私は雫に殺される
「水」をテーマとしてそこから更に限定的な物を考え、「雫」を使いました。
私は仰向けで眠ることができない。
仰向けになると、額に雫が落ちてくるからだ。
私は顔を見上げることができない。
見上げると雫が額に当たり、顔を伝って落ちるからだ。
それはたとえ晴れていても、建物の中であっても、仕事中でも、休日でも。
ひとりでいるときも、友達や彼といるときも変わらない。
始まったのはいつだったか。確かこの部屋にやってきた時くらいだと思う。
就職が決まり上京して、この部屋を借りた。
それから私は仰向けで寝られないし、顔を見上げることもできない。
最初は偶然だと思った。
気のせいかもしれないし、たまたまそういう位置にいたのかもしれないと考えた。
あるいは室内の結露。
あるいは配管の水漏れ。
理由はいくらでも思いついた。
でも、そのうちにはっきりと分かった。
これは偶然じゃない。
雫は、決まって額のど真ん中に落ちてくる。
右でも左でもなく、少しずれたところでもなく、いつも同じ場所に。
しかも、それは明らかに「水」だった。
触れると冷たく、ティッシュで拭くとちゃんと濡れていた。
服に落ちれば染みになるし、化粧の上に落ちればメイクが崩れる。
私は、その存在を無視できなくなった。
二週間もすると、私はできるだけ顔を上げないように気をつけていた。
通勤中も、オフィスでも、自宅でも、自然と視線は下を向いていた。
誰かと話すときも、必要以上に目線を合わせないようになった。
上を向くのが怖かった。
怖いのは、雫の冷たさではない。
落ちてくる「瞬間」を、どうしても捉えることができないことだった。
落ちるところを一度も見たことがない。
どこから落ちたのか分からない。
それでも、濡れた痕だけは確実に残る。
まるで私だけが知らないあいだに、誰かが何かをしたような気がした。
ある日、額に雫の感触があった直後、私は床に寝転がって天井を見上げてみた。
でもそこには何もなかった。
水が溜まっている様子もないし、結露もしていない。
照明の周囲も乾いていたし、配線からも異常はなかった。
私は洗面所に駆け込み、鏡を見た。
額を確認すると、そこには確かに水の痕があった。
ただぽつんと。
一滴分だけ、そこにあった。
このとき、私はようやく「これは変だ」と思った。
この雫は、たまたまではなく、意図的に落とされている。
しかも、どこにいても、同じように。
部屋を見回した。
天井の中心に照明がぶら下がり、エアコンの吹き出し口があり、窓の上にカーテンレール
が走っている。
それらの配置が、あまりにも「整いすぎている」ことに、気づいてしまった。
私は家具を動かした覚えがない。
リフォームもしていない。
でもなぜか、私の部屋の構造は、仰向けに寝転がったとき、額の真上に何かがあるような
作りになっていた。
そして、それは私の家だけではなかった。
オフィスの席もそうだった。
私の頭上にはいつも、吊り下げ式の照明があった。
書類棚も高い位置にあり、天井の空調口もちょうど自分の座っている真上にあった。
顔を上げた瞬間に、雫が落ちてもまったく不自然ではない場所に、私はいた。
席替えをしても、それは変わらなかった。
新しい席もまた、顔を上げれば額に何かが落ちる位置に、すべてが揃っていた。
一つ一つはよくある配置のはずなのに、全部が「そういうための」場所に思えてきた。
そして私は、その「配置の精度」に気づくたび、呼吸が浅くなっていった。
見ないようにしていたものを、無理やり見せられるような感覚だった。
何度か、人に話したことがある。
職場の先輩、昔からの友達、そして彼にも。
「顔を上げると、決まって雫が落ちてくるの」
「どこにいても、必ず額に当たる」
みんな、優しかった。
彼は「僕のところには落ちてこないな」とだけ言って、私の髪を撫でた。
友達は「変な話だね。でも建物とかのせいじゃない?」と笑ってくれた。
