第30話
シシィは、しばらく何も言えなかった。
胸の奥で、いくつもの感情が重なり合う。
傷ついた記憶も、怒りも、そして、今も消えていない想いも。
「貴方はずるい方ですね。」
アーサーの眉がわずかに動いた。
「今さらそんな顔で謝られたら、簡単に怒れなくなりますわ。」
「怒ってもらっていい。むしろ、その方が当然だ。」
「ええ、怒っています。それでも、貴方が嘘をついていないことくらい、分かります。」
回廊を抜ける風が、二人の間を静かに通り過ぎる。
「少しだけ、時間をください。すぐに答えは出せません。でも、私は逃げません。ちゃんと、向き合います。」
アーサーは一瞬だけ目を閉じ、静かに頷いた。
「それでいい。だが、その時間を守るためにも先に片づけるべき問題がある。」
「第三王子殿下ですか。」
「ああ。」
声の温度が、近衛隊長のものへと戻る。
「殿下はここ数年、表に出ない資金の流れをいくつも持っている。表向きは社交費や慈善事業だが、裏では一部貴族との私的な取引が続いている。」
「証拠は?」
「まだ揃っていない。だが、動き始めた。王宮内で殿下を快く思っていない貴族は少なくない。これまでは恐れて口を閉ざしていたが、最近になり協力を申し出てきた者がいる。」
「それは……。」
「殿下に領地の権限を奪われかけた伯爵家、資金提供を強要された侯爵家、そして軍の人事に介入された将官たちだ。王子という立場がある以上、感情だけでは動けない。だが、違法な資金操作と権限濫用の証拠が揃えば話は別だ。王宮は必ず動く。君を政治の駒にしようとしたことも含め、全て終わらせる。」
シシィはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「貴方が危険ではありませんか。」
「ああ、危険だ。だからこそ、俺がやる。今度こそ、君を巻き込まない形で。」
シシィはその言葉を聞き、ゆっくりと息を吐いた。
「分かりました。ですが一つだけ。私は何も知らないままで守られるつもりはありません。必要なら、私も動きます。」
「シシィ。」
「これは、貴方一人の問題ではありませんから。」
その目には、もう迷いだけではない強さが宿っていた。
アーサーはわずかに口元を緩める。
「本当に、敵に回したくない女性だ。」
「味方です。今は、まだ。」
「なら心強い。」
近くで鐘が鳴り、午後の時刻を告げる。
「近いうちに動きがある。王宮は、少し騒がしくなる。」
「分かりました。」
シシィが一礼し、回廊を歩き出す。
数歩進んだところで、ふと足を止め――振り返った。
「アーサー様!」
「何だ。」
「待っていてくださいませ。答えを出すまで、少しだけ。」
その一言に、アーサーは静かに頷いた。
「いくらでも待つ。だがその前に、王宮の盤面をひっくり返してくる。」
その数日後。
王宮の裏で、静かに同盟が結ばれ始めていた。
第三王子ヘンリクを疎ましく思う貴族たちが一人、また一人と、近衛隊長アーサーのもとへ情報を持ち込む。
帳簿の写し、密約の証文、
そして――王子の側近が密かに動かしていた裏資金の記録。
やがて王宮は、まだ誰も気づかぬ形で、
大きく揺れ始める。




