第9話 エラン神祭
ヴェレント領では毎年この時季、噴水広場でエラン神を讃える小さな祭りが行われる。といっても大きな行事ではなく、神殿の前の広場に屋台が並び、住民が集まって夜を過ごす程度のものだ。街の規模にちょうど合った祭りだった。
夜の広場は明るかった。提灯の火が噴水の水面に映って、橙と赤が揺れている。屋台の煙と焼けた油の匂い、人の声が混じった熱気が広場全体に漂っていた。
「知りませんでした」
エルが呟いた。テルムの肩の上から広場を見渡して、尾がまっすぐに立っている。「私のために、こんなお祭りを……」
「誰もお前のためにやっているわけじゃない」
「でも名目はエラン神で、エラン神は私です」
「それがなんでお前のためになるんだ」
エルが「そういうことですよ」と意味深な顔をした。テルムは先を歩いた。
賑やかな祭りだった。屋台には串焼きと甘煮と、この季節だけ出てくる発酵した果実酒の露店が並んでいた。客はほとんど大人で、子連れが何組かいる。知った顔が何人かいて、その中の何人かがテルムに軽く会釈した。
屋台の間を歩きながら、テルムはなんとなく広場を眺めた。
(……少ない)
何が少ないのかを言語化するのに少し時間がかかった。普段の昼間にこの辺りを歩けば、必ずもう少し見かけるはずのものが今夜は目に入らない。貧民街のほうから出てくる子供たちだった。
昼間は必ずどこかにいる。路地を駆けたり、水場で騒いだり、この噴水広場で水を浴びたりしている子供たちが、今夜は見当たらない。
確認するほどのことではないかもしれない、とテルムは思った。子供が夜に出歩かないのは珍しいことでも何でもない。ただ、少し引っかかる。
「テルムくん、あれです」
エルが尾で方向を示した。神殿の入口横の定番の像ではなく、広場用に据えられた小ぶりな石像が、丁寧に花飾りで飾りつけられていた。
「きれいですよね」エルが言った。
「まあ」
「わたしも、もう少しおしゃれしてもいいかもしれませんね」エルが像を眺めながら呟いた。「あんな感じに」
「別に今のままでいいだろ」
「せっかくだから」
テルムは特に答えなかった。エルの格好がどうなろうと知ったことではない。
***
露店が並ぶ列の端に、エラン神にまつわる置物や絵画を売る店があった。
エルが近づいていって、一列に並んだ品を眺め始めた。小さな石製の像、刺繍の入った布、色つきの版画。尾がゆっくり揺れている。
「いいですね」とエルが言った。「こういうの、なんか嬉しいです」
「買うか」
「見るだけでいいです」
そう言った直後に、エルの尾がぴたりと止まった。
店の奥の端に、少し目立つ絵画があった。縦に長いつくりで、赤い布を張った台に立てかけてある。描かれているのはエラン神だった。ただし、神殿で見るような厳かな様式とは少し趣が違った。
「……なんですかこれは」エルの声が低くなった。
「絵画だ」
「見ればわかります。なんですかこの絵は。不敬です。著しく不敬です。これを許可した神殿の関係者は全員反省してください」
「まあまあ」
「まあまあじゃないです」
露店の主人が「お気に召しませんでしたか」と困惑顔で言った。テルムは「気にしないでください」と返した。エルが「気にしてください」と続けた。テルムがエルの首の後ろをつかんで持ち上げた。
「放してください。あの絵をどうにかしないうちは」
「どうにかするな。祭り的な需要があるんだろ」
「どんな需要があるというんですか!」
露店の主人が「人気商品で……」と小声で付け加えた。エルが「人気!?」と絶叫した。テルムはエルを脇に抱えて露店から離れた。尾がぷんぷんと揺れているのが横から見えた。
***
広場を一周しながら、串焼きを一本買った。
エルが「でも神として祀ってもらえているのはありがたいことですよね」とどこかで折り合いをつけ始めていた。気持ちの切り替えは早い。テルムは串を口に入れながら歩いた。
噴水の近くに来ると、見慣れた建物の前にテーブルが並んでいた。宿屋だった。
通常は店の中でしか出さない椅子とテーブルが路面に引っ張り出されて、近所の大人たちが三々五々集まって酒を飲んでいた。果実酒の瓶が何本か空になっている。
「テルム」
