第3話
夜会の会場は、甘い香水とざわめきに満ちていた。
シャンデリアの光が、宝石のように反射する。
――かつての私なら、
この光景だけで胸を高鳴らせていただろう。
「シシィ。」
アーサー様が、私の名を呼ぶ。
「紹介しよう。ハリス男爵夫人、マリー様だ。」
その瞬間。
私は、ほんのわずかに息を止めた。
(……ああ)
ハリス夫人は、艶やかな女性だった。
落ち着いた微笑みと、計算され尽くした所作。
柔らかな曲線を描くドレスが、
人妻らしい余裕と色香を際立たせている。
「まあ……噂のご婚約者様でいらっしゃいますわね?」
鈴を転がしたような声。
私は一礼した。
「シシィ・ヴァルモンです。お会いできて光栄ですわ。」
ハリス夫人は、にっこりと微笑む。
けれど――
(近い)
距離が、少しだけ。
彼女はアーサー様の隣に立つ位置を、迷いなく選んでいた。
しかも、自然に。
長年、そこが定位置だったかのように。
以前の私ならば気づかなかっただろう。
彼の視線が私ではなく彼女に先に向くこと。
彼女が言葉を発する前に、彼がわずかに身を屈めること。
その距離感が、社交的な距離ではないこと。
恋に恋して、結婚に夢を見ていた頃の私は――
おとぎ話のヒロインでいるのに、忙しすぎたのだ。
幸せだと信じることに、精一杯で。
「シシィ様、アーサー様は本当に素晴らしいお方でしょう?」
「ええ。とても。」
即答した自分に、少しだけ驚く。
嘘ではない。
でも、そこに夢はない。
「近衛隊長としても、一人の殿方としてもね?」
マリー夫人の言葉には、
わずかな含みがあった。
それに対して、アーサー様は否定しない。
笑みを崩さず、ただ沈黙する。
……ああ、この沈黙が答えだわ。
私はグラスを持ち替え、穏やかに微笑んだ。
「ハリス夫人は、とてもお美しい方ですわね。」
「まあ、嬉しい。」
夫人は楽しげに笑い、
そのまま、アーサー様に視線を投げる。
――視線だけで、会話が成立している。
長い時間を共有した人同士の距離。
それを、私はようやく正しく理解した。
胸が痛まなかったわけではない。
でも、不思議と――涙は出なかった。
私、ちゃんと目が覚めたんだわ。
夜会の喧騒の中で私は一つ、確信する。
この恋は、最初から私のものではなかった。
でも――
だからといって、私の人生まで彼の盤の上に置いておく理由はない。
私は一歩、下がった。
自然に、婚約者として不自然ではない程度に。
その一歩が、アーサー様の視界からほんの少しだけ私を遠ざけたのをこの時の私はまだ知らなかった。
ただ一つ言えるのは、おとぎ話のヒロインはこの夜、完全に幕を下ろした。
そして、その代わりに現実を見据える伯爵令嬢シシィが静かに息をした。




