Prologue
私は、物語が好きだった。
そこには、必ず主人公がいるから。
本を開いて、その世界に入っている間だけは、私もそんな「主人公」になれている気がするから。
ふと文字を追う視線を上げ、周囲を見渡す。
ぱっと目に入った勉強机の上の置き時計は、午後六時を過ぎたところだった。
そろそろ夕飯に呼ばれるな、と思い、数秒続きを読み進めるか考えて、すぐに本を閉じた。
折角なら、落ち着いて内容に浸りたい。
そんな気持ちが勝ったからだった。
「――――」
腰掛けていたベッドから立ち上がり、そう広くはない部屋に三つも並ぶ本棚の一つへと歩き出す。
その本を定位置に戻すと、私はふぅ、と短く息を吐いた。
……最近、私は浮き足立っている。
決して悪いことではないのだが、自室でさえ気を抜くとそうなってしまうのには、自分のことながら情けなく思う。
その原因は、部屋の隅に――けれども大切に保管してある一本の傘だった。
紺色の変哲もない傘。
ビニール傘ほど柔な造りではないものの、高級品ではない……と思う、たぶん。
それは、私がある男子生徒から手渡されたものだった。
「…………」
傘を手に取り、じっと見下ろす。
返さなければ、と思いながら結局、その勇気がなくてずっと手元にある彼の傘。
「久遠君、何してるんだろう」
ふと口を衝いて出た言葉に、自分でハッとする。
まるで、恋する少女そのものだ、と誰もいないのに赤面した。
熱い顔を軽く横に振り、冷静になるよう努める。
そもそも、借りたものなのだから、きちんと返さなければ……。
分かっている。それは、分かっているのだ。
けれど、私はこの僅かな繋がりを手放すことに、踏み切れないでいる。
「……はぁ、馬鹿みたい」
ごめんね、と謝るように傘を優しく撫でると、元に戻すように部屋の隅に立て掛ける。
姿見に映った自分を横目で見やり、やはり私は肩を落としながら首を振る。
ありえない。そんな期待は持つだけ無駄だ、と。
特筆するようなものを持たず、今までずっと地味に目立たず生きてきた私にとって、彼――久遠満という少年は、あまりに眩しい。
第一、彼の周囲には学校の有名人ばかりが肩を並べているではないか。
久遠麗華、神宮寺薫。
二人とも、中学の時からでさえ噂は耳にしていた人達だ。
凄まじい美少女であり、なんで芸能界にスカウトされないのか不思議なくらい……というそれは、私も実際に目にして思った。
あんなに完成された容姿の人間が、世の中に存在するんだ、と。
だからこそ、私は余計に私自身を卑下するしかなくなってしまう。
傍目から見ても、彼女らは久遠君に好意を持っていることは想像に難くない。
恋敵、なんて口が裂けても言えない。
あの二人に比べれば、私は所詮――そこらの石ころと変わらないだろうから。
「…………」
もう一度、今度は少し真剣に、姿見で自分自身を見つめてみる。
黒縁眼鏡にお下げ髪、自信のなさそうな顔つきに特徴のない平凡体型。
見れば見るほど、残酷なまでの格差に悲しくなる。
今風に言うならば――私はモブそのものだった。
「涼子ー! ご飯よー!」
「はーい」
一階から呼ばれ、私はひとまず返事を返す。
いつも通り、夕飯を食べて、お風呂に入ったら、宿題をして寝よう。
就寝前の僅かな読書で、きっと私はうまく現実から目を逸らせるはずだから。
落胆する頭でそう考えながら、緩慢な足取りで自室を後にする。
――私は、物語が好きだった。
けれども、私は知っている。
私が、主人公ではないことを。
だから――きっと、この恋は始まることさえ、ないことを。




