図書館のおじさん
図書館には、匂いがある。
紙とインクと、日に焼けた合皮ソファの匂い。湿度と古書が育てたカビの香り。週末の午後三時、半谷町立図書館の二階奥の閲覧室は、世界のすべてから切り離されたように静かで、そこに座っていた彼はその空気の中にしっかり溶け込んでいた。
「あの人、歳を取らないおじさんだよ」
図書館で幼馴染の日和が最初に彼をそう呼んだとき、僕は飲みかけの水にむせてしまった。
「だって、十年前からあの人、ずっとあの見た目らしいよ。ここらに住んでる友達が言ってた」
「十年前って、僕らまだ保育園児でしょ」
「そう。でもあの人、当時からあそこにいたってさ」
日曜日、わざわざ高校の近くの図書館に来たのはこのためか。今日の日和は少しだけお洒落している。駅前通りを徒歩十五分の何の変哲もない図書館なのに。
日和の目が、おじさんを射抜くみたいに観察している。日本人離れしたハリウッド俳優みたいな容姿はイケおじと言っていいだろう。
「あの人、違う世界から来てるんじゃないかって思う」
僕は、その言葉に少しだけ笑ってしまった。まただ。日和のそういう突拍子のない直感はなぜか当たってしまう。
「あの人、首が本物じゃない」
「……え?」
日和は、指の先で自分の首をなぞるようにしながら言った。
「あれ、魔法で作ったやつだと思う。なんか、光ってるの。ほんの少しだけ」
魔法……?
幼いころから日和は「魔法」が見えていた。それを聞いたみんなは信じない。幼い頃に日和が「魔法」を見たから助かった僕と凛だけが彼女が嘘を言ってないことを知っている。
そして、そういう話をしている時の日和はかわいい。
僕が日和を好きなのはきっと凛にもバレてる。たぶん、日和本人以外のクラスメイトにもバレてる。でも、僕はそれを言葉にしない。できない。それが幼馴染という立場に安住する怠惰の証明だった。
「それはそうと、課題、どこまでできた?」
僕に言われ二人はおずおずと課題の冊子を差し出す。
それをぱらぱらとめくった僕は盛大な溜息をついた。
日和は三分の二は終わっている。今日頑張れば何とかなる。一方の凛が問題だ。
凛の課題はほぼ真っ白だった。
「水曜日に言ったよね、結構量があるからって」
「だってぇ、面倒だし」
「おかん、お前も大変だな、ほれ、お前の提出した課題だ」
先生に無理を言って提出した課題を取り返してよかった。姉のくせに凛は手がかかる。
凛には僕の課題を写させて、日和は僕が手伝うことにして隣にすわる。凛は写すだけなので対面にすわった。日和から聞かれるたびにちょっと肩が触れたり手が触れたりする。それに日和からいい匂いがする。顔、赤くないよね。
一時間ほど頑張ったら二人はちょっと休憩といって席を離れた。日和が離れて、ちょっとほっとしたような、残念なような気がする。
暇になった僕は何となくおじさんを見ていた。おじさんは読み終わった本を返そうとしたのか立ち上がる。そのときズボンのポケットからペンダントらしきものが落ちた。カーンという音とともにおじさんの首が消えた。
「えっ……」
思わず声が出てしまった。周りの人は気がつかない。音に気がついておじさんの方を見た人ですら気がつかない。
おじさんが落ちたペンダントを掴むと首が元に戻っていた。
いや、なんでだ。明らかに首が消えたよね。なんで誰も気がつかない。
おじさんは僕の後ろを通りすぎながら一言だけ言った。
「あとで、な」
どうしようか。帰ってきた二人にも話すか。そう思いながら二人の課題を手伝う。おじさんのあれは何だったのか、そして何を言いたいのかそればかりを考えていた。
日曜は閉館時間が早い。それでも何とか二人の課題は終わった。図書館を出るとまだ外は明るい。そしておじさんが外で待っていた。
「少年、それにそちらのお嬢さん方もちょっと付き合ってもらうかな」




