第18話
王宮の回廊は、昼下がりでも静かだった。
アーサーは書類を抱え、執務室へ向かう途中だった。
近衛隊長としての日常。
足取りも、表情も、いつも通り――のはずだった。
「おや。」
軽い声が、横からかかる。
振り向かなくても分かる。
この気安さ、この間の取り方。
振り返った先にいたのは、第三王子ヘンリク殿下だった。
相変わらず、楽しそうな顔をしている。
「殿下。」
形式通りに一礼する。
それ以上でも以下でもない、完璧な距離。
「忙しそうだね。相変わらず、王家の盾は大変だ。」
「お役目でございますので。」
「ふうん。」
ヘンリク王子は、わざとらしくアーサーの肩越しを見た。
まるで誰かを探すように。
「今日は一緒じゃないの?」
アーサーの眉が、わずかに動く。
「誰のことでしょうか。」
「ん?婚約者のご令嬢。」
ヘンリク王子は満足そうに笑った。
アーサーは、直感で判断した。
この男は、わざわざ言いに来た、と。
「君の婚約者、随分と可愛らしいよね。」
「……何のご用でしょうか。」
「いやいや、感想だよ。」
ヘンリク王子は、さらりと続ける。
「ああいう人は放っておくと危ない。」
「殿下。」
声を低くすると、ヘンリク王子はむしろ楽しそうに目を細めた。
「だってさ、大切なものほど気づいたときには誰かの手の中にあることって、よくあるだろ?特に、盾役の人間は守るのは上手でも、抱え込むのは不得意だ。」
アーサーの指が、書類の端をきゅっと掴む。
「殿下は、何をおっしゃりたい。」
「簡単な話。」
ヘンリク王子は、にこやかに言った。
「君が忙しくしてる間に、選択肢が増えることもある、ってだけ。ねえ、赤い薔薇が似合いそうだと思わない?」
――その瞬間。
アーサーの中で、何かがはっきりと音を立てて噛み合った。
表情には出さない。
だが、理解は一瞬だった。
「君は婚約者の立場だけど、
俺は男として口説いているだけだ。」
完全なマウント。
しかも、王子という立場からの。
「じゃあね、近衛隊長。」
軽く手を振り、ヘンリク王子は去っていく。
回廊に残されたのは、
いつも通りの背筋を保ったままのアーサーだけ。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
婚約者の周囲で起きていることを把握していないことがこれほど不快だとは。
「――報告を上げろ。」
近くに控えていた部下に、低く命じる。
「伯爵令嬢シシィの、ここ数日の動きすべてだ。」
盾であることは、もう言い訳にならない。
守るべきものを、
“誰かの選択肢”として扱われた。
その事実だけで、
アーサーの中の何かが、完全に切り替わっていた。




