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四都物語異聞:柊のしじま

 心の底に潜む闇。その闇こそが真の光を映す鏡なのか。


     1 


 東都とうと青龍京せいりゅうきょうの東、柊川ひいらぎがわにかかる五条大橋のたもとは、常に人の往来が絶えない場所だった。

 人々が行き交い、その間を大車おおぐるまが縫うように進み、物売りや旅人がひしめき合い、都一番の賑わいを誇る。

 その片隅に、文吉という若き飴売りがいた。文吉が売る飴は、ただの飴ではない。季節の薬草を練り込んだ、甘い香りのする「薬飴くすりあめ」だった。喉の痛みに効く桔梗飴ききょうあめ、熱冷ましになる薄荷飴はっかあめ、疲労回復の甘草飴あまくさあめなど、どれも彼の祖母が残したいにしえの秘法で作られたものだ。

 文吉の飴は、その効能もさることながら、彼の剽軽ひょうきんな人柄と、決して多くを語らぬ謎めいた雰囲気が相まって、市井(しせい)の人々の間で密かな人気を集めていた。

 文吉はいつも顔の下半分を大きな布で隠し、目元しか見せない。その理由を尋ねる者には、ただにこりと笑うだけだった。人々は「きっと顔に大きな傷があるのだろう」とか、「ひょっとして、夜陰に紛れて闇を這う『夜鳴(よな)(どり)』の一員なのでは?」などと勝手に想像を膨らませていた。

 布の奥に時折見え隠れする微かな陰が人を惹きつけるのは、皮肉な話であった。

 ある日、文吉の飴を買いに来た女が、ひそひそと隣の女に話しかけるのが聞こえた。

「最近、なんだか体がだるくて困ってるのよ」

「大丈夫なのかい?」

「文吉さんの薬飴をなめてるから、なんとかね。それよりも、夜中になると奇妙な声が聞こえるの」

「まさか、『うらめしや~』って声かい?」

「なんで知ってるの?」

「私もなんだ。この間なんか、寝ている時に、天井裏でゴロゴロと何かが転がる音がしてさ」

「なんなのかしら。物の怪?」

「やめてよ、こわい」

 そんな噂話が、まるで流行り病のように都の市井に広がり始めた。最初は些細な寝言や耳鳴り程度だったものが、次第に「夜な夜な現れる影」「不気味な声」「体が思うように動かない」といった、奇妙な症状として語られるようになる。

 典薬寮の医師たちは首を傾げ、陰陽師も「気の乱れ」と診断するばかりで、確たる治療法は見つからない。人々はこれを「たたり病」と呼び、恐れ始めた。

 その噂は市井を越え、貴族の耳にも届き始めていた。「不気味な病が都に蔓延し、民の不安が高まっている」と、密かに報告する者もいた。

 文吉は、日々の飴売りの傍ら、この「たたり病」の噂を注意深く聞いていた。

 彼の祖母は、かつて言った。「病は、体の内にあるものばかりではない。人の心が生み出す病もまた、厄介なものだ」と。彼は、この奇妙な病の根源が、どこか心の問題にあるのではないかと感じていた。しかし、彼にはそれを確かめる術がない。ただ、彼の秘法の薬飴が、人々の心の安寧に少しでも役立てばと願い、いつにも増して丁寧に飴を練り続けた。


     2 


「たたり病」の噂は、瞬く間に都中に広がり、人々の不安を煽り立てていた。特に五条大橋のたもとで、人々は口々に奇妙な体験を語り合う。

「隣の家の者が、枕元に現れたという青白い顔の女の影にうなされて、寝込むようになってしまったよ」

「うちの坊主も、熱はないのに昼間からうつろな目で一点を見つめ、何やらぶつぶつとつぶやくんだ。まるで魂を抜かれたように……」

 文吉は、そんな噂を聞きながら、ある共通点に気づいた。どの症状も、まるで誰かに「そう思い込まされている」かのような、漠然とした不安を煽るものばかりなのだ。肉体的な病気とは少し違う。しかし、その不安が、本当に人々の体を蝕んでいるのも事実だった。

