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翌日、兄の愛馬に乗って気晴らしに城下を駆けた。町を抜け田畑を突っ切り、海を目指した。
崖上から海を一望する。不思議と懐かしい気がした。
船火事に遭い、おぼれかけた恐ろしい海。美しい人魚が自由気ままに暮らす海。渡海が立消えたなら、あの人魚にもう二度と会えないということだ。鼻の奥がつんと痛んだ。
「おおい、ちょっと手伝ってくれえ」
しばらく海岸線を駆けていると、漁師らしき男が仲間に声をかけているところに遭遇した。岸に一隻の小舟が停まっている。よほど大漁で、人手がほしいのだろうか。
小舟の中を覗き込んだ漁師が「ぎゃっ」と叫び声をあげた。
「ありゃあ、人魚じゃないか」
「浅瀬で網にひっかかっていたんじゃ」
「どうする。放すか、それとも殿様に献上するか」
千姫の胸はざわめいた。漁師を押し退けて小舟に近寄る。
「どけ。私は千姫である。藩主の名代と心得よ」
漁師はかしこまって控え、丁寧に網をはずした。
「アトラン」
乱暴に扱われたのか、アトランはぐったりとしている。
「怪我をしている。誰か手当をお願い」
「……そいつは人間じゃない」
「魚を手当しろと言われても」
「そいつはあやかしだろう」
アトランが千姫の命の恩人とは知らないのだから漁師が困惑するのも無理はない。
千姫は彼を城に運ばせた。
「傷が癒えるまでここで過ごすといいわ」
「千姫、ここはきみの……?」
「大海原と比べたら庭池は狭いと思うけど我慢してちょうだいね」
アトランは縁石に腰掛けて、石灯籠を珍しそうに見ている。
「人間はわざわざ庭に水溜まりを作るのか。そして魚を飼う」
「アトランは鯉とは違うわ。傷が治るまでのあいだ、ゆっくり休んでもらいたいだけよ」
網で海底を引きずられたせいで、彼の皮膚は赤くなっていた。
深い傷はなさそうでほっとした。
「漁師の話では、浅瀬をゆらゆらと泳いでいたんですってね。陸地には近づかないように警戒していたのではなかったかしら」
「俺がなぜ浅瀬にいたか、わかるか」
「いいえ」
アトランは一拍間を置いた。わずかに躊躇したあと、千姫をまっすぐに見つめて告げた。
「きみをずっと忘れられなかった。きみはいまなにをしているんだろう、俺のことを思い出してくれたことはあるだろうか。そんな考えにとらわれて気がついたら浅瀬を彷徨っていた」
千姫の双眸からじわりと溢れてくるものがあった。
感情が高まると自分ではどうにもできないものだと千姫ははじめて知った。
「私も同じよ。会いたかった」
千姫は素直な想いを吐露した。
「でも、こんな想いは間違っている」
「間違ってない」
「種族が違うわ。私たちが結ばれることはない」
「二人の気持ちが同じ形を望むなら、可能だ」
アトランの長い銀髪と蒼い瞳を見ているだけで、千姫は頷いてしまいたくなる。それは途方もない夢からいつまでも目を覚まさないことと同じだと千姫は思う。
「まずは体を休めて。傷を治しましょう」
三日ほどでアトランの傷はほとんど目立たなくなった。
そろそろ帰らなければならないと繰り返すアトランに、城下で一番美味いと評判の菓子を盆に載せて運ぶ。
「ほら、焼き饅頭があるわ。ほかにも大福とか、水菓子も。海では甘い物は食べられないでしょう」
甘い物で口をふさいでも、わずかな時を稼ぐだけ。
「千よ、それが噂の人魚か」
「父上!」
片肌を脱ぎ、太刀を片手に握った父が庭に現れたかと思うや、いきなりアトランに斬りかかった。アトランは刃をかわし、水の中に身を躍らせた。
「父上、なにをなさるのです。彼は命の恩人だと伝えたでしょう」
「軽快な身のこなし、傷も完全に癒えたようだ。千よ、恩返しごっこは終わらせなさい」
「アトランを海に帰せと……?」
父はアトランを疎ましいと感じているようだ。しかし父の言うことには一理ある。
口実がなければ一緒にいられない関係はもうやめよう。夢を見てばかりはいられない。
「アトラン、あなたを海に帰します」
断腸の思い、という言葉がある。はらわたがちぎれるほどつらい、とはこのことかと千姫は涙をこらえた。こらえなければ、はらわたどころか全身が粉々になってしまいそうだった。
アトランはふたたび池端に乗り上げると、とんでもないことを口にした。
「山高の藩主殿よ。千姫を嫁にくれないか」
「これは奇妙なことを。アトラン殿の領域は海の中。千は人間だ。生きられまい。それに千はわしが手塩にかけて育てた一人娘だ。どこの馬の……どこの魚の骨にほいほいとやれるものか」
父が断るとアトランは「もっともだ」と肯った。
「俺は気まぐれや酔狂で求婚するような男ではない。千姫を大切にすることを誓う。人間は知らないだろうが、深海には人魚の国と海底宮殿がある。実は俺はその国の王子なのだ」
アトランが王子……!?
そう言われれば納得してしまうだけの高貴な輝きがアトランにはあった。
「ではいずれ王になるのか」
興味深げに父が訊ねる。
「いや、人魚の国では男は支配者になれない」
「女権の国なのか」
「ああ。倭国には浦島と乙姫という伝説があるだろう」
「うらしまものがたり」
千姫はぽそりと呟いた。幼児のころに絵草紙で読んだ覚えがあった。
「浦島は勇敢さと美徳を持ち合わせた若者だった。乙姫は彼を気に入りましたが、つまらないことで結ばれることはなかった。乙姫は人魚の女王でした。しかし浦島は王配になることを拒んだ」
王配とは女王の配偶者のことだ。
「倭国では男が国を統べるものだと考える。だから乙姫と結婚したさいには自分が王になるべきなのだと、そう強く主張したそうだ。乙姫は彼とは相容れないと悟り、浦島を陸に戻した」
「ふむ、なるほど。国が違うと文化風習は異なるものだ。面白い」
父はますます興味をそそられたようだ。
「なにはともあれ、すぐにアトラン殿は解放しよう。王子殿下をこんな狭い池に拘束しておくわけにもいくまい」