おっちゃんが気づいて手を上げた。店の主人の格好のまま、テーブルの端に立っている。「楽しんでいるか」
「あぁ」
「猫も一緒か、えらいな」
エルが「ご無沙汰です!」と尾を立てた。
少し立ち話になった。串焼きがどうだとか、この季節の果実酒は今年よくできているとか、そういう話だった。
テルムはしばらくして言った。「……ちょっと気になったんだが」
「ん」
「貧民街のほうで、何かあるのか」
おっちゃんの表情が少し変わった。特に大きな変化ではない。ただ、話の温度が下がった気がした。周りの大人たちとの距離を無意識に確認するような間の取り方だった。
「……テルムに話していいかどうか、微妙なんだがな」
「話したくなければいい」
おっちゃんが少し迷ってから、声を落とした。「貧民街のほうで、小競り合いがあってな。ここ最近、ちょっと物騒なんだよ。子供たちが外に出づらくなっているらしい」
テルムは答えなかった。
「まぁ、貧民街での話だからな。領主様が表立ってどうこうするってのも良くない気はするし、俺も大きな声では言えないんだが」
「貧民街には貧民街のルールがある」
「そういうことだ」
おっちゃんが一度視線を遠くに向けた。「ただまあ、なんか嫌な感じはするんだよな。小競り合いっていっても、ずっと続いてるし、なんか普通じゃない気がして」
テルムは短く「そうか」と言って、話を切る。
何かを悟ったようにおっちゃんが「ほどほどにな」と言った。声のトーンが少し違った気がしたが、反応しなかった。
(……貧民街か)
街に長く住んでいれば、あの界隈が独自の秩序で動いているのはわかる。表の法律が直接届かない部分を、住民同士の暗黙の取り決めがカバーしている。それを外から乱すことは、往々にしてよけいな混乱を生む。
ただ、子供が外に出られないほどの「小競り合い」が続いているというのは、いつものと少し話が違う気がした。
後ろを振り返ると、何かを囲んでテーブルが賑わっている。
よく見るとエルがそこにいた。大人の輪の中に収まって、果実酒の注がれた小さな器を前に、誰かの話に尾を振りながら大盛り上がりしている。
(……いつの間に)
テルムはため息を一つ吐いて、活気の中心に向かって歩き始めた。
***
「気持ち悪いです……」
自室に戻ると、エランがベッドの上で伸びていた。人の姿に戻っている。腕を額に当てて、天井を向いたまま動かない。
「猫の姿でお酒なんか飲むからだ」
「飲ませてくれたのはあそこに居た方々です」
「断れ」
「断れなかったんです。雰囲気が……」とエランが弱々しい声で言った。「でも楽しかったですよ。あのテーブルの方たち、いろんな話してくれて」
テルムは返事をしなかった。
しばらくして、エランが天井に向けたまま言った。「人間界には、おしゃれなものや、美味しいものや、楽しいことがたくさんあるんですね。とてもいい勉強になりました。これからはラノベ以外ももっとちゃんと楽しもうと思います!」
「いや、もう十分楽しんでいるだろ」
「全然です。まだまだ足りないです」
「……お前、十分すぎる」
「そうですか?」エランが少し首を動かしてテルムを見た。「テルムくんはもう少し楽しんだほうがいいと思いますよ。さっきも一人でふらふらしてましたし」
「調べ物をしていただけだ」
「楽しそうじゃなかったです」
「楽しさは関係ない」
エランが「そうですかねー」と呟いて、また天井に戻った。しばらくして「気持ち悪い……」ともう一度言った。
テルムはため息をついて、椅子を引いた。
今夜のことを頭の中で整理した。貧民街で小競り合いが続いている。子供が外に出づらい。おっちゃんが「普通じゃない気がする」と言っていた。
別の案件として積み上がっていくものが、また一つ増えた。
(……ゆっくりしたかったんだが)
貧民街の小競り合い。
採取場の魔物。
市場の素材不足。
別々の話のようで、どこかで繋がっている気がした。
窓の外から、まだ祭りの音が聞こえている。
その向こうで——
街のどこかが、静かにきしみ始めている気がした。
第9話 エラン神祭
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