第10話 貧民街の子供
貧民街は、街の東の端に押し込められるように存在している。
大通りから二本外れると石畳が途切れ、地面が剥き出しになる。壁の隙間を縫うように路地が走り、突き当たると思ったら折れ、折れたと思ったらまた別の路地に繋がっている。昼間でも日が差し込みにくく、路地の奥は薄暗い。それでも人の気配はあった。洗濯物が吊られ、どこかで子供の声が聞こえ、古い鍋が転がっている。
テルムは昨夜聞いたことを引きずったまま、ここに来ていた。
(おっちゃんが「普通じゃない気がする」と言っていた)
エルが肩の上でそわそわしている。尾が左右に揺れている。
「テルムくん、テルムくん」
「なんだ」
「これってつまり——孤児院展開ですよね? ね? 孤児院展開ですよね?」
テルムは返事をしなかった。
「孤児院でテルムが子供たちに慕われて、でも最初は素直に懐けなかった子が最後にギュッとしてきて——みたいな流れでしょう?」
「だといいな」
エルが「絶対そうです」と断言した。尾がさらに立った。
(本当にそれであれば、ことは単純なんだがなあ)
テルムは路地を進みながら、周囲の様子を確認した。洗濯物の数。動いている人の年齢層。扉の開け方。昨夜の祭りのことを考えれば、貧民街の子供が出てこないのは昨日だけの話ではなさそうだった。
***
奥まった路地に入ったところで、蹲っている影を見つけた。
小さかった。二つ、重なるようにして壁際に座り込んでいる。近づくと、十歳前後の男の子と、その腕の中に収まった五、六歳くらいの女の子だった。女の子の唇が乾いている。男の子の目がぼんやりしていた。
テルムはその場に屈んで、腰の水筒を取り出した。
「飲めるか」
男の子が顔を上げた。警戒した目だった。貧民街で見知らぬ大人から何かをもらうのが得策でないことは、子供なりに学んでいるのだろう。
「毒は入っていない。確認したければ先に俺が飲む」
そう言って一口飲んで、差し出した。
男の子が少し迷ってから受け取り、妹に先に渡した。女の子がゆっくりと口をつけた。それから男の子も飲んだ。
テルムは何も言わずに待った。エルも珍しく黙っていた。
落ち着いたのを確認してから言った。「家に帰れないのか」
男の子が小さく首を振った。「帰っていない人がいるから」
「誰が」
「お父さんが」男の子が答えた。「三日前から帰ってこない」
テルムは顔に出さなかった。
「お母さんは」
「二年前にいなくなった」
それ以上聞かなかった。必要な情報に絞って続けた。「父親が消えたのは三日前。その前から何か変わったことはあったか」
男の子がしばらく考えた。「……ここ最近、大人がいなくなる話をよく聞いた。お父さんも気にしていた。でも仕事が見つかりそうだって、嬉しそうにしていた」
「仕事の話を誰から聞いた」
「知らない。詳しく教えてくれなかった」
(仕事の口。手がかりになるかもしれない)
テルムは立ち上がった。「少し待っていろ」
エルが耳を寄せてきた。「どうするんですか」
「目的地に行ってから考える」
「一緒に連れて行くんですよね?」
「ああ」
エルが「やっぱり孤児院展開だ」と小声で言った。テルムは答えなかった。
***
目的地は、貧民街の中ほどにある小さな酒場だった。
看板はなく、扉を開けると内部は薄暗く、昼間からぽつぽつと人が入っている。カウンターの端に、一人の男が座っていた。
背が高く、身なりは悪くないが、どこかくたびれた印象がある。目が鋭い。話しかけてくる前に周囲をざっと見る癖があった。
「おやおや」
男が口を開いた。声は穏やかだったが、温かみはなかった。「ヴェレントの坊ちゃん、こんなところでどうしました」
「ちょっと散歩でな」
スネークと呼ばれている男だった。
貧民街を仕切る派閥のひとつのリーダー格で、表向きはただの酒場の顔なじみという扱いになっている。
ヴェレント家のことは——テルムを含めて——どこかずれた連中として認識している。
それが逆に話しやすい。
テルムは子供二人を伴ったまま、カウンターの前に立った。
「この子たちの親が見つからないそうだが、何か知っているか」
「いんやぁ」スネークが肩を上げた。「わかりませんね。私も部下が行方不明で困っているんです。数ヶ月前からちらほら」
「数ヶ月前から」
「ええ。他の派閥の奴らだと思っているんですが……坊ちゃん、何か聞いてません?」
「残念ながらな」
いくつか言葉を交わした。スネークは情報を出すかわりに情報を求めていたが、今のテルムに渡せるものはない。ひとつ確認できたことがあった。大人が消えているのは、特定の派閥だけではない。複数の派閥で、同じことが起きていた。
(派閥同士の抗争で消えたのではない、かもしれない)
「参考になった」
「またいつでも」
帰り際、スネークが「坊ちゃん、猫が鳴いていますよ」と言った。振り返ると、エルが女の子と何か会話している。女の子が少しだけ笑っていた。
「従魔だ」
「そうですか」スネークが特に驚いた様子もなく答えた。「よく懐いていますね」
「懐いているのはあっちだ」
テルムは子供二人を連れて酒場を出た。
***
孤児院は、大通りと貧民街のちょうど境目あたりに建っている。
石畳が途切れかけた場所に、外壁は古いが手入れされた建物がある。入り口に花が植えてある。人が手をかけている場所は、そういう細部でわかる。
扉を叩くと、中から白い髪の女性が顔を出した。
「まあ、テルム様」
「久しぶり。困っていることはないか」
「いえいえ、今のところ大丈夫ですよ。よくしていただいて助かっています」院長が子供二人に目を向けた。「この子たちは……」
「親が見つかるまで、預かってほしい。飯と寝る場所だけでいい」
「もちろんです」
院長が子供たちの前にかがんで、柔らかい声で話しかけた。男の子が最初は固い顔をしていたが、少しずつ表情が変わっていった。女の子は院長の指を握った。
テルムは一歩引いて見ていた。エルが肩に戻ってきて、耳を立てたまま黙っていた。
(とりあえず、これで少しマシになる)
孤児院の奥から音がした。足音が複数、近づいてくる。
「ほら、来たぞ」テルムが顎で足音の先を示した。「孤児院展開ってやつが」
ドタドタドタ——と廊下の向こうから子供たちが走ってきた。五人、六人、七人。先頭の子供が叫んだ。「猫さんだー!」
エルが「えっ!?」と言う間もなく、子供たちが殺到した。
「可愛い!」
「ふわふわ!」
「名前なんていうの!」
「触っていい!?」
エルが小さな手に四方から囲まれた。頭を撫でられ、尾を引っ張られ、誰かが「抱っこしたい」と言い始めた。
「ちょ、ちょっと——」
テルムは院長を振り返った。「毎回こうなのか」
「初めて見る動物が来るといつも」院長が苦笑した。「しばらくお付き合いください」
「——思っていたのと違いまーす!」
エルの叫びが中庭に響いた。
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