蘆屋道満、播磨国にて犬神を従えんとす
ざっ。ざっ。
紺の小袖、袴をまとった青年がひとり、ゆらゆらとあぜ道を歩いてゆく。
白くぼさぼさとした髪は、目にかかるほど伸びており、奥でらんらんと黄色い目が光っている。
髪色のくせ顔は若く整っており、18かそこらといったところである。
秋の田は既に刈り入れを終え、農民たちは各々米の籾をとり、白く輝く米粒を俵へ注ぎ込んでいた。
彼を見とめるとその見目の珍しさに皆思わず手を止めて眺めていた。この村の者ではない―――。
しかし、焦った様子の男が叫びながら走ってくると、みなそちらの方へ顔を向けた。
「たれか、たれか―――里長殿がお倒れになった」
ばう、ばう、と里長の家から犬が吠えるような声が響いている。
呼び声に応え里長の家へ向かった農民たちは顔を見合わせた。
中へ入ってみると、なんということか、吠え声を上げていたのは里長さとおさその人であった。
「朝よりこの具合でございます」
妻や息子が悲痛な面持ちで見つめているなか、里長は胸を押さえ、
吠えるようにのたうち回ったかと思えばうずくまって唸り声を上げて暴れている。
寝具代わりの筵は里長の爪で破り捨てられ、天井の梁や柱に引っかかっていた。里長の着物は胸元を中心に麻がほつれ、爪の剥がれた指でなおも掻きむしる為
血で赤く滲んでいた。
流行り病じゃ、うつるぞ―――、と誰かが呟くと、家人が引き留めるもやむなく
集まっていた農民は蜘蛛の子のように散っていった。
そんな中、叫ぶ里長の枕元へ腰かけ、その様子をじっと見つめている者がいた。
先ほどあぜ道を悠々と歩いていたあの青年である。
「たれぞ」
「蘆屋道満。―――水を。早く」
青年の姿に気づいた里長の息子が青年に名を尋ねるが、聞き覚えが無かった。
道満と名乗った青年の声は低くしわがれていたが、不思議なもので、
思わず頼ってしまうような力を感じさせる。
息子がいそいで水を汲んだ盃を男へ渡すと、道満は里長の眼前へ見せつける。
里長は盃をちらりと見るも意に介さず、依然苦しんでいる。
道満はにやりと嗤い、今度は盃を自身の口元へ持っていき、
何やら唱えると水を里長へ強引に飲ませる。
息子が男を引き留めるが、むせ返りながらも里長は苦しむのをやめ、静かになる。
先ほどまでの暴れようが嘘のように穏やかに寝息を立てる里長を見て、
息子は息をのんで父親の元へ駆け寄った。
「これは病のたぐいではない。―――呪いだ。かなり強い、な―――」
「なんと―――」
息子が驚いて道満を見ると、彼は土間のほうへ目をやっていた。
どうやら、外がまた騒がしくなっているようである。
息子が外へ出てみると、十数名の農民を率いた男が声をかけてくる。
「おれは国司殿の使いで参った。税の取り立てを忘れてはおらぬだろうな」
「これはどうも。税の用意はござりますが、父が今病に伏しておりまして」
「ならばお前が来い。近くの里で夜逃げが起きてな、これでも雑徭の数が足りん。そこの農民を借りるぞ」
男は当然というように、道満を指さす。
「いや、おれは旅の僧―――」
「この方はいま父を―――」
道満と息子が言いかけるも、男は有無を言わせぬという顔つきで睨みつけた。
「ははは、愉快だな、道満―――」
腕を組み、顔をしかめながら米俵を背負う道満の懐から、笑い声が響いた。
「黙れよ、“匕首”」
道満は唸るようにつぶやきつつ、行列の後ろを歩く里長の息子へ声をかける。
「里長はたれかに恨まれるような者なのか。」
「今年は長雨でどこも米の穫れ高が減っておりますようで、
税の取り立てをしておりますから、農民どもから恨まれることもございましょう。」
