浮気相手へのラブレター(婚約者作)を伝書鳩が運んできてくれました
カミラ・ブライアーズは街の高級なカフェで茶を嗜んでいた。
彼女は口を付けたカップをソーサーへ置いて長い溜息を吐く。
「どう調理してあげましょうか」
つり上がった目尻のせいで、厳しい印象を与えやすい目は彼女から離れた壁際の席――親し気に会話を楽しむ男女へ向けられる。
お伽噺に出るお姫様のような、ふわふわとした金髪を持つ女性はキャシー・ハントフォード男爵令嬢。カミラの学園の同級生だ。
対面に座る赤毛の男はモンタギュー・ゴールドバーグ伯爵子息。彼もまたカミラの同級生であり――カミラの婚約者でもあった。
「……お嬢様」
傍に控えていた侍女は婚約者の浮気現場を目の当たりにした主人を案じるように顔を曇らせる。
しかし当事者であるはずのカミラは傷付いた様子も見せず微笑んでいた。
「いいのよ。彼の人間性も品格も、幼い頃からわかり切っていた事だもの。ブライアーズ侯爵家は由緒正しき高貴な血統の家柄。政界の権威や財力が優れていようとあのような者と血の繋がりを築くなど、お父様とお母様も反対してくださるでしょう。問題は……」
カミラは二人を見つめたまま目を細める。
「どう制裁を下すか……ね」
ブライアーズ侯爵家が社交界で舐められる訳にはいかない。
勿論モンタギューにも美味しい思いだけをさせる訳にはいかないし、必ず後悔させなければならない。
――ただでは転ばない、ブライアーズ侯爵家の精神を見せつけなければ。
そう考えたカミラは婚約解消に際し、彼への報復の手段を探し始めたのだった。
両親に真実を告げれば、二人とも心の底から怒りを見せた。
可愛い娘に何という侮辱をと怒り、今すぐにでも婚約を破棄しようと言い始めた二人をカミラは何とか諫め、モンタギューへ苦汁を嘗めさせる方法を考えるだけの猶予を貰った。
とはいえ、公の場で浮気の事実を公言するくらいしか思いつかない。
「私だけの証言だと嘘を吐いたと言われて終わってしまう気もするのよね。一応私が把握している浮気現場については日時を細かく纏めてはいるのだけれど」
ぶつぶつと呟くカミラは今、馬車に乗ってゴールドバーグ伯爵邸へ向かっていた。
モンタギューが浮気男とはいえ、現時点ではまだ婚約者同士。定期的な顔合わせは必要であった。
ゴールドバーグ伯爵邸の中で馬車が停まり、カミラは深い溜息を吐きながら馬車を降りる。
出迎えはなし。随分とぞんざいな態度である。
仕方なしに玄関へ向かうカミラ。
そこへ高く愛らしい鳴き声と共に一羽の鳩が館の中から飛んでくる。
「あら、ティキ」
カミラがその鳩の名を呼べば、どこかへ向かおうとしていたティキは彼女の肩まで下りて来る。
ゴールドバーグ伯爵は多くのペットを飼っている。伝書鳩のティキもその中の一羽だ。
モンタギューへ会わなければならないのには心底気乗りがしないが、それでも彼の家に住む多くの動物と会い、ふれあう事がカミラは好きだった。
「今からお仕事? ……あら、紐が」
ティキの足には手紙が取り付けられていた。
しかし紙の丸め方も、紐の括り方も随分と雑で今にも解けてしまいそうである。
どうやら送り主は相当焦ってティキを送り出したのだろう。
カミラは一度紐を解き、手紙を巻きなおしてやろうとする。
そこで気が付いた。
手紙の冒頭にある、キャシーという名前に。
そもそも、伝書鳩による文書のやり取りは随分原始的な手段である。
現在は大切な紙面のやり取りは人伝いに渡されるのが常。
そのルートを避ける理由があるとすれば、人を遣うだけの財力がないか――何か、後ろめたい事があるかの二択だ。
カミラは手紙を広げ、その内容を確認する。
そして最後までそれを読んだ彼女はやがて、うっすらと笑みを浮かべるのだった。
さて、飛んでいくティキを見送り、玄関へ辿り着いたカミラ。
そこから更に十五分程待たされたところでモンタギューが現れる。
「ご機嫌よう、モンタギュー」
「ああ」
「今日こちらへお邪魔する時刻は伝えたはずだけれど」
「女のお前とは違って、こっちは忙しいんだ。この世間知らずが」
