2
その夜、火事が起こった。
あまりの焦げ臭さに目を覚ましたときには、煙は千姫の部屋中に立ちこめていた。
這うようにして船室を出たが人の気配がない。
「小春、小春……!?」
侍女がいるはずの船尾は火に巻かれていた。
薄明かりの甲板では必死の消火作業が行われていた。酔った兵が火の不始末でもしたことは想像に難くない。
「消火は無理だ」
「生きてるうちに早く、海に飛び込め!」
消火を諦めて海に飛び込む兵たち。船が大きく左右に揺れる。
昼間は凪いでいた海は、飢えた獣のように人々を飲み込んでいった。
「姫様、海へ!」
甲板に佇む千姫を見かねた兵だろうか、叫び声を残して海に飛び込んだ。
「む、むりよ……」
海に飛び込んで助かるとは思えない。
おぼれ死ぬのと焼け死ぬのはどちらが苦しいだろう。
突風が船を揺らし、海水が船体に激しくぶつかる。海面には兵士の死体がいくつも浮いていた。
火の粉が着物の裾に燃え移った。
「ええい、ままよ」
千姫は思い切って海に飛び込んだ。あとは運命に身をまかせるしかない。
なるべく船から離れようとするが、水を吸って重くなった着物が邪魔で自由に動けない。帯を解いて襦袢だけになったが、それでも手足を拘束されているかのようだった。沈んでしまう。
そのとき、黒い魚影が千姫の目の前に現れた。
誰かの手が千姫の顔を包むのを感じた。
そして唇になにかが触れる感触。
目を開けると銀髪の男の顔が間近にあった。豊かな銀髪が彼の顔のまわりを照らし出していた。
「あなたは……」
昼間見た異国の男性だった。その手はしっかりと千姫の腰を抱きかかえ、千姫の上半身を海面に引き上げる。
男は人間ではなかった。下半身は鱗に覆われた魚の形状をしていた。
だが不思議と怖れは感じなかった。
「きみを助けよう」
「あの船にまだたくさんの──」
「残念だがきみひとりしか助けられない」
男は千姫を抱きかかえ、東を目指して泳いだ。
どれくらいの時間泳いだだろうか。やがて東の空に曙光が射した。
「俺はこれ以上は陸に近づけない」
千姫の足がつくほどの浅瀬になると、男はつなぎ止めていた手を離した。
「ここからはきみが一人で行け」
「待って、名前を、名前を教えて。私は千」
「アトラン」
「アトラン……」
慣れない異国の名前を口中で転がす。
朝が早い漁師の船が沖を航行するのが目に入った。
アトランは人目を避けて海に潜り、黒い影となって泳ぎ去って行った。
「おや、どうしたんだい。ずぶ濡れじゃないか」
浜辺で呆然と佇んでいたところを、通りかかった女が浜小屋に連れて行った。このあたりの漁師の妻だという。
白湯をもらい体が充分に温まったころ、漁師の妻は「家まで送ってあげるよ」と千姫に言った。心配そうな表情だった。
「苦しいことやつらいことはあるけどさ、死ぬくらいならどこか別天地に逃げちまいなよ」
どうやら入水自殺を疑われたらしい。
千姫は苦笑をこらえた。なにがあったか説明することは難しい。
城下町に向かい、武家屋敷まで進むと漁師の妻はおどおどし始めた。城の門番に誰何されたときに千姫だと名乗ると、とうとう腰を抜かした。
本丸御殿で父と城代家老に船火事が起こったこと、運良く海岸に流れ着いたことを報告した。
「おまえだけでも助かったのは神仏の加護のおかげであろう。ともかくいまはゆっくり休め」
千姫はふと城内がざわざわとしていることに気づいた。柱の陰でひそひそと会話する小者が目につく。
「なにかあったのでしょうか」
「うむ、実は……」
父は江戸からの驚愕の知らせを千姫に話した。