「文吉さん、あんたの飴、効かないのかい? うちの女房も、最近奇妙な気配を感じると言って、ろくに眠れていないんだ。薬草の飴じゃ、この『たたり病』には効かないのかね?」

 常連の男が、不安げな顔で尋ねた。文吉は、いつものようににこりと笑い、ゆっくりと首を横に振った。

「この飴は、体の疲れを癒し、心の安寧を助けるものです。しかし、『たたり病』の根源は、まだこの文吉にも測りかねます。ただ、一つだけ言えるのは、心を落ち着かせることが、何よりも肝要だということ。恐れに囚われすぎぬよう、皆様も気を付けてください」

 文吉の言葉は、その場の人々を少しばかり落ち着かせたが、根本的な解決には至らない。

 彼の顔の下半分を覆う布の向こうで、その目は不安げな都の様子を捉えていた。彼は、この「たたり病」の正体を突き止めなければならない、という強い使命感を抱き始めていた。

 その日の夕暮れ、いつものように飴を売り終え、家に帰ろうとした文吉の前に、一人の女が近づいてきた。顔色は青白く、目の下には濃い(くま)がある。彼女は、今朝、たたり病の症状を訴えていた女だった。

「文吉さん……」

 女は震える声で言った。

「あなたの飴を舐めても、夜の恐怖は消えません。それどころか、夜中に、あの声が……あの『うらめしや』という声が、日に日に大きく、まるで耳元で囁かれるように、私を呼ぶのです。目が覚めても、天井の薄暗い影が、まるでうらめしげに歪んで見えるのです。私はどうしたらいいのかわかりません。どうか、私を助けてください」

 女の目には絶望の涙が溢れていた。その涙を見て、文吉の胸は締め付けられる。彼は、これ以上、この奇妙な病が人々の心を蝕むのを、見ていられなかった。

「お任せください。この文吉、必ずやこの病の正体を突き止め、皆さんの不安を拭い去ってみせます。よろしければ、今夜は、私の家で休まれてはいかがですか? 薬飴作りに長けた祖母もおりますゆえ、ここよりは安心できる場所かと」

 文吉は、咄嗟にそう口にしていた。彼の顔の下半分を覆う布の奥で、僅かながらに何かが揺らめいた。

 困っている人を放っては置けない。

 彼はこの謎めいた病の根源を突き止めるため、今夜行動を起こすことを決意した。


     3


 その夜、文吉は、女を自宅の客間に休ませ、五条大橋へと向かった。

 夜の五条大橋は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。月は薄い雲に隠れ、橋のたもとには、灯台(ともしだい)の微かな光が揺れるばかりだ。風が柊川の水に冷気を運び、それが文吉の肌を粟立たせる。川面を滑る風の音すら、昼間とは違う、どこか不穏な響きに聞こえた。

 彼は橋の中央に立ち、じっと耳を澄ませた。

 昼間、人々が口々に語っていた「夜中の妙な音」「ゴロゴロ転がる音」「うらめしやの声」……それらは、どこから聞こえてくるのか。

 しばらくすると、微かな、しかし確かに聞こえる音が、風に乗って流れてきた。それは、橋の下から、重く湿った空気を纏って這い上がってくるような、不気味な響きだった。

「うらめしや……うらめしや……」

 それは、かすれた、しかし耳に残るような、どこか間の抜けた歌声だった。

 ぞっとするような「うらめしや」という歌詞だが、その旋律は、おどろおどろしいというよりは、むしろ物悲しく、どこか滑稽な響きさえも感じられた。まるで、酔っぱらいが、ろれつが回らぬまま歌っているかのようだ。