「まあそうだろうな。このところ、お前たちの家の周りでなんぞあやしいことが起きなかったか」
「あやしいことにござりますか。近頃は特になにも―――。雀やら犬やら見なくなったくらいでございます。まあ、刈り入れの季節はいつもそうでございます。実っていた米も皆俵に詰めて、我が家の倉に放り込みますから。米を狙う雀が来なくなり、雀を狙う犬が来なくなり―――。しかし、このところ
父もわたしも戸を回って朝から夕刻まで税の取り立てをしておりましたから、
気づいていないだけやも知れませぬ」
道満はそうか、と呟いて黙り込んでしまった。
日が正午へ差し掛かると、休息の声がかかる。皆運んでいた俵を下ろし、馬をつけ、めいめいに木陰に座りはじめる。成り行きで労役につかねばならなくなった詫び、そして父である里長を
寝かせた礼として、息子が道満に弁当を用意してくれていた。
道満も座って握り飯を食っていると、再度懐から声がした。
「食わせろよ、道満―――」
懐からぞろり、と黒色の蛇が顔を覗かせる。道満の持つ握り飯を狙い、ひょう、と首を伸ばす。
道満はそれを避け、蛇の前でうまそうに握り飯をほおばって見せる。
「“匕首”、働かざるもの食うべからず、だ―――それに、こいつはあの里長の息子が俺に用意したものよ」
道満は“匕首”と呼ばれた蛇の首を掴んで懐へ投げ込む。
道満の懐の中から暫くぶつくさと悪態をつく声が漏れていた。
「して、道満。くだんの呪いはあれで解けたのか。あれはなんぞ」
“匕首”が悪態を止め、道満に語り掛ける。
「あれは恐らく”犬神”という呪法の一種だ。殺した犬の骨を軒下や道に埋めて呪うものだが―――
いつ、たれが埋めたか、だな」
干し肉を齧りながら、道満は顔をしかめた。
「よし、ここでよい。荷を下ろせ―――」
昼を回って太陽が山の端へと傾きかけたころ、国司の使いが声を上げた。
茣蓙が敷かれたところへひとりひとり俵を下ろしていく。道満も続いたその時、
後ろにいた男の一人がどさ、と音を立てて倒れた。
皆駆け寄ると、男は泡を吹いていた。脚気にやられたか、と誰かが声を上げたその時、
倒れていた男は地の底から響くような唸り声を上げ始めた。
よく聞けば、犬のようにも聞こえる―――。
やがて白目を剥いたまま、ばう、ばうと吠えるように声を上げながらのたうち回りはじめる。
流行り病じゃ、里長様と同じじゃ―――
誰かの声に、恐れおののいた農民や国司の使いまでもが離れていく。
倒れた男のそばには道満と里長の息子のみ。
里長の息子は道満を見つめ、おろおろと様子を伺っている。
「これか―――」
道満は倒れた男ではなく、俵のほうへ向き直る。懐へ手を入れ、取り出したのは短刀である。
白木の柄には絡みつく様な蛇の姿が彫られている。
道満はためらわず俵を短刀で引き裂くと、周囲が思わず声を上げる。
ざらざらと零れる米に目もくれず、道満が俵へ手を差し込み中を攫うと、やがて何かを持ち上げた。
「ひっ」
それは黒く焦げた獣の頭骨であった。里長の息子を含む、まわりの人間が皆息をのむ。
「野犬が俵の中へ入り、死んだ―――流行り病もそれが原因だろう。この骨はおれが祀る。病に伏した者たちもいづれ癒えるだろう」
道満は周りへ言い聞かせるように大きな声で呟くと、里長の息子へ目くばせをする。
息子がうなづき、声を上げて雑徭の役へ戻るよう促した。
道満はその間に拾い上げた頭骨を手ぬぐいに包み懐へしまい込んだ。
そして倒れた男にも里長同様に水を与え、その場は開きとなった。
「先ほどの骨、もしやあれは―――」
「ああ。呪いだ」
村へと下る道、息子と道満はひそひそと話し込んでいた。息子は怯えたように顔をこわばらせるが、
道満は黄色い目をぎらぎらと光らせ、楽しそうに笑みを浮かべていた。
