徹底抗戦
少年が一人、生きる道を選んだ。
その絶叫たるや、どれ程の苦痛を伴ったかなど想像に難くない。
逃げること。
見捨てること。
自分自身、それが彼の傷になると説いておきながら、絶体絶命を前に生きる選択をした勇気に奥歯を噛む。
正しかった。
圧倒的な敵を前に、久遠満の選択は残酷なまでに無様で、弁護のしようもなく、悔しいほどに正しかったのだ。
だから――俺達はこの場で、今ここで、この男を倒さねばならない。
「……ッ!」
コンクリートの壁から背を離し、その壁面に肩をぶつけることで外した間接をはめ込む。
肉体活性のおかげで、殴られた傷は最小限にとどまっている。
胃液と同時に喀血は済ませ、内臓の損傷も即死とは程遠い。
無理やり肩をはめ込んだ激痛など、もはや気にする必要性さえない。
片腕が使えれば、もう片方の肩も力尽くで直せる。
ひとまず両腕が動かせる状態になったことを確認し、制服の内ポケットから小さなナイフを取り出す。
――宗近の入れ知恵に命拾いをした。
得物は床に転がっており、それとハンス・ウィリアムズとの距離は僅か一歩分。
神宮寺を拘束しているとはいえ、あれを拾い上げ、久遠を解放するというツーアクションは許してもらえないだろう。
この状況で許される奇襲は、僅かワンアクション分だ。
実際に受けたことで拘束の証紋の性質は、ある程度把握している。
肉眼で視認出来ないソレは、おそらく伸縮性のある紐状のものだ。
他にも何か言っていた気はするが、今は無視をする。
タネがどうあれ、久遠の怪力を以てしても単純な力の綱引きでは勝てない。
その事実だけで十分だ。
痛む背中を丸め、両脚に力を巡らせる。
オレが吹き飛ばされたのは、空間の右奥――幸い、久遠と俺は直線上に位置している。
満がその場から逃げ出したことに、つまらなげにため息を吐いている男の有視界範囲から、僅かに逸れていた。
――神宮寺を拘束している今を逃せば、久遠を解放する機会を失う。
ヤツが俺の動きに勘付いているのかさえ不確かなこの状況。
しかし、つい数秒前から互いに視線が交わっている久遠もまた、その表情は同じだった。
――やれ、と。
俺が何を考えているのか、何をしようとしているのかは、もはや問題ではない。
現状を変える術、策、行動があるならば、それをやりきれ。
「――――」
駆け出す姿勢で、精神活性の封を切る。
拘束の証紋が霊妙の類いであるならば、僅かに拘束箇所を絞り込むくらいは望める。
特定は走りながらだ。
肉体活性の上限を限界まで引き上げ、精神活性による過集中に入る。
一太刀で切断出来る保証がない以上、俺は久遠を乱れ斬るしかない。
久遠麗華ごと、雲月賢史は彼女の動きを阻害する拘束を断ち切る。
イメージは薄皮一枚だが、到底そこまでの精度は保てない。
同胞を斬るイメージが指先の感覚を鈍らせる。
それを、戮士としては半端者でありながらも、その流れを汲む精神性が下支えをしてくれた。
――床を蹴り上げる。
ナイフ一本分の想定外に全霊を注ぐ!
