消えた命と擦り減るユーフォニアム
部活の先輩が亡くなった。交通事故だったらしい。
今日の部活のミーティングで、顧問が唐突に言い放った。僕らはまずその言葉に困惑し、次に動揺し、その事実を受け入れたと同時に悔やんだ。悲しんだ。僕も勿論悲しんだ。
昨日まで僕の隣の席に座り、ユーフォニアムを吹いていた先輩が、今はもうこの世にいないということは不思議だった。それは、僕らの思いつく限りの状況の中で最も非現実的なものだったからだ。大雪の中でセミが鳴いていてもありえないことだと思っていたからだ。
僕が思う限り、先輩はすごくいい人だった。先輩は中学からユーフォニアムを吹き続けており、その音色はどんな女性の喘ぎ声よりもやわらかく、のびやかだった。それは才能によって生み出されたものではなく、高効率かつ効果的な練習方法を長年やってきた努力の賜物であることは明らかだった。
そのようなスマートさを持っていながら、彼女は自分の実力を誇示することなく、謙虚でおとなしい性格で僕らと接した。練習の際のアドバイスも的確で、それを意識すると大抵の課題は改善された。
このようにして、人は先輩のことを「聖人」や「○○様」といったあだ名で呼ばれるようになった。要するに、先輩は真っ先に死ぬべき人間ではなかったのだ。すべての人々は先輩の命を真っ先に守り、世界は先輩を中心にまわるべきだったのだ。
その日の部活は非常に重苦しい雰囲気で終わった。そこら中に死の雰囲気が埃みたいに漂っていた。皆の顔も死人みたいに真っ青だった。僕らはそれらを体内から追い出すために、大きなため息をつかなければならなかった。
帰り道は、いつもと違って部長と一緒になった。部長は他の皆と別れて、校門を通り過ぎた瞬間にしゃがんで泣き出した。僕はその丸まった背中をさすった。彼女の背中は誰よりも生きていた。命を燃やす熱を持ち、感情に合わせて身体が揺れる。あの先輩とは見事に対称的だった。
「アヤは死ぬべきじゃなかった」部長はきっぱりと言った。「私はそう思ってる」
「僕もですよ。アヤ先輩には本当にお世話になっていましたから」
「すごくいい子だったよ」部長は立ち上がって言った。そして歩きだした。
「ケンカになっても感情的にならなかったし、練習は少しも手を抜かなかった。その上、ほかの人を教える余裕もあった。部活を休んだことすらなかったよ」部長は自慢げに言った。
「弱音を吐いたことも、人の悪口を言ったこともないんじゃないですか?」僕は訊いてみる。
「そうかもしれない」部長は頷いた。
それからしばらくして、高校からの最寄り駅に着くころ、部長がハッとした。
「私、アヤの好みとか、普段家で何してるかとか、聞いたことなかったかもしれない」
「僕もありませんね、自分からそういう話をすることはなかったんですか?」僕は訊く。
部長は十五秒ほど考えていたが、あきらめた。「なかったね。私の記憶には全く」
僕も十五秒ほど考えてみた。「あの、これって先輩が自殺したとは考えられないのでしょうか?」
「絶対に違う、と言いたいところだけど、やっぱり今話したところは気になるよね」部長は腕を組んで考えながら言った。
「はい、もしかするとアヤ先輩には、何か複雑な事情があったかもしれません」
ここまで話したところで、部長が乗る予定の電車が到着し、笑顔で別れた。
電車が行ってしまうと、僕は小さくため息をつき、ベンチに倒れこむように座った。
先輩が亡くなった日の放課後、僕は学校から近い文房具屋でシャーペンの芯を買っていた。店を出ると、少し遠くにアヤ先輩が見えた。しかし、少し様子が変だった。足の運び方がおぼつかない。まるで酔っ払いみたいだった。僕は心配になって、走って追いつこうとした。
あと十メートルほどで追いつくといったところで、狭くて見通しの悪い十字路に差し掛かった。アヤ先輩が十字路を曲がろうとしたとき、何者かが先輩を道の真ん中へ突き飛ばした。そこに大きなクラクションと共にトラックが先輩を吹き飛ばした。吹き飛ばされる直前の先輩の視線は、鋭く僕を突き刺していた。
車に身体を打つ鈍い音とトラックが急ブレーキをかける音を聞いて、僕はすぐに十字路へ駆けつけた。先輩を突き飛ばした犯人は逃げたようだった。辺りを見回しても、通行人は誰一人としていなかった。
ふと十字路の角にある店の窓を見ると、そこには反射した僕の姿が映っていた。僕はなんとなく右腕を前に伸ばした。窓の僕も右腕を前に伸ばした。反射した僕の腕は窓を突き破って伸びていた。
僕はその場から走って逃げた。とにかく逃げなければならないと思ったのだ。それがどんなに自分とは無関係な物事でも、逆に自分と関係の深い物事でも、走って逃げなければならない。世の中にはそういうタイプの物事が存在するのだ。
誰が何と言おうと、僕はアヤ先輩を殺していない。もし殺していたとしたらそれは僕の知らない僕であり、僕の知る僕は絶対にそんなことはしない。確かに心の底では彼女に嫉妬していたかもしれない。なんでもできる先輩をうらやましく思っていたかもしれない。しかし、そんな理由で先輩を殺したって僕には何のメリットもないし、人の命をむやみに奪うことはいけないことであるのはわかっているのだ。
しかし、もし先輩自身が死を望んでいたとしたら?家庭や学校の人間関係などに疲れ、「もういっそのこと楽になりたい」と思っていたとしたら?その場合、この殺人は許されるのだろうか?あるいは、先輩のその願望と僕の嫉妬が混ざり合うことで、合理的な救済システムが即座に構築されたのかもしれない。
「死人に口なし」というのは非常に恐ろしい。おかげで僕は、先輩の真意を知ることなく、先輩への罪悪感と周りの人々への不安感を思いながら生きなければならなくなった。もちろんこの体験は、僕が死ぬまで誰にも語ることはないだろう。
アヤ先輩が生きた大きな証であるユーフォニアムは、音を出すという本来の役目を終えて、徐々に劣化、摩耗が進んでゆく。まるで年を経るごとに擦り減っていずれ亡くなってしまう、僕の命のように。