そして道満が手ぬぐいで包んだ件くだんの頭骨に手を当て、小さく何か唱える。
「この呪いを返す。たれが放ったかもわかるだろう。少し待て」
道満がにやりと嗤った。
「うちの者が世話になったな。まったく、かたじけない」
息子が去ると、先ほど倒れた男を背負った、数人の農民のうち一人が道満へ話しかけてきた。
男は浦部比呂麻呂と名乗った。日に焼けた健康そうな肌で快活に笑う。
どうやら周りの連中も同じ家の者のようで、道満を恩人として迎え、
休息の折には干し肉や栗を道満と分け合った。
日が山際に隠れるころ、ようやく村へ着いた。道満は比呂麻呂の家へと招かれ、
それに応じた。
「いやまったく、この頃は悪しことばかり」
「今年は長雨で米が不作でな、税で首が回らない」
「返す米を作るために飯の粟を育てる田を削っているでな、腹いっぱい食うこともままならんだ」
「里長様もそれを分かっているだろうに、鞭をもって家の前へ陣取るのよ」
「びょう、びょうと鞭が鳴る音にな、娘も怖がってしもうて―――」
囲炉裏を囲み、比呂麻呂とその妻、娘、父母などの家人たちと
ともに食事をしながら、比呂麻呂たちは世間の愚痴に花を咲かせていた。
「餌を食わせていた野犬も去なくなってしまうしなあ」
真似るように6つになろうかという娘が呟くと、比呂麻呂は娘の頭をなでる。
「おまけに流行り病ときた」
比呂麻呂が忌々しそうに呟く―――
道満は振舞われた粟の雑炊をすすりながら聞くに徹していたが、やがて厳かに口を開いた。
「そうか。税で苦しむ家人たちを守るため―――里長を呪ったのか」
凍り付いたような静寂の中、雑炊を飲み干した道満が淡々と続ける。
「あの俵に入っていた頭骨は“犬神”といってな、呪術のひとつだ。ただの野犬がああはならん。
犬の首から下を地に埋め、眼前へ飯を置き食わせずに飢え死にさせる。首をはね、焼いたものを祀り願をかける―――。娘が餌をやっていた野犬を捕らえて、犬神として祀り上げたのだろう。俵に埋め込んだのは見事な案だった。犬神が入った俵が倉に入ったことで倉の持ち主である里長へ呪いが憑いた。あのまま俵が国衙まで運ばれておれば、国司の命も危うかったろうな」
「なんだ、いきなり。娘が野犬の話をしたからか―――しらん、そんなことは」
比呂麻呂は青ざめながらも白をきる。
「そうか。おれをとんとん拍子で招いたのはどこまで気づいているか試すためではないのか。飯の蓄えがないならおれを招くなどしないはずだ。―――そも、おれはお前たちに招かれたからここへ来たのではない。こいつがここまで連れてきたのだ」
道満はそういいながら懐から件くだんの手ぬぐいを取り出し、ふたたびなにか唱える。
するとごう、と手ぬぐいが燃え上がり、その炎が犬を形どる。
立ち上る陽炎の毛並みは天を衝くように逆立ち、ばちばちと火花を散らす眼は比呂麻呂を
睨み続けている。煌々と燃える牙をむき出し今にもとびかかりそうである。
ああ、と娘が懐かしそうに寄ろうとするのを、真っ青になった比呂麻呂と妻が引き留める。
「呪い返しだ。おれとて放たれた呪いを空でかき消すことはできん。―――比呂麻呂、一飯の恩だ。今ここで自らこやつに食われろ。さすればお前の家人に呪いが飛ばぬようにしよう」
「なんだと。おおかた、おれたちの仕業と聞いた里長のどら息子からを受けているんだろう。この、腐れ坊主が」
比呂麻呂は青ざめた顔をわなわなと震わせ、歯ぎしりを鳴らしながら鎌を持ち出す。みれば、妻も父母も、めいめいに鍬や棒を手に道満へ迫っていた。
「痴れ人が。―――“匕首”」
道満は苦々しげに嗤うと、懐からあの俵を裂いた短刀を抜いた。
