも後悔も何もない。心底それ以上のことを気にしていないのが、この男らしかった。
「やっぱり予想通りか?」
(クチュン)
エルだった。テルムの膝の上で前足を鼻に押し当てたまま、一声だけ上げてまた黙った。
「あぁ、予想通り」フォルティスが少し姿勢を改めた。「変異種だった」
珍しく、笑いが引いた声だった。
「行動が、最近下水道を騒がせているワニと違うと思っていたんだ。案の定、ポイズンスライムを纏ったワニだった。近づくだけで毒の粒子が飛んでくる。あれは正面から詰める間合いじゃなかった」少し間が空いた。「……まあ、被害が出なくてよかったよ」
「腕、大丈夫なのか」
テルムはフォルティスの左腕をちらりと見た。手首の少し上に、夕方にはなかった包帯が巻いてある。
「あぁ、念のため診てもらったしな」
フォルティスがブンブンと腕を振って見せた。「全然動く。問題ない」それ以上は語らなかった。
「それにしても」フォルティスがにやにやしながらテルムを見てきた。「テルムの魔法の種は本当に便利だな。近づきにくい相手だと、つくづくそう思う」
「そうか」
「種を投げたと思ったら、あっという間に手のひらサイズのゴーレムが飛び出してきてガっとかじりつく。あの小ささでやることが大きいんだよ。相手が一瞬固まる、その間に俺が詰める。あれがなかったら倍は時間がかかっていた。魔術師が羨ましくなるよ、本当に」
「使えればそれでいい」
「そういうとこだよな、テルムは。作ったやつが言う言葉じゃないぞ」フォルティスが首を振りながら笑った。テルムは何も言わなかった。作る手間の話をする気にはなれなかった。
***
「で、テルムの方はどうだった?」
「まあ、普通の魔物だったよ。ただ——」
「ただ?」
テルムは少し言葉を選んでから続けた。「気になるのが二点ある。種類が多すぎること。それと、ワニがいなかった」
フォルティスの目が少し変わった。「……なるほどな」腕を組んで前を向く。「多種が仲良く群れるのも、あの湿地にワニがいないのも、どちらも考えにくい」
「あぁ、人為的なものを感じる」
そうテルムが伝えると、フォルティスは黙って考え込んだ。肘掛けを指先で軽く叩いている。普段の屈託ない様子とは違う、考えているときの顔だった。
エルも黙っていた。部屋の中が静かになった。
「そういえば」テルムはしばらくしてから言った。「あの女魔術師、なにものだ?」
「ん? 王都から来たやつか?」
「あぁ。あの女、俺より魔物の扱いがうまい。かなりの凄腕だ」
フォルティスが少し考えるように天井を見た。「……仕事はちゃんとしていたな。作戦の邪魔もしなかった。腕が立つのは確かだと思う」
「そうだろうな」テルムは短く言った。「ただ——」
「ただ?」
「なんでこの街にいる?」
フォルティスが少し眉を上げた。「ギルドが呼んだんじゃないのか」
「それはそうだが、あの腕でギルドの依頼か、と思っただけだ。根拠はない」
「……まあ、腕利きにも色々事情はあるだろ」フォルティスが肩をすくめた。「お前だって端から見たら似たようなもんだぞ」
「俺はここに住んでいる」
「そりゃそうだな」フォルティスが笑った。「引っかかるなら、もう少し様子を見てみるか」
「そうする」
テルムはそれ以上は言わなかった。根拠があるわけではない。頭の隅に置いておく。それで十分だった。
「エルはどう感じた?」フォルティスが話を振った。
エルはしばらく間を置いた。テルムの膝の上で丸まったまま、前足を鼻に押し当てている。
「花粉がひどくて……何もわかりませんでした」(クチュン)
フォルティスが声を上げて笑った。「エルは花粉症か。鼻がいいってのも考え物だな」
「笑いごとじゃありません」
エルはそれだけ言って、また前足で鼻を押さえて黙った。
***
「この調子だと」テルムがしみじみ言った。「貧民街の調査は後回しにした方がよさそうだな」
「この前の壁のあれか?」
「あぁ。魔術痕が薄すぎて俺だけでは手に負えない。エルの鼻が頼りだったんだが——この調子だ」
「貧民街で失踪者が立て続いているって言っていたっけ?」フォルティスが少し低い声で言った。
「そうだ」テルムは神妙に答えた。「嫌なことが立て続いている」
フォルティスは何も言わなかった。テルムも言わなかった。窓の外で夜風の音がした。
何かある。言葉にしなくても、二人が同じことを考えているのは互いに分かっていた。
「俺は地下のワニのことを引き続き追う」フォルティスがやがて立ち上がった。「テルムは採取場の仕上げをよろしくな」
「わかった、気をつけろよ」
「テルムもな」
軽い挨拶だけを交わして部屋を出た。廊下の冷気がまた肌に戻ってきた。テルムは歩きながら明日の段取りをエルに話した。
「また、あそこに行くんですか?」
「一度も二度も変わらんだろ」
「もう嫌です!」
屋敷の廊下の暗がりの中で、こらえ切れなくなったくしゃみが何度も続いた。(クチュン、クチュン、クチュン)
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