本来ならば、二歩で踏破する距離を初速のまま駆け抜ける。
必要な加速、十全な運足すらこの男の前では命取りだ。
故に、気取られる材料は最小限に留め、一息で一連をこなす。
通い合う視線が途切れた。
久遠は俺の意図を理解したのか、目を閉じて顔を伏せる。
「――――」
僅かに乱れそうになる呼吸を呑み込み、無抵抗な友人をバラバラに斬り殺す幻想を飲み下す。
拘束箇所は――両手両脚。
だが、細かな知覚までは出来ない。
つまり、俺は今から久遠を膾斬りにする。
――鈍く、閃く小さな刃。
その白く柔らかな肌を、幾重にも斬り裂く感触に吐き気がする。
制服ごと、皮膚ごと、筋肉ごと久遠麗華を拘束していた証紋を断ち切る。
殺す気で斬りつけ、殺さないことに全霊を傾けた。
久遠の四肢が斬撃の衝撃に揺れると同時、小さく血が飛び散る。
時間にして三秒以下。
俺は勢いを殺さず、そのまま久遠と交錯し。
久遠麗華は痛みを訴えることなど頭にないとばかりに踵を返し――弾けるように、ハンス・ウィリアムズへ肉薄する。
「ちっ――!」
余裕こそあるが、男は舌打ちと同時に神宮寺から身を離す。
やはり、只者ではない。
戦闘経験も潜ってきた修羅場の数もまるで違う。
この瞬間、僅かな時間で、オレと久遠を先ほどまでの覚悟ではないと見抜いた。
久遠のフローリングの床が割れるほどの踏み込み、一撃一撃が全力の拳打。
息つく暇はない。
着地から姿勢を立て直し、まだ床に伏したままの神宮寺の上を飛び、俺は久遠と二人で畳み掛ける。
点で穿つ拳。
線で断つ刃。
飽和する攻撃を前に、ハンス・ウィリアムズは苦虫を噛み潰したような表情でそれらを両腕で捌いていく。
クソが――格闘の技量だけでなく、おそらく肉体強化系の証紋も併用している。
ズタボロになっていく白衣の袖の下では、男の両腕には傷一つついていない。
押し切れず、ハンスは最初に入って来た俺達と逆転するように、リビングの入り口まで後退する。
瞬時に攻守が逆転する予測が足を止め、神宮寺を背にして俺と久遠は細かく息を吐いた。
攻めきれなかった。
僅かだが意識外からの奇襲を成功させたというのに、届かない。
精神活性と肉体活性の影響で、刻一刻と蝕まれていく自分に肩を揺らす。
「自然治癒――いや、肉体操作の類いか。成る程、斬る方も斬られる方も見事なまでの覚悟だね。流石に虚を衝かれた」
久遠麗華は、俺の斬撃を受けながら多量の出血は防げている。
おそらく、肉体を操作して一時的な止血をしているのだろう。
拘束から解放出来たのはいいが、久遠の証紋性能の幾つかが落ちたことも痛手だった。
それでも、手数では遥かに上回っていたはずだ。
つまり、俺達にも想定外があった。
ハンス・ウィリアムズの戦闘技能は確かに高い。
見誤ったのは、その中身。
この男――こと守りに関しては、鉄壁とも呼べるほどに攻撃を捌くのが巧い。
これだけこちらに形勢が不利な状態が続きながら、技量で見ればこの男は、「守る技術に特化している」とまで言えた。
「だが、無駄な抵抗だよ。この状況では、君達は私に勝てない」
あぁ、知っているさ。
だがもう、勝敗など二の次、三の次なのだ。
「勝つ。お前はここで殺す。満の為にな」
ここで仕留めなければ、久遠満は再起不能になる。
あの優しさでは、自分の行為から立ち直るのは容易ではない。
だから、勝てる・勝てないの話など、とうに過ぎている。
例え勝ち目がなくとも、まだ命があるならば、擲つモノはあるのだから。
――そう、再び命を捨てる覚悟で。
最期の攻勢をかけようと久遠と共に構えた時だった。
男の背後――薄暗い玄関に、赤く白い筋が袈裟に奔る。
刹那、上半身と下半身に分かたれた人体のように崩れ落ちる扉の隙間から、人影が飛び込んで来たのが見えた。
「――ッ!?」
翻る黒いコート。
肌を舐めるような熱気。
紅い女が波打つ長髪を靡かせ、ハンス・ウィリアムズと交錯する。
「処刑人――!」
完全に予想外の加勢だったのか、男は憎々しげに闖入者へ舌打ちをすると、狭苦しいこの室内で激しい攻防が繰り広げられる。
闖入者――紅い女は、一見すると空手に見える右手に、「何かを持っていた」。
いや、右手から何かが伸びている?