先輩も「大丈夫?疲れてるだけじゃないかな」と心配そうに肩を叩いてくれた。
誰も否定しないし、からかいもしなかった。
でも、そのどれもが「本気で心配してるわけではない」ことは、すぐに分かった。
言葉よりも、視線だった。
話を聞くときの目の揺れ、返事をした後の少しだけ不自然な間。
それは全部、何かを誤魔化すためのものにしか思えなかった。
彼らは知らないふりをしていた。
でも、本当は知っている。
私はその確信に、何より恐怖を感じた。
彼も、友達も、先輩も、彼女も、あの人も。
みんな、私のまわりで雫が落ちるようになっていることを分かっている。
そして、それに関わっている。
明確に手を動かすわけじゃない。
でも、そこにいる。
私が顔を上げた瞬間に、必ず誰かがいる。
誰も直接、雫を落とすわけじゃない。
それでも、私が上を見たときだけ、雫は確実に落ちる。
その構造が、周囲の人間の無言のふるまいによって、支えられているように思えた。
私は混乱した。
自分が何かの標的なのか、実験なのか、見えない悪意の対象なのか、何も分からない。
ただ一つ、確かなのは、誰ひとり、それを説明してくれないということだった。
笑いながら心配する彼の声も、真剣な顔を作ってくれる友達の態度も、
全部、わたしが理解しないことを前提に置いている。
それが、どんな言葉よりも残酷だった。
私は、信じることができなくなった。
誰も、何も、信じることができなかった。
目の前で濡れる額を、誰も見ようとしない世界で、
私は毎日、自分だけが正気なのか、それとも自分だけが狂っているのか、考え続けていた。
もう、何も分からなかった。
私は、だんだんと諦めるようになった。
助けてもらえるとは思わなかったし、何かが変わるとも思わなかった。
ただ、毎日どこかで額が濡れるのを耐えるだけの時間を生きていた。
朝起きて、天井を見ないように横向きに体を起こす。
歯を磨くときも鏡を見ない。顔を上げない。
仕事中、上司に呼ばれても、天井が視界に入らないように足元を見て動く。
それでも、必ずどこかで濡れた。
意識していても。避けていても。
何かの拍子にふと顔を上に向けると、必ず額に落ちてくる。
その一滴が落ちるたびに、私は自分のことを「壊れていく機械」のように感じていた。
私の役目は何か。
何のためにここにいるのか。
そう考えるたびに浮かんでくるのは、雫が落ちる瞬間の冷たさだけだった。
ある日、昼休みに窓のない休憩室でパンを食べていた。
ふと、天井の照明のカバーが少しだけずれているのが目に入った。
直後、額にぽたりと何かが当たった。
濡れた。
濡れたことに何かを言うのも疲れた私は、口を閉じたまま、濡れた額を拭った。
周囲にいた同僚のひとりが、こちらに気づいたふうに目を向けてきた。
でも、何も言わなかった。
その沈黙がすべてを物語っていた。
誰も、驚かない。
誰も、指摘しない。
誰も、何も言ってくれない。
私は、世界が私のために何かをしているのではないことに気づいていた。
そうではなく、私の周囲にいる人間たちが、雫を落とすために行動している。
また、誰か、あるいは何かによって雫が落ちた時、それを悟られないようにしている。
私のいる環境が、隙あらば私の額に雫を落とすような環境に造り上げられている。
それも、まるで呼吸をするように。
意図も理由も語らず、ただ当たり前のように。
その事実が、私は何よりも怖かった。
気がつけば、私はすべての行動を「雫が落ちるかもしれないかどうか」で判断していた。
外に出るときは、空を見るのではなく、屋根のある道だけを選ぶ。
座るときは、頭上に何もない場所を探す。
部屋に入れば、まず天井を確認し、濡れた痕跡がないか目を凝らす。
それでもなお、雫は落ちてきた。
もう、避けるという発想自体が間違っているのだと気づき始めていた。
この現象は「避けられるもの」ではない。
もっと言えば「受けるように仕組まれている」ものなのだと。
