歯車
――それは、ちょうど学校生活が始まってから、七日目の出来事だった。
いつも通りの朝、リビングにやってくると、険しい表情の麗華さんがいた。
朝餉の薫りはするものの、通学鞄を手にしていることから、既に終えた様子だった。
「おはようございます」
「おはよう。悪いけど、私は先に出るわ。貴方はいつも通りに登校なさい」
急用だろうか、言葉の端々にも余裕がないのが、見て取れる。
僕の返答もそこそこに、「井村、車を出して」と麗華さんは屋敷を出て行った。
こういう日もある、と思いながら、僕は朝食を済ませ、少し時間が空いたので、テレビなんぞを嗜もうと思い立つ。
少しずつこの家の事が分かってきたが、娯楽が少ない。
というより、屋敷の主である彼女が忙しくしているからだろう。
このリビングにテレビがないのも、見る習慣がないからだった。
夜、気づくと麗華さんは姿を消していることがある。
つい昨日、井村さんに聞いてみたら、御紋会の仕事とやらで外出することがあるらしい。
「……ごもんかい、かぁ」
ぼんやりと呟きながら、僕はリビングを後にして、テレビの置いてある部屋へと移動する。
不死者と呼ばれる超能力者。
車の中での説明を思い出すが、やはりなんのことだかさっぱりである。
僕は生まれてこの方、スプーンやフォークを曲げたことはないし、透視や未来予知にも縁がない。
身に覚えのない話題はしかし、この屋敷に来た時からついて回る謎でもある。
果たして、その謎が解ける日は来るのだろうか。
などと自問しながら、僕は「談話室」と勝手に命名した一室に入り、テレビをつける。
朝のニュースはいつも明るいものが多いが、今日はどうやらついていないようだ。
「猟奇殺人事件? やだなぁ、朝から」
どうやら、都心近くの公園で女性の遺体が見つかったらしい。
身元は持ち物にあった運転免許証で分かったものの、科学的な検査が必要なほど、遺体の損壊が激しかったとのこと。
それこそ、大型の猛獣にでも襲われたような、凄惨な現場だったとニュースキャスターは沈痛な面持ちで報道していた。
「……」
都心近い公園で、そんなことがあるのだろうか。
大型、とわざわざつけていることからも、野犬の仕業ではないだろう。
そもそも、野犬そのものがいないだろうし。
「まぁ……人がやった、にしたって異常だよね」
普通、人は人を殺さない。
けど、もしその行為に及んだならば、命を奪うのが目的だ。
それ以上の暴力は、意味を生まない。
そして、人体の強度と規模は、大抵の場合に命を超える。
人命を奪うよりも、人体をバラバラにする方が遥に労力がいるのだ。
なんて……どうして、僕はそんなことを思うのだろう。
あれかな、最近気になってるアニメの影響かな。
首を振り、不吉な思想を脳内から追い払う。
「学校に行こう。ゆっくり歩けば、気分も変わるさ」
言い聞かせるように、誰もいない部屋で独り言ちる。
リモコンではなく主電源ボタンの方でテレビを切ると、僕は部屋を後にした。
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血生臭いニュースとは違い、外は今日も、見事な快晴。
吹き抜ける風も穏やかで、行き交う人の姿も活き活きとして見える。
そんな時、珍しい声が僕の足を止めた。
「お、今日はお嬢様と一緒じゃないんだな」
声は男。
あまり素行が良いとは言えない風貌が、前後合わせて四人。
いずれも僕と同じ高校の制服を着ており、少なくとも相手はこちらを一方的に見知っているのだと察する。
獲物を待ち構えていたのかどうかは分からないけど、今の僕が退路を失った囚われ人なことは、間違いない。
「な、なんですか」
「お前、一年だろ。あのさぁ、ちょっと久遠について話聞かせてくんねぇ?」
「は、話……?」
「そうそう。ここ毎日、あの高飛車女と仲良くしてんじゃん」
なるほど――と、僕は相手の目的を理解する。