「あ~、やだやだ。完璧な不意打ちだと思ったのに、あっさりと凌いでくれちゃって」
舞台は限られた空間の左奥へ移り、本来であればソファやテレビなどが置かれ、寛ぐ場所だったソコで両者対峙している。
その距離、三歩もないほどの近距離だ。
双方の技量からしても、当然の如く互いに射程範囲。
証紋の行使を含めた激しい戦闘により、既に家具の類いは部屋の端々へ吹き飛ばされ、只のガラクタへと化していた。
「君達も諦めが悪いな。自分達でシェオルを売っておきながら、証紋は寄越せとは虫の良い話だ」
「よく言うわね。アナタが唆さなきゃ、死ぬまではいかなかったと思うけど?」
「魔法使いらしい、傲慢な考えだね。生きていれば死ぬよりはマシだとでも? 蒐集家と百識老、どちらの門下に下っても碌な扱いは受けない」
「ま、その点に反論はしないわ。特に百識老に関しては、アナタの飼い主だものね。今頃、カンカンなんじゃない? その裏切りのせいで、タナトス側でも死者が出たワケだし」
紅い女の呆れたような指摘に、ハンスは「死ぬ方が悪い」と冷酷に断ずる。
「それで。くだらない世間話をしに来たのかい。それとも、御紋会に恩を売りに来たのかな」
「へぇ、御紋会ってやっぱり随分と義理堅いのねぇ。『この程度』を恩義と受け取ってくれるなら、サイラスお坊ちゃんの見立ては正しかったってことだ」
言い終わると、そこが分岐点だったのか――紅い女の目つきが鋭さを増す。
俺も久遠も、会話の行く末を注視するのが精一杯だった。
つぅ、とこめかみを汗の筋が通る。
あの紅い女が来てから、じりじりと室内は異様な熱気に蝕まれている。
「雲月くん」
「すまない、助かる」
背後から、神宮寺の声がかかった。
身を起こしたのは身じろぎと衣擦れの音で気づいていたが、どうやら落ちたままの得物を拾ってくれたらしい。
ナイフを左手で逆手に持ち、右手で得物を受け取る。
二刀流――と呼ぶには不格好だが、贅沢は言えまい。
ここでハンス・ウィリアムズを逃がすわけにはいかない以上、オレも全ての手札を明かす覚悟を決めるしかない。
「まぁ、私としても証紋のストックは戦力の要だ。その証紋も戴くとしようか」
ハンスの言葉に応えるように、室温が一気に上昇する。
おそらくは、魔法――紅い女の証紋によるものであり、神宮寺が傍にいるからまだしも、常人であれば息をするのもやっとだろう。
サウナ、という表現は生易しい。
このまま際限なく熱気が躍れば、やがてここはオーブンと化す。
「やってみなさいよ」
受けて立つ、と紅い魔法使いが挑発的に嗤う。
両者、考えることは同じだったのか。
ほぼ同時に動き出した二人の不死者は、牽制をし合いながらリビング唯一のガラス戸を突き破り、そのまま上――つまりは、屋上へと戦場を移す。
「オレはあの男を追う。ここで逃がせば、満が地獄を見ることになる」
久遠と神宮寺は――と聞くまでもなく、向き直ったオレへ返す視線は同じ覚悟を示していた。
満のことは心配だ。
どこへ行ったか、どういう状態かも分からない。
しかし、今やけたたましく響く警察のサイレンを信じ、彼が保護されていることに望みを懸けるしかないだろう。
オレはそのまま、神宮寺は久遠に抱えられ、オレ達もベランダから屋上へと向かう。
周囲はすっかり陽が落ち、街は夜の帳に包まれている。
綺麗な満月が、今日は最後まで晴天であったことを告げているようだった。
下界には、幾つもの警告灯が群れを成している。
この状況下でここまで大きく警察が動いているということは、御紋会主導だということは察しがつく。
他の応援も向かっているか、あるいはもうすぐ到着するかもしれない。
少しずつ、ハンス・ウィリアムズを取り巻く状況は傾いてきている。
――だと言うのに、未だ勝てる希望が沸かない。
その事実を力尽くで胸中に押し込み、屋上で再開されている不死者同士の戦いを睨み据える。
まだ、戦いは続いていた。




