嫌いにならないで
マルティナ王女の身辺に異変が起きたのは、
学力テストの結果が出てから一週間後の事だった。
王女の座席にレバーパテが塗られていたり、
彼女専用の教材が破壊されていたり、提出した王女の課題ノートがトイレの便座の中に捨てられていたり……。
そして挙句の果てには普通クラスの黒板に、
『マルティナ王女は国に帰れ!』とデカデカと書かれるという嫌がらせまで起きてしまった。
その日、登校したキャスリンとエレナは自分たちのクラスが騒然としている事に気付いた。
「何かあったのかしら?」
キャスリンがきょとんとして言うと、エレナは眉根を寄せて「何だか悪い予感しかしないわ……」と返した。
そして二人が教室に入るとやはりすぐに黒板に書かれた文字に目がいく。
「なにこれっ?こ、こんなひどい事を誰が書いたのっ?」
キャスリンが驚きを隠さずに大きな声で言うと、普通クラスに居た皆が一斉にキャスリンとエレナを見た。
目線は黒板に向けたまま、キャスリンはふと疑問に思った事を口にした。
「でもどうしてこのクラスの黒板に書かれているのかしら?」
王女は特進クラスだし、一学年は五クラスある。
その中でなぜ普通クラスに書かれたのだろう。
自分のクラスを依怙贔屓するわけではないが、このクラスの級友たちはみんな気さくで穏やかな者ばかりだ。
個人を特定してこんな嫌がらせをするような人間はいないはず。
不思議に思ったキャスリンがそう言うと、同じクラスの女子生徒が遠慮がちにキャスリンとエレナに小さな声で告げた。
「あのね、キャスリン、エレナ……この黒板の文字なんだけど、昨日日直だった私が最後に教室を出た時には書かれていなかったの……」
気まずそうに話す女子生徒の言葉にキャスリンは相槌をうつ。
「ふんふんそれで?」
「でも教室の鍵を閉め忘れていた事に気付いて戻って来た時にね、あの…その…キャスリンとエレナが教室から出てくるところを、わたし見たの……」
「うん?」
「その時は、何か忘れものだったんだろうなって、鍵を閉め忘れて却って良かったわなんて廊下の端で二人が走っていくのを見て思っていたの……それから鍵を閉めて、その鍵を職員室に渡しに行ったのよ……」
「ん?それってどういう事……?」
キャスリンがイマイチ要領が掴めずにそう訊くと、エレナが抑揚のない声で言った。
「つまり、私とキャスリンがこの黒板の文字を書いた犯人だと言いたいの?」
「え?」
キャスリンはぽかんとしてエレナを見た。
エレナのその言葉に女子生徒は気まずげに慌てて言う。
「も、もちろん普通クラスのみんなはキャスリンとエレナがそんな事する人じゃないと信じているわっ……!でも、そうじゃない人たちが……」
そう言って女子生徒がある方向に視線を巡らせる。
キャスリンもその視線を追ってそちらに目を向けると、普通クラスでの騒ぎを聞きつけてやってきたのだろう。特進クラスの者たちが普通クラスに来ていた。
その中にはもちろん王女マルティナもルーターもいる。
今の女子生徒の証言を既に聞かされていたらしい特進クラスの男子生徒が憤慨してキャスリンたちを責め立ててきた。
「お前たちっ!!よくも王女殿下を傷つけるような事をしてくれたなっ!!」
「そ、そんなっ、私たちそんな事していませんっ!第一、昨日は真っ直ぐに帰寮したもの!」
キャスリンが慌てて否定するも特進クラスの者たちは端からキャスリンとエレナが犯人だと決めつけたもの言いをしてくる。
「鍵をかけられる直前に教室から出て来たというお前たちが犯人に決まってる!」
「そうだそうだ!これまでの王女殿下への嫌がらせも全てお前たちの仕業だなっ!」
しかしその意見に、ルーターが冷静な様子で釘を刺した。
「それをすぐに結びつけるのは浅慮だ。それに、証拠もないのに犯人扱いするのは間違っている」
───ルーター……
キャスリンはこんな形で久々にルーターの声を聞いた事が悲しくなった。
ただでさえ、王女との事で嫌われているのではないかと心配しているのにそれがまたこんな事になってしまって、完全に嫌われたのではないかと思うと悲しくてたまらなくなる。
ルーターのその公正な言葉にマルティナが悲しみの表情を色濃くした。
「浅慮とは何……?数々の嫌がらせでわたくしが心を痛めているのは、側にいる貴方なら知っているでしょう?せっかく犯人が捕まろうとしているのよ?そのままきちんと追及するべきだわ……」
「王女殿下、しかし」
ルーターの発言を遮るようにして男子生徒は声を荒らげて言った。
「目撃証言で充分だ!この事をすぐに校長に報告して、この者たちを退学処分にしてもらおう!」
「そうだそうだっ、しかも王族への度重なる嫌がらせ、これはハイラント政府にも通報し、しかるべき法で裁かれるべきだっ!」
───そ、そんなっ……私たち、本当に何もしていないのにっ……!
