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「おお、戻ってきたか、千」
アトランに浅瀬まで送ってもらい、浜辺に足を踏み出したところで、父が待っていた。
「もう戻ってこないかと思っていたぞ」
「父上……」
「……千、おまえは千、で間違いはないな」
駆け寄った父は両手で千の肩を掴み、その顔を覗き込んだ。
父が目を瞠るのも当然だ。千姫は肩幅が広く、胸板は厚く、背も高くなっていたからだ。
「ただいま戻りました」
声も低く威厳に満ちていた。千姫は満足した。
「沖合にいるのは、あれはアトラン殿の妹の一人か」
「いえ、あれはアトランです」
「むう……」
父は低く唸った。
魔女はこう言ったのだ。種の壁を越えることに比べれば、性別を転換することなど容易だと。
アトランは女王になり人魚の国を統べる。千姫は跡取りになり、家督を相続する。
「すまぬ、すまぬ、千よ」
父に泣かれるのは困った。千姫が山高家のために愛を諦めたとでも思ったのだろう。
これは悲恋ではない。二人の恋はまだ続く。
いつか二人が結ばれるときがかならず来ると信じている。
やるべきことをやり終えたら一緒になろうと海と大地と空に二人は誓ったのだから。
それがどのような形になるかはいまはまだわからないけれども。
いままでの自分とはもう別れを告げよう。
胸を張り、顔をあげ、堂々としていよう。
決められた運命を恨み、逃れられない宿命を歎き、自分自身を憐れむことは、私もアトランもできなかったのだから。
千姫は曙光の空を見上げて顔をあげた。
しばらくのち、藩主の命により、とある浜辺は満月の夜の立ち入りが厳しく禁じられた。ただふたりをのぞいて。
お読みいただきありがとうございました。
人魚姫をモチーフにした小話ですが、隠しテーマが夫婦別姓や異性への無理解、価値観の相克、様々な愛の形、などでした。伝わるように書けていたでしょうか。
ほかにもシンデレラをモチーフにした、
『平安シンデレラ』という短編も書いていますので、よかったら覗いてみてください~。