私の生活のすべては、どこかで必ず雫を受ける地点へと誘導されている。
しかも、その「仕組まれている」という感覚は、次第に確信へと変わっていった。
自分で選んだはずの部屋も。
自分で置いたはずの家具のレイアウトも。
職場のデスクの配置も。
行く先々の店の照明の角度までもそのすべてが。
私の額に一滴の雫が落ちるために整えられているように思えてくる。
誰が、どうやって、そんな手間をかけているのか。
理由は分からなかった。
でも、あまりに自然で、あまりに静かで、逆に怖かった。
もしこれが私だけの妄想なら、それでよかった。
けれど、雫は確実に、現実に触れている。
拭けば濡れていて、ティッシュはしっかりと水を吸っていた。
冷たさも、重さも、輪郭も、感触も。全部、現実のものだった。
その現実が、誰にも共有されない。誰も話を聞いてくれない。
私は考えるのをやめようとした。
何が原因なのか。
誰が関わっているのか。
なぜこんなことをするのか。
いくつもの建物が、多くの人々が、ただそのためだけに存在し、そのためだけに生活している。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
なぜ……。
理解がおよばない。
答えが出ない。
霧の中を歩き続けるように思えてくるその現実に、私は思考の足を止めた。
いくら考えても何もわからない。
それならば、せめて日常をこなしているふりをしていた方がましだった。
でも、そんな努力もすぐに限界を迎えた。
額が濡れるたびに、自分の意志ではない何かに支配されている気がして。
冷たさが皮膚だけじゃなく、内側にまで染み込んできているように感じるようになった。
雫の感触が、いつの間にか重くなっていた。
あの一滴が、頭の奥に入り込んで、思考の隙間に沈んでいくようだった。
夜になると、頭が重くて眠れなかった。
目を閉じて横になると、額に雫が落ちるような気がして体がびくりと反応する。
朝まで横を向いたまま、動けないでいる日が続いた。
それでも、どこかで必ず濡れた。
避けきれない。誰にも止められない。
私はただ、受け入れることしかできなかった。
それが日常になって、当たり前になって、やがて私は思った。
この生活は、私が雫を受けるためにあるのだ。
そして、その瞬間、私は自分の中で何かが終わったような気がした。
日常が、静かに濡れていくようだった。
何か特別な事件が起こるわけじゃない。
誰かに責められるわけでもない。
ただ毎日、額に雫が落ちる。
朝起きて仕事に行って同僚と話してお昼を食べて帰宅して彼と話してお風呂に入って眠りにつく。
そのどの時間にも、必ず「額に何かが当たる」瞬間がある。
一瞬で終わる。
けれど、その一滴で一日が塗り替えられる。
その一粒で、私の思考は濡らされ湿っていく。
私は、雫を拭うために日々を送っていた。
楽しいことも、美味しいものも、笑顔も、全部そのあとで濡れてしまう。
それが何の意味を持っているのか分からない。
分からないまま、私は「受ける側」としての毎日を続けていた。
どこにでもいて。
いつでも準備されていて。
私が顔を上げたその瞬間を、誰かが必ず見ていたのだと。
それでも、どうしても分からないことがあった。
なぜそれを続けているのか。
理由がどこにもない。
私が悪いことをしたわけでもない。
罰でもない。
償いでもない。
ただ、落ちてくる。
それだけ。
答えがなければ、終わりもない。
終わらせるには、私の側から動くしかなかった。
私は、静かに、ひとつの選択をした。
ロープを用意したのは、思いつきではなかった。
もう何週間も前から、頭のどこかで「これしかない」と感じていた。
額に雫が落ちないためには、仰向けにならないこと、顔を上げないこと。
ならば、最初から上も下も存在しない姿勢になればいい。
それだけのことだった。
静かな夜だった。
窓は閉めてあったが、風が吹いていた気がした。
