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「ああ、もちろん、人間を人魚にすることはできるよ」
大きなシャコ貝の中に魔女は住んでいた。
結いあげた黒髪に簪や歩揺をさし、目元と唇に紅の化粧をしている。大陸の風俗だろうか、ゆったりとした袍をまとっている。
年齢は判然としないが美しい女性だ。足を組んで座っている。その足先は異様に小さく、凝った刺繍の布靴を履いていた。
「だけどタダじゃない。引き替えになにかをいただかないと願いを叶えてやることはできない」
魔女は赤い唇をにたりと薄くのばした。
「たとえば、おまえさんの美しい髪とか」
アトランの銀髪を指さす。
「髪ぐらいならいくらでもあげよう」
「髪の色をかえたいと思っていたところだ」
千姫は銀髪になった魔女も美しいだろうと思った。
「アトランの切った髪でカツラを作るのですか。それでしたら髪飾りは金色ではなく、青や緑が似合うようになりますね。いえ、飾りなど不要かもしれません」
アトランの銀髪には寒色の色相が入っている。
「切った髪? なにを言う。毛根ごといただくのよ」
「「ええ!?」」
アトランは両手で頭をおさえた。
だが千姫と魔女に凝視されるとアトランは強張った笑みを浮かべた。
「か、髪の毛など惜しくはない。千姫と結婚できるのなら」
強がっているのがよくわかる声音だった。
「無理しなくていいわ。美しい髪がもったいない。私の髪では駄目かしら」
「黒髪は間に合ってるよ」
魔女はそっけなかった。
「千姫が禿げるなどとんでもない。それくらいだったら、やはり俺が……」
「仮の話だけど、私が禿げたら、私のこと、嫌いになる?」
「まさか」
「それを聞けて安心した。もしアトランが禿げたとしても私の愛は変わらないわ。でも、なにかほかの礼物を用意しましょう」千姫は魔女に向き直る。「魔女様はずっと海の中でお暮らしなのですか。ご不便はございませんか。美酒や美味をお持ちしましょうか」
魔女は考える素振りをして、ふと目を落とした。視線の先には赤い小さな布靴がある。
「新しい布靴がほしいと思っていた」
「刺繍がほどけてきていますね。では私が新しいものをお作りしましょう」
「……いや、やはりいらぬ。どうせ陸に上がれないのだ」
「どうしてですか。足があるということは魔女様はかつては陸でお暮らしだったのではありませんか。陸に上がれない理由があるのですか」
「流刑。陸地から追放されたのだ。なに、暮らしてみれば海の底も悪くない。陸に上がったところでろくに歩けもせぬからな。水の中のほうが体が軽くて楽なのだ」
魔女は自身に言い聞かせるように言うと、目を伏せた。
なぜ魔女が歩けない足になったのかは千姫はわからなかった。刑罰の一種なのだろうか。
「もし、私が人魚になるなら、私の足を差し上げることができるけれど」
「いらん。そんな醜い大足」
魔女はぴしゃりと言い放った。
醜い大足と評されたのは納得がいかないが、それよりもひとつの考えが千姫の胸に降りてきた。アトランに向き直る。
「これはひとつの提案なのだけれど……」
アトランは顎を軽くあげて先をうながした。
「私たちが夫婦になるには、私が人魚になる以外にも方法がある」
「ほう、それはどのような」
「アトランが人間になるの」
アトランは狐につままれたような顔になった。
やがて胸をそらして「俺は人魚国の王子だ。責任がある」と威厳をこめた声を出した。
千姫も顎をそらす。
「私は跡取りを失った山高家の娘。でも婿を取れば跡取り問題は解決するわ。人間になって、うちに婿入りする気はないの?」
声に意気をこめた。責任は自分にもある。養子を迎え入れることができるまでは山高の家と父が心配だ。だからアトランが婿入りするのは悪くない考えだと思った。二人が結婚することにはかわりない。
ところがアトランは眉を寄せて呻いた。
「跡取りという意味では俺の責任のほうが重いと思う。なぜなら配偶者は女王になるからだ」
「妹さん、さっき会ったわね。彼女は女王にはなれないの」
「俺が女王を連れ帰れなければ妹が女王になるだろう。ちなみに妹はほかに三人いる」
「それなら跡取りがいないとは言えないじゃない。うちのほうが深刻よ」
「俺と結婚したくないのか」
「結婚したいわ。でも……」
急速に熱情が冷めていくのを千姫は感じていた。
「私はただ無責任に故郷を捨てることはできないと言いたかったのよ」
「俺もそうだ。困ったな」
「いい加減におし!」魔女が甲高い声を張りあげた。「人魚を人間にしようが、人間を人魚にしようが、どっちでもかまわないよ。先に言っておくけど、私の魔力は満月の夜だけは効力を失う。だから一月に一晩だけ、元の姿に戻ってしまうよ。それは了承しておくれね」
満月の夜に陸に戻り里帰りができる。アトランが言っていたのはこれなのだ。彼は魔女の効力を知っていて、父にとって有利な条件として提示したのだ。
裏切られたとまでは思わないがアトランには抜け目がないところがある。とはいえけして幻滅したりはしない。高貴な立場には責任が伴うものだし、愛におぼれてなにもかも安易に捨て去ってしまえる王子ではないことが証明されたのだ。王家の血筋を受け継ぐゆえだろう。
「次の満月の晩にもう一度会いましょう」
アトランは「お互いによく考えよう」と言って千姫を船まで送ると妹人魚たちを引き連れて海の底に帰って行った。
「体が冷えてしまっている。さあ、早く船に上がりなさい」
父が手を引いて千姫を支える。父の手は大きくて温かい。やはり家のことが片付くまで安心して嫁に行くことはできない。
次の満月まで七日。
そのあいだ、じっくりと考えようと千姫は思った。