ぎらぎらと目を光らせながら鎌を突き付ける比呂麻呂に、すっ、と短刀を向ける。
すると、短刀の柄が黒い蛇へと姿を変え、刃が舌のようにするりと伸びて比呂麻呂
の肩を突き刺した。
「あなや、よ、妖術―――」
肩から血をだくだくと流し、鎌を取り落とした比呂麻呂をしり目に、
隣の家人へ犬の呪いがとびかかった。比呂麻呂が腕を振り回して叫ぶ中、
飛び掛かられた家人は声を上げる間もなく燃え上がり、どさりと倒れた。
炎の犬は泣き叫び逃げようとする家人へ次々と飛び掛かり、そのたびに火勢が増していく。
犬のまとう炎はあっという間に家を覆いつくし、道満が土間から転がり出る頃には
家全体へ燃え広がっていた。
遅れてがさり、と燃える家から飛び出したのはあの炎の呪犬であった。
道満が呼び出した時よりも二回りほど大きくなり、背にひろまろの娘を乗せている。
道満のほうへ寄り、娘を受け取るよう促してくる。道満が顔をしかめながら受け取る。
「世話になっていたからか。義理堅いな。それで―――どうする気だ」
犬は里のほうへ向き直った。赤々と燃える家に気づいて、灯りを持った村人が家から這い出して来る。
点々と灯る灯りを睨み、犬が唸り声を上げる。怒りと怨嗟が渦巻く、終わらぬ復讐の叫び。
決して満たされること無き呪いの咆哮―――。
「それもいいがな、おれと来ぬか」
道満が呪いへ語り掛けるように問うと、ごう、と炎が渦巻く目で道満を睨んだ。
「この娘を除く比呂麻呂とその家人への報復。本意は遂げたろう。
そも、お前をここまで連れてきたのはおれだぞ。その礼として、どうだ―――」
道満は懐から短刀を取り出し、犬へ見せつける。
「おれはな、金子や官職なんぞよりも、人の心より漏れ出す呪いや、神代の昔から棲む妖などを好いているのよ。人のなりわいなどよりも、呪いや妖の蠢く様を見、共に戯れることこそあはれとぞ思う。そしておれの食指が動けばそれらを食らい、集める。この短刀もそのひとつ。
どうだ、このちっぽけな里を潰して絶えるくらいならば、おれと来いよ―――もっと、大きな呪いにしてやる」
かか、と歯を見せて嗤う。その声は、どこか魅惑的な、惹かれるような色があった。
犬も、唸り声をひそめて暫く道満の話に聞き入っていたが、やがてぎらりと歯を見せて嗤わらったように揺らいだ。と、陽炎が揺らめくように、ひらりと手ぬぐいへと姿を変え、道満の腕へと巻き付いた。
「なんぞ、これは―――」
話を聞きつけたか、駆け付けた里長の息子へ、道満が声をかける。
「呪いが返った。比呂麻呂が呪っていた。これでお前の父もじき良くなろう。この娘だけが生かされた―――おれができるのはここまでだ」
道満は息子へ比呂麻呂の娘を渡す。
「わかり申した、この娘は、里で育てましょう。―――かたじけのうございました、道満殿」
頭を下げる息子を後目に、道満は去っていった―――。
その後。比呂麻呂とその家人は全身を焼かれた姿のまま助け出された。
肺と喉を焼かれ、飯も食えず、息をするたびにきゃん、きゃんと悶え、死んでゆく。
そのさまはさながら犬のようであったという―――。
ざっ。ざっ。
紺の小袖、袴をまとった道満が、ゆらゆらと夜道を歩いてゆく。
その傍らで、炎が一片、支えも無く宙に浮いていた。
「そうだな、お前は米俵の中で寝いぬていたからな―――“米寝”でどうだ―――」
ちろり、と道満の小袖の端が燃える。
「道満、お前は相変わらず名をつけるのが下手だな―――」
道満の懐から“匕首”押し殺したような笑い声が響く。
「おい、待て―――」
道満が袖を振り払う間に、炎がすう、と先へ飛んで行く。
かか、と嗤いながら後を追いかける道満の姿は、やがて闇に紛れ消えていった。