部屋の照明を消して、カーテンの隙間から月明かりが床に伸びていた。
椅子を置き、ロープを結び、位置を調整した。
高さは、自然と首が通るような場所。
不思議と、何の迷いもなかった。
まるで、ずっとこの瞬間のために準備されていたような空間だった。
椅子に立ち、天井を見上げる。
この動作すら、久しぶりだった。
そして久しぶりの動作に、また天井はぽたりと応えた。
水滴は額から鼻の横を伝い、唇の端に触れて顎にまで落ちる。
どうしてか、心の中で少し笑ってしまった。
もう、これで最後だから。
もう二度と、額に何かが落ちる心配はなかった。
すべてを終わらせるために、今ここに立っているのだから。
ロープをかける。
一つ息を吸って吐いて、目を閉じる。
それから、足元の椅子を、後ろへ蹴った。
椅子が倒れてからは、とても静かだった。
身体が浮く感覚と、喉を締める圧迫。
苦しい。
痛い。
でも、そこに安心感もあった。
もう、何も落ちてこない。
私はもう、濡れなくていい。
もう、上を見なくていい。
もう、理由を探さなくていい。
世界は何も変わらないまま、
ただ私だけが、静かに、揺れていた。
額は乾いていた。
水も、冷たさもなかった。
けれどしばらくして、唇の端から、何かがこぼれた。
足を這うようにして、何かがこぼれた。
あるいは細く糸を引いた。
あるいは落ちていくように。
首元を伝い、足を伝い、それぞれが空中から一滴の雫になって落ちた。
「ぽた」
小さな音を立てて、床に落ちる。
苦しみが通り過ぎ、意識をこの世界から手放す間際に、頭の中でぽつりと呟いた。
私は、雫に殺されたのだと。
◇◇◇◇◇
――約一年後、女性の住んでいた部屋は全てが片付けられ、部屋には備え付けの物以外一切無く、彼女が首を括った場所も綺麗に塗り替えられていた。
そんな何も無くなった部屋のリビングには、トランクケースとバッグを持った女性と、スーツ姿の壮年の姿が見える。
社会人になり少し遅れた一人暮らしを始める事になった女性が、感嘆とした声で部屋の中を見渡す。
「えぇーっ! こんなに良い部屋があの値段なんですかぁ?」
笑顔で女性に聞かれた壮年は、同じくにこやかに応える。
「ええ。何年か前からうちの市では、地域のより良い発展や、新生活を始める若い方を応援しようという目的で、空き家や空き部屋を安値でお貸ししているんです」
へぇー、と壮年から離れない程度に動き回っては、目線の先にある間取りに感激していた。ベランダへの窓を開けて外を見ながら、女性は壮年に問う。
「こんなに良い部屋なのに、前の人はすぐ出ちゃったんですよねー」
「そうですね。前の方も何年かは住む予定だったそうなんですが、地方にある実家のご都合で止む無く戻られてしまいまして」
女性の背中に壮年は続ける。
「悪い言い方ですが、時期も中途半端になってしまったのでどうしようかと思っていた所にお客様が来られたんです。いやぁ、実にタイミングが良いですね」
「本当ですね! 時期が時期なんで良い部屋あるかなって思ってたんですけど、あって良かったです!」
一人の女性が命を落としたが、本来心理的瑕疵となる問題は直後に数人を入れ替わりに住まわせる事で強引に解決させた。
それでも物件について聞かれた際は答えないといけない場合もあるが、それを知る者は案外少ない。
無論、これから社会人となる女性は尚更だった。
「つめたっ!」
突然の冷たい感触に女性は額を押さえる。額から話した手のひらには、濡れた痕。
「? 雨漏りですか? いや、でも今日は晴れてるし……」
「ああ、もしかしたら配管から水が漏れているのかもしれませんね」
すぐに見てもらいますよという言葉に、女性も素直に返した。
そんなことはないのを知っている壮年は、息をするように噓を吐く。だが女性はそれを知らない。
『今回』は、思いの外早く始めるらしい。
そう心の中で呟いた壮年は、変わらない笑顔を女性に向けた。
「きっと気に入りますよ。この市のことを」