 同時に、ゴロゴロと何かが転がるような音も聞こえる。文吉は橋のたもとから、音のする方へとゆっくりと進んだ。

 音は、橋の下、柊川の河原から聞こえてくる。彼は、足元に気をつけながら、岩が転がる河原へと降りていった。

 河原は、夜闇の中でさらに視界が悪く、石につまずきそうになる。しかし、歌声は次第に大きくなり、その所在が明らかになっていく。

「うらめしや……今日もまた、誰も来ぬ……」

 歌声は、ますます間延びした調子になった。

 その歌声の主を探し求め、文吉が岩陰に身を隠して様子を窺うと、そこにいたのは、「妖怪」や「怨霊」などではなかった。

 そこにいたのは、背中に大きな唐櫃(からびつ)を背負い、柄杓(ひしゃく)を片手に、川の水をすくっては飲んでいる、痩せこけた老爺(ろうや)だった。

 老爺は、古びた着物をまとい、その顔には深い皺が刻まれている。そして、その背負った唐櫃の底からは、絶えず「ごろごろ」と何かが転がるような音がしている。老爺の顔は長年の風雨に晒されたためか、まるで枯れ木のようにひび割れ、それがまた異様な雰囲気を醸し出していた。

「これは……まさか、あれが『たたり病』の原因とやらではないのか?」

 文吉は目を疑った。目の前の光景はあまりにも現実的で、あまりにも奇妙だった。恐ろしい幽霊や鬼ではなく、ただの人間。しかし、その歌声と唐櫃から響く不気味な音は、確かに人々の不安を煽っていた。


     4 


 文吉は、意を決して岩陰から姿を現し、老爺に声をかけた。

「もし、(おきな)。このような夜更けに何をなさっておられるのです?」  

 老爺は、ハッと顔を上げ、驚いたように柄杓を取り落とした。その目には、深い孤独と、わずかな怯えが宿っていた。

「誰だ! こんな夜中に」  

 それはこちらが訊きたかった。

「これまで、わしに声をかける者など、おらなんだものを……」

 老爺の声は、先ほどの歌声と同じく、かすれて間延びしていた。

「私はこの五条大橋のたもとで、飴を売っております文吉と申します。翁の歌声と、その背中の唐櫃から聞こえる音が、都の人々を惑わせているようなのです。お聞かせ願えませんか、ここで何をなさっているのかを」  

 文吉がそう言うと、老爺は深い溜息をついた。彼の顔には、疲労と、どこか諦めのような色が浮かんだ。

「そうか……やはり、わしの声が、都の人々に聞こえていたか。わしは、この都に、長く忘れ去られた者だ。わしはな、この柊川の河原で、石を拾い集める者なのじゃ。この唐櫃に入っているのは、皆、わしが苦心して集めた、美しい石たちじゃ」  

 老爺はそう言って、背負った唐櫃をそっと河原に置いた。唐櫃の蓋を開けると、中には大小さまざまな石がぎっしりと詰まっていた。光を当てると、中には川の流れに磨かれた、まるで宝石のように輝く石も混じっている。ゴロゴロという音は、唐櫃の中で石が揺れる音だったのだ。

「わしはな、昔は東の市で石を売って生計を立てておった。だが、近頃では誰も見向きもしない。もはや輝く石も、飢えを満たす米にはならぬと、都の人々は口々に言い、わしの石を見る目は冷たかった。石の美しさなど、腹の足しにもならぬと。だがわしは石を売り続けた。この石だけが心の支えであったからだ。だが、都の人々は、誰もわしの石の美しさを解さず、わしは心を閉ざしていった。寂しくてな。いつしかわしは、夜中に誰もいないこの河原で、歌を歌うようになったのだ。『うらめしや』と歌うのは、わしの寂しさを表す言葉。このわしを、誰も気にかけてくれぬ、悔しさ。そして、夜中に水を飲むのは、喉が渇くからよ。わしは、決して幽霊などではないのだ……」  

 老爺の言葉は、文吉にとって衝撃的だった。人々の間で「たたり病」と恐れられていた現象の正体が、孤独な老爺の歌声と、彼の愛する石の音だったとは。

「ですが、爺。その歌声と音が、都の人々を病に陥れております。夜中に響く不気味な声と音に怯え、眠れぬ者が大勢いるのです。中には、病で寝込んでしまった者もおります」  

 文吉は、老爺の身の上には同情するものの、彼の行為が引き起こした事態の重大さを伝えた。

 老爺は、その言葉に深くうなだれた。彼の隻眼からは、一筋の涙が流れ落ちた。

「そうであったか……まさか、わしの寂しい歌声が、そのような事態を引き起こしていたとは……。知らぬこことはいえ、申し訳ないことをした。わしは、ただ、誰かに聞いてほしかっただけなのじゃ。このわしの存在を、知ってほしかっただけなのじゃ……」  