狼狽えるキャスリンの隣でエレナは毅然とした態度で特進クラスの者に告げる。
「目撃証言だけで不当に犯人扱いされるいわれはありません。第一、何故私たちが王女殿下に嫌がらせを?それを行う理由が存在しません」
「理由なんて、王女殿下を妬んでの犯行に決まってるっ!」
「妬む?彼女に対し、何一つ羨ましいと思うところがないのに?」
「ひどいっ……ひどいわっ……どうしてそんなひどい事が言えるの?そんなにわたくしが憎いのっ……?」
マルティナは悲しそうに楚々としてハンカチで目元を押さえた。
それを特進クラスの男子生徒たちは辛そうに見つめている。
「王女殿下……」
「マルティナ様っ……」
しかしそれに構わずエレナは淡々とした様子で話し続ける。
「マルティナ王女。私は貴女を憎いとも羨ましいとも何とも思っておりません。申し訳ないけれど私、貴女に全く興味がないの。そんなどうでもいいと思っている相手に何故わざわざ放課後の教室に残って、しかもチョークで指を白くしてまでそんな事をしなくてはならないの?」
「ひどいっ……ひどいわっ!それに平民のくせになんて言い草なのっ!」
マルティナがヒステリックな声をあげる。
対するエレナの声は落ち着いたものであった。
「不敬はどちらか」
「なんですって……!ルーター!この者を捕まえてハイラント騎士団に引き渡して頂戴っ!もちろん罪状は不敬罪、王族であるわたくしに暴言を吐いたのだから当然だわっ………ルーター……?」
エレナに対し怒りを顕にしてマルティナは隣にいたルーターに命じた。
しかしルーターが何かに気を取られている事に気付き、訝しげな顔をする。
彼は一心に何かを見つめている。
「ルーター、どうしたの?」
マルティナがルーターの視線の先にあるものを見る。
するとそこには、
俯き、制服のスカートを握りしめながら声を殺して泣くキャスリンの姿があった。
ルーターが真剣な眼差しで見ていたのが取るに足らないものだと知り、マルティナは鼻で笑う。
「ふ、なぁにあの人、自分で悪い事をしておいて泣いているの?情けないわね」
マルティナが小馬鹿にしたようにそう言った。
キャスリンは俯いたまま、声を押し出すようにして言う。
「ルーター……ルーターぁ……お願いっ……信じてっ……私っ、私そんな事していない……王女様を虐めたり、睨んだり、嫌がらせをした事なんて一度もないのっ……本当よっ……」
「キャス……」
「私、絶対にっ……だからっ……だからルーターお願い、私のことっ……嫌いに、嫌いにならないでぇっ………」
キャスリンはぽろぽろと涙を零しながらルーターに訴えた。
やっていない罪で責め立てられるよりも、そんな事をする人間だったのかとルーターに誤解されて嫌われるのが何よりも嫌だったのだ。
幼い少女のように小さく嗚咽を漏らすキャスリンを、マルティナ王女は嘲笑する。
「子供みたいに泣いて情けない方ね。バカらしい。ルーター、あんなの相手にしてないでさっさとエレナとかいう不届き者を捕らえて頂戴……え?ルーター?」
そんなマルティナの言葉が、瞼をぎゅっと閉じて俯いままのキャスリンの耳に届く。
どうすればいいのか、どうしたらいいのか、もうキャスリンにはわからない。
ただ泣くことしかできない自分が情けなくて余計に泣けてくる。
だがそんなキャスリンをそっと包み込む何かの存在を体に感じた。
優しく抱きしめられ、その瞬間鼻腔をかすめる香りにキャスリンは息をのんだ。
「……ルー……ター……?」
子どもの頃から知っている、馴染み深い大好きな香りに、自分を抱きしめるのが誰なのかキャスリンにはすぐわかった。
「キャス……ごめんな、辛い思いをさせて。こうなる前に王女を排除できなくて、ごめん……」
ルーターはキャスリンを抱きしめ、つぶやくようにそう言った。
「ルーター……?」
「俺がキャスを……嫌いになるわけないだろう……世界で一番大好きなのに」
突然自分のもとから離れ、キャスリンを抱きしめたルーターを見て、マルティナは驚愕した。
「ルーターっ!?何をしているのっ!?」
ヒステリックなマルティナの声が、教室に響いた。