第8話
ハリス男爵夫人マリー
――マリーは、もともと貴族ではなかった。
裕福な商家の娘。
財力はあったのでそれなりに教育も受けた。
だが、それだけでは届かない世界があることを彼女は早くから知っていた。
初めてアーサーを見た日のことを、今でも覚えている。
近衛隊の視察に訪れたその姿は、
噂通り――いや、それ以上に完璧だった。
(このような方が、いるのね)
凛とした立ち姿。
無駄のない所作。
周囲を圧する気配と、冷静な眼差し。
恋だった。
一目で、疑いようもなく。
けれど、彼は侯爵家。
才気あふれるその周りは、常に人で固められていた。
商家の娘が入り込む余地など、どこにもない。
それでも、諦めなかった。
伝手を辿り、知人を頼り、 何年もかけて
――やっと、紹介の場にこぎつけた。
最初の会話、 最初の微笑み。
最初の冷静すぎる視線。
私の好意に気づいたのか、彼は最初から線を引いた。
「私は、恋愛と結婚を別に考えている。結婚は家のためのものだ。」
曖昧さなど、どこにもなかった。
だがそれでも……と、焦ったマリーは間違えた。
やきもちを焼かせ、私を 失うかもしれないと思わせれば何か変わるのでは、そんな浅はかな期待で婚約話が出ていたハリス男爵との結婚を決めた。
――追いかけてきてほしかった。
止めてほしかったのに
「そうか、幸せになってくれ。」
アーサーは、淡々と祝福の言葉を口にした。
その優しさが、 何より、胸を抉った。
惚れた弱みだった。
「せめて、繋がっていたいの。完全に、切れてしまうくらいなら。」
そうして始まった関係を、 彼は拒まなかった。
愛を囁かれることはないし、 未来を語られることもない。
それでも、 呼べば来てくれる 触れれば応えてくれる
それで十分だと、自分に言い聞かせた。
――私が、一番長く彼のそばにいる。
――彼の素顔を知っている。
そう、信じていた。
なので伯爵家の娘、シシィが婚約者に決まったと聞いたとき、 理解が追いつかなかった。
(どうして……?)
特別美しいわけでもなければ華やかでもない。
声を張ることも、前に出ることもない。
生まれた家の格だけで。
自分が必死に身につけた所作も、 教養も、 努力も。
最初から、与えられていたかのように、当然の顔で彼の隣に立つ。
(……おかしいじゃないの)
マリーは、思った。
私の方が、彼を想っているし、私の方が彼を知っている。それに私の方が彼を愛している。
だからこそ、アーサーの視線が、いつの間にか、シシィを追うようになっていることに――
マリーはまだ、 あえて気づこうとしていなかった