 老爺は、自身の無意識の行ないが、これほどまでに人々を苦しめていたことに、深く打ちひしがれていた。彼の顔には、自責の念が色濃く浮かび上がっていた。

「爺よ、どうか、もう夜中に歌を歌うのはおやめください。そして、その唐櫃も、夜は家に置いておかれるのがよろしいでしょう。もし、あなたの歌をどうしても聞かせたいのであれば、昼間に、この五条大橋のたもとで歌ってみてはいかがしょう。飴売りの文吉が、その歌を一番に聞きましょう。そして、この文吉の飴を、あなたにも差し上げます。心を落ち着かせる効能がございます。」  

 文吉は、優しく老爺に語りかけた。老爺は、文吉の言葉に顔を上げた。その目には、僅かな希望の光が宿っていた。  

 文吉は布の奥で、かすかに微笑んだ。  

 老爺の境遇に、文吉は自分の過去の影を重ねていたのかもしれない。


     5


 五条大橋のたもとには、変わらぬ賑わいがあった。  

 文吉は、いつものように飴を売っていた。そして、彼の傍らには一人の老爺が座り、静かに川の流れを見つめていた。老爺の顔には、まだ深い皺が刻まれているが、いつぞやのような絶望の色は消え、穏やかな表情をしていた。隣には唐櫃が置かれているが、今はもう、中からごろごろと音がすることはない。  

 老爺は、文吉から渡された飴をゆっくりと舐めていた。甘い香りが、彼の心を落ち着かせる。

「文吉さん、ありがとう。わしは、本当に愚かであった。自分の寂しさばかりで、他人のことを顧みなかった。これからは、心を改めて、昼間にこの石たちを都の人々に見ていただこう。そして、もし歌を歌いたくなったら、昼間に、あんたの隣で歌わせてもらうよ」  

 老爺は、文吉に深々と頭を下げた。文吉は、顔の下半分を隠す布の向こうで、にこりと笑った。

「もちろんです、爺よ。きっと、あなたの歌は、昼間に聞けば、都の人々の心を和ませることでしょう。そして、この美しい石たちも、きっと誰かの心を豊かにしてくれるはずです。」

 老爺は昼間に五条大橋のたもとに座り、静かに石を並べ、時折、かすれた声で歌を口ずさむようになった。彼の歌は、もう「うらめしや」ではない。  

 遠い故郷の歌や、都の美しい風景を歌う、穏やかな歌だった。初めは奇異の目で見ていた人々も、次第に老爺の歌に興味を持つようになった。

「あの爺さんの歌を聞くと、心が落ち着くようだ」「あの石も、よく見ると趣があるね」と、そんな声が聞こえるようになった。そして、奇妙な幻視や不気味な音に怯える者はもういなくなった。

「たたり病」の正体が、孤独な老爺の寂しさから生まれた歌声と、彼が愛する石の音だったという真実が、人々に広がるにつれて、都の人々は、自分たちの思い込みが引き起こした混乱に、どこか気恥ずかしさを感じた。そして同時に、見えないものへの恐怖心、安易な噂話が、いかに人を惑わすかを学んだのだった。  

 文吉の飴は、相変わらず都の人々に愛されていた。だが、それ以上に、彼が人々の心に、穏やかな真実と安堵をもたらしたことの方が、文吉の心には大きな喜びだった。  

 五条大橋のたもとには、今日もまた、文吉の甘い飴の香りと、老爺の穏やかな歌声が、静かに、そして確かな希望を乗せて、都の空に溶けていく。  

 人の世の奇妙な噂は、いつの時代も絶えないが、その根底には、往々にしてささやかな真実が隠されているものなのだ。




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