「……左様でございますか」
カミラはやれやれと肩を竦め、息を吐く。
その態度が気に入らなかったのだろう。
モンタギューは顔を顰めた後、鼻で笑った。
「お前は本当に可愛げがないな。昔からそうだ。男に媚の一つも売れない、嫌味しか言えない上に親の権威に縋って人を脅す。その眼付だって、お前の性格を体現しているようだな」
「左様ですか」
「少しはキャシーを見習ったらどうだ? 彼女の愛らしさを真似でもすればお前も多少は女性らしくなるかもしれないな」
「何故キャシー様のお名前が?」
「……っ! ゆ、友人なのだから当然だろう」
「左様ですか」
明らかに動揺するモンタギューを見据えてカミラは微笑む。
家が持つ権威はブライアーズ家の方が上。それにもかかわらず彼がここまで尊大な態度を取るのは、カミラが過去に彼へ恋心を抱いていたからだろう。
幼少の、異性とも同年代の子供ともかかわりが薄かった頃の事だ。
婚約者のモンタギューの他に当時のカミラにが関わりを持っていた子供といったら幼馴染の男女一人ずつ程度であった。
お伽噺の中の男女の恋愛に憧れていたカミラは、顔だけは良く、且つ未来の結婚相手であるモンタギューに夢を見て、惹かれていた。
そしてモンタギューもそれに気付いていた。だからこそ彼は自分はカミラより優位な立場にあると思い込み、彼女を軽んじる言動を繰り返した。
そしてそんな扱いをされればいやでも心は離れていく。
今のカミラには勿論、モンタギューを想う心などない。
あるのは嫌悪のみだ。
だがモンタギューはそんな事を知らない。
めでたいことに、彼は今もカミラが自分を愛していると考えているのだ。
(悍ましい話ね)
笑顔の裏、カミラは密かに毒を吐いたのだった。
***
月日は流れ、モンタギューの誕生日パーティーの日。
婚約者であるカミラは勿論、そのパーティーに出席していた。
しかしモンタギューは彼女を隣には並べなかった。
代わりに彼はカミラの前に立ち、自分の傍らにはキャシーを付き従えた。
そして彼は言う。
「カミラ・ブライアーズ! お前との婚約は、今日を以て破棄する!」
カミラにとっては別に意外でも何でもなかった。
隠し通せていると思っていたらしいが、彼は学園でこの日にカミラとの婚約を破棄するという旨の話を言いふらしていたのだ。
その話は彼女の耳にも届いており、だからこそカミラもこの日に備えた準備が出来ていた。
しかし両家の両親はそんな事は知らない。
カミラの両親は怒りを顕わにし、父は今にもモンタギューへ掴み掛らんとする勢いである。
一方のゴールドバーグ夫妻は顔を青くさせ、今すぐ発言を撤回しろと人混みの外から声を飛ばしていた。
当然だ。ブライアーズ侯爵家とゴールドバーグ伯爵家の婚姻で利益が大きいのはゴールドバーグ伯爵家。
ブライアーズ侯爵家はその気になればいつでもゴールドバーグ伯爵家を切り捨てることが出来るのだから。
だがそんな事は一切考えられない世間知らずな伯爵子息は、カミラが驚き、悲しむ様を想像して笑みを深めている。
そしてその妄想が現実となる事を待っていた彼の前で……カミラは口角を釣り上げた。
「畏まりました。ではそのように」
周囲にはざわめきが走る。
ゴールドバーグ伯爵がモンタギューの名を呼ぶも、「父上は口出ししないでいただきたい!」とまるでこの婚約破棄が自分の一存だけで片付けられるもののような発言をした。
やれやれと肩を竦めるカミラの様子が思い通りのものではなかったらしいモンタギューは、笑みを引き攣らせながらこう言った。
「まさか易々と引き下がるとはな! お前の想いはその程度だったという訳だ! やはりこのような尻軽とは決別する事こそが最善だったという訳か」
「想い? 何を勘違いしていらっしゃるのかわかりませんが、私は貴方に一切の未練がございません」
「強がっていられるのも今の内だ。失恋に耐え切れず泣き始めるお前の姿はさぞかし見物だろうな」
「何故、こうまで侮辱し、罵倒するような……そして――平然と浮気をなさるような異性を好くことが出来ると?」
