第2話
その日の午前中、私はとても穏やかな気持ちで過ごしていた。
人は裏切られると取り乱すものだと聞くけれど、実際には逆の場合もあるらしい。
何かが、すとんと腑に落ちた瞬間、心は驚くほど静かになる。
ポリーが淹れてくれた紅茶は、いつもより香りが立っていた。
カップを両手で包みながら、私はソファに腰掛け、読みかけの本を開く。
――けれど、文字はまったく頭に入ってこない。
(婚約って一体なんだったのかしら)
思い返してみれば、すべてが整いすぎていた。
近衛隊長のアーサー様との出会い。
偶然隣り合った席。
偶然同じ本を読んでいたこと。
偶然趣味が合うと分かった会話。
当時の私は、それを「運命」と呼んだ。
でも今なら分かる。
――あれは、全部偶然なんかじゃない。
近衛隊長ともなれば、社交界の情報収集などお手のものだ。
誰がどんな令嬢で、どんな性格で、どんな家庭環境か。
その中で、
両親が冷え切った政略結婚をしていて、幸せな結婚生活に夢を見ている。
大人しくて、疑わなくて、扱いやすく、家柄もそこそこ釣り合う格下の伯爵令嬢。
――それが、私。
何よ、ぴったりじゃない。
「ちっとも笑えないわ。」
思わず小さく呟くと、ポリーが即座に反応した。
「お嬢様、何か?」
「いいえ。ただ独り言よ。」
私は本を閉じ、背もたれに身を預けた。
(でもそれでも、彼は――)
アーサー様は、私に優しかった。
必要以上に触れない。
感情を押し付けない。
理性的で、距離を保った優しさ。
私はそれを「誠実」だとずっと思い込んでいた。
(……違ったのね)
あれは、深入りしないための距離。
本命の愛人がいる男性が、婚約者に向けるべき最適解の態度。
「本当によく出来てるわね。」
思わず感心してしまう自分が、少し嫌だった。
昼前、アーサー様が屋敷を訪れた。
先触れはなかったけれど、婚約者なのだから不自然ではない。
むしろ、今までの訪問が少なすぎたくらい。
応接室に現れた彼は、いつも通りだった。
背筋を伸ばし、端正な顔に穏やかな表情。
無駄のない所作。
完璧な近衛隊長の姿。
「シシィ。突然で申し訳ない。」
「いいえ、お忙しい中ありがとうございます。」
私はにこやかに応じる。
……自分で言うのもなんだけれど、完璧な伯爵令嬢ムーブだったと思う。
彼は、何も気づかない。
それが、少し可笑しかった。
「体調は?」
「ええ、とても良いですわ。」
本当に驚くほど、調子がいい。
アーサー様は、私の向かいに腰を下ろし、紅茶に口をつけた。
「来週の夜会だが。」
「はい。」
「侯爵家からの招待もあるので少々、人目が多くなる。」
「そうですわね。」
以前なら、ここで私は少し不安そうに微笑んだだろう。
――私で大丈夫でしょうか、と。
でも今日は違った。
「アーサー様。」
「何か。」
私は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私、夜会は好きですの。」
「意外だな。」
「ええ。皆さまが何を考えているのか、とても分かりやすいですから。」
彼の眉が、ほんのわずかに動いた。
気づいた?気づかない?
私は、何気ない口調で続ける。
「表情や視線って、隠しているつもりでも案外、正直ですもの。」
アーサー様は微笑みを崩さないまま、言った。
「そうだな。」
その声が、ほんの少しだけ低かった。
胸の奥で、小さな火が灯る。
これは復讐じゃない。
怒りでもない。
――ただの、軌道修正。
彼の計画の中に、
「自我を持った婚約者」はきっと存在しない。
ならば、私は存在してみせる。
「シシィ。」
「はい?」
「何か、変わったか。」
「いいえ。」
「……そうか。」
「ただ――少しだけ、自分のことを考えるようになっただけですわ。」
アーサー様は、それ以上何も言わなかった。
でも私は知っている。
この人は今、説明のつかない違和感を覚え始めている。
(大丈夫、それで十分)
破滅フラグは、
いきなり折るものじゃない。
――ひびを入れるところから、始めるのよ。