「は、な……!? う、浮気……!?」
「勘違いも甚だしい。恐ろしい思い違いもいい加減にしてください」
何を今更狼狽えているのか。本当に隠せているとでも思っていたのかと、カミラは呆れずにはいられない。
彼女は溜息を吐くと、モンタギューとキャシーを交互に見た。
「まず、婚約も交わしていない異性同士が身体的接触をする事は社交界におけるタブーです。婚約者を差し置いてとなれば猶更。……それと、互いの名を敬称なしで呼ぶ事も避けた方が良いでしょうね。これだけの事を公の場でなされば、勿論大半の者はお二人が浮気をなさっていると考えます」
「い、言い掛かりだ! そもそも、俺が彼女を気に掛け始めたのはお前がキャシーを虐めた事がきっかけだろう! お陰で彼女は学園でも社交界でも孤立したんだ!」
「彼女が孤立したのは異性へなりふり構わず色目を使うからとお伺いしておりますが……まあこの辺りをお話してもキリがありませんから、私からはわかりやすい事実のみを述べましょう」
カミラは会場の隅へ控えていた使用人へ合図を送る。
使用人は一枚の紙を彼女へ手渡した。
「な、なんだこれは……っ」
「手紙ですね。私が認めたものでも、私に宛てられたものでもありませんが。――私はとある伝書鳩が運ぼうとしていた手紙を偶然拾いました」
「な……っ! ま、まて……っ!」
「拝啓、我が愛しのキャシー」
カミラは手紙を手にすると、そこに記された文章を読み上げる。
「宝石店の中でもひと際輝く宝石のような貴女は、その眩さ故に今孤独を味わっているだろう。
けれどどうか憂いないで欲しい。私の心はいつだって貴女の傍にある。
今日はいい天気だな。貴女はこの休日をどのようにして過ごしているのだろうか。
私は貴女の事を想うだけで胸が締め付けられ、苦しくなる。
貴女への恋心と、そして愛し合っていても傍に居続けることが出来ない事への罪悪に。
私は今日、家のしきたりとやらのせいで例の女と共に過ごさなければならない。
だが案じないで欲しい。カミラ・ブライアーズは貴女と比べて愛嬌も品性もない、地位に縋るだけの卑しい女だ。決して貴女と比べる事も、貴女を置いて心が揺らぐ事もない。
今日がどれだけいい天気であろうと、私の心は雨模様だろう。
貴女が居ればいいのに。そうすれば私の心はすぐにでも晴れ、虹が掛かるだろうというのに。
せめて貴女の心だけは、私の分まで晴れていることを祈っているよ。
それと以前話していたオペラ鑑賞だが、来週の休日にどうだろうか。
カミラとの顔合わせは断っておこう。あいつには勉学に勤しみたいとでも伝えておけばいいし、両親にはブライアーズ侯爵邸へ向かうと伝えればいい。
俺と貴女の恋路は誰にも邪魔させないと誓おう。
ああ、馬車の音が聞こえる。
悪女、カミラ・ブライアーズがやって来たのだろう。
そろそろ切り上げなくては。
最後に、貴女への想いに偽りがない事の証に、この詩を捧げよう。
貴女がいない時は まるで止まってしまったかのようにセピア色
貴女以外の声は まるで無機質に動くからくり人形のように軋んでいる
緩やかに進む時の中 私の心だけが止まっている
貴女の愛だけが 温もりだけが 私の時間
時間よどうか 進んでくれ
私達だけを乗せて
愛しているよキャシー。誰よりも。
貴女を誰よりも愛している男、モンタギュー・ゴールドバーグより」
カミラが文章を読み上げ始めてからすぐに、周囲の人々はそれが紛れもない浮気の証拠であると悟った。
人々は顔を青くさせ、固唾を吞み、カミラを見守る。
しかしそれも謎ポエムが入るまでの間だ。
カミラの良く通る声が読み上げる詩。
それを聞いた者の中の一人が大きな音を立てて吹き出した事につられ、次々と笑いの波紋が広がり、やがてドッという笑いへ会場は包まれた。
さて、黒歴史ともなり兼ねないポエムを声高らかに読み上げられたモンタギューはと言うと顔を真っ赤にして震える事しかできないでいた。
また、この笑いの渦中に巻き込まれたキャシーは慌ててモンタギューの腕を振り払うと「違うの! 手紙はモンタギューが勝手に送って来ただけで……! 私は断っていたのに!」と、自分まで無様な笑い者に仕立て上げられるのを避けようと弁明を始める。
だが、彼女の言葉に耳を貸す者はいないだろう。
つい先程までの二人の距離感はどちらかが強要していたものにはどうしたって見えないのだから。
誰もがモンタギューとキャシーの不貞を疑いはしないはずだ。
更に、キャシーが裏切ろうとしたことでモンタギューは彼女に食いつき、事態はもう収拾がつかなくなる。
互いに醜く罵り合い、かと思えば号泣しだし、人生の終わりだと絶望に浸った絶叫を上げる二人。
それを見ながらカミラは平然とした様子で一礼する。
「婚約破棄? 喜んでお受けしますとも。さようなら。お二人ともどうか――末永くお幸せに?」
下げられた顔の下には勝ち誇った笑みが浮かべられていた。
大騒ぎのパーティーから逃げるように会場を出たカミラ。
心配してやって来た両親と帰ろうとしていた時、後ろから声を掛けられる。
「カミラ」
カミラが振り返れば、そこには辺境伯子息のセオドア・モーフェットという青年が立っていた。
「セオドア様」
「昔みたいにセオでいいのに。幼馴染なんだから」
「もう子供じゃないでしょう、私達」
気まずそうにする銀髪の青年を見てカミラは苦笑する。
セオドアはカミラの幼馴染だ。
両家では昔から付き合いがあり、カミラとセオドアの関係も良好であると言える。
セオドアと話し始めた時、カミラは視界の端で両親が親指を立てているのを見る。
両親は先に馬車へ戻っていると告げるとその場を離れ、カミラとセオドアは二人きりとなった。
その場に二人だけになったその瞬間。
品がない、大きな笑いがセオドアの整った顔から繰り出された。
「最初に笑ったの、貴方よね」
ポエムが読み上げられた瞬間、最初に響いた笑いを思い出し、カミラは指摘する。
セオドアは容姿だけならば涼し気な顔立ちと落ち着いた空気を纏った美青年なのだが、その実、笑いのツボがあまりにも浅かった。
「だ、だって……っ、モンタギューの奴……グッ、フフッ」
「笑い事じゃないのよ」
「君にとってはそうだろうね。ご愁傷様、ブフッ」
「元気そうで何よりよ」
元は幼馴染同士のカミラ、モンタギュー、セオドア。
しかしカミラとモンタギューが婚約してから、セオドアとは必然的に距離が開いていた。
互いに節度を持った関係を築いていたのだ。
だがそれも今日までの事。
セオドアはこうしてカミラに声を掛けてくれたし、セオドアと関わる事はカミラにとっても心躍る事には違いなかった。
まだ婚約者がいないセオドアか、今日嫁ぎ先がなくなったカミラはどちらかに婚約者が出来るまではまた親しい関係を築けるだろう。
そんな事を考えていた時、セオドアがカミラの横髪を指で掬い上げる。
「何?」
「いや? 今日も綺麗だと思って」
「婚約者がいなくなったからって揶揄っているの? 人が悪いわ」
彼は自分の顔の良さと、そこから発せられる言葉の重さに気付いているのだろうか。
大抵の女性であれば心が揺れ動いてしまうであろう破壊力のある言動にカミラが呆れていると、セオドアの青い瞳と目が合う。
「君にしか言わないけど?」
「え?」
セオドアの顔から笑みが消える。
返された言葉の意味が分からない程、カミラは子供ではなかった。
「君とモンタギューが上手くいくはずないでしょ。遅かれ早かれ破綻すると思ってたよ、モンタギューのせいでね。……思ったより遅かったけど」
セオドアの唇が薄く弧を描く。
「何で俺が婚約者を作らないでいたと思ってるの?」
美しい双眸に見据えられたまま動けないでいるカミラを見て、セオドアはくすりと笑いを漏らした。
そして彼は、カミラの頬に触れながら顔を近づけ――そっとキスを落とした。
「……へ?」
「じゃ、後日そっちの家に行くから」
じわじわと赤くなるカミラから離れたセオドアが言う。
「逃がさないからね」
満足そうに笑みを深める彼の瞳は、妖しく光っていた。
十年以上感じていなかった鼓動が高鳴る感覚に、カミラは狼狽える事しかできなかったのだった。