何を、どこまで知りたいのかは出方次第だけど、予想通り穏便に事は進まなそうである。
「俺ら久遠の同級生なんだけどさぁ、あいつ、いつも偉そうなんだよね」
「だから弱みの一つでも握ってやりたいってのは、別に可笑しな事じゃないだろ?」
白昼堂々と、彼らは僕へ圧を掛ける。
数名の人影が見えるものの、積極的に関与する素振りはない。
「でも、顔と体は学園最上位だよなぁ」
「お前のこと餌にしたら、一発くらいヤらせてくれねぇかな」
「そこんとこ、どうよ一年」
ごくり、と緊張が喉を鳴らす。
……十中八九、口にした下卑た願いが叶うとは、この人達も思ってはいないだろう。
要は、様々な因縁をつけて、僕をいたぶってスッキリしようということ。
ほんの僅かでも、久遠先輩の不幸に指を掛けたいと、彼らは言っているのだ。
精一杯の冷静さを寄せ集め、この状況の打開を試みる。
とはいえ、とれる手段は最初からあまりない。
多少の希望が持てるのは、一点突破、走って逃げることくらい。
それさえ、果たして自分に出来るのか自信はない。
じりじりと包囲網は狭まっていく。
今後の展開を予想し、足が竦みそうになった時――。
「先輩方、朝から暇なんですねー」
――どこかで聞いた覚えのある声が割って入った。
当然、僕を含めた全員の視線が声の主へ集まる。
「下級生いじめて、楽しいですか? 精が出ますね?」
にこにこと笑顔を浮かべるその人は、尾の長いポニーテールを揺らしながら、歩いて距離を詰めてくる。
こ、こわい。
明らかな侮蔑を含むそれは、件のお嬢様も嫌いとする例のアレである。
ある程度の距離が埋まると、彼女は立ち止まる。
それだけで、四人が怯むのが分かった。
「どうせなら、私もいじめてくれませんか?」
字面だけ見れば、それは破滅的な一言。
しかし、実際は「やれるものならやってみろ」という意味合いを多分に含んでいる。
言わずもがな、突如として現れたポニーテールガール神宮寺さんは、明確な臨戦態勢だった。
「おい、行こうぜ」
内の一人が言うと、彼らはそそくさとその場から離れていく。
た、助かった……。
こうなると、逆に彼女の何が恐れられているのかが気になるが、今は我が身の幸運を噛み締めるとしよう。
「おはよう、クドウくん。刺激的な朝ね」
「お、おはようございます、神宮寺さん。あと、ありがとうございましたっ」
何度もその場で頭を下げる。
「お、名前覚えていてくれたんだ。いいのいいの、あーいうのは久遠先輩と付き合う時のコストみたいなものだから。むしろ、問題にすべきは先輩とさっきのお馬鹿さん達だけ」
君に落ち度はないよ、と。
隙間ない笑みが僕にそう告げた。
「ま、これも何かの縁。せっかくだし、今日は私と一緒に登校してもらうってのはどう?」
「は、はい」
お互い向かう先は一緒となれば、その提案は自然なものだった。
アクシデントこそあったものの、思わぬ同行者を得る。
歩き出してからしばらくして、ちらりと隣に目をやると、軽やかな足取りの神宮寺さんと目が合った。
「クドウくん、C組でしょ。私、A組。改めてよろしくね」
「あ、そうなんですね。こちらこそ、よろしくお願いします」
そっか、久遠先輩を「先輩呼び」しているのだから、同級生ということだ。
だからだろう。
「ふふ、敬語じゃなくていいよ。あと、さん付けもいらない」
「うっ……そ、そう、なの?」
「うん、そう。私、あまり堅苦しいの得意じゃなくてさ」
「……そっか、うん、分かった」
本人たっての頼みとあっては、無碍には出来ない。
僕は言われた通りにする、と頷く。
「でも、やっぱり『さん』はつけていい? なんだか、呼び捨ては慣れてなくて……」
「えー、そうなの? 皆と違って、ぐっと距離感が近くなりそうで、面白そうなのに」
「――――」
おわかり、いただけただろうか。
明らかに残念そうな表情を浮かべる神宮寺さんは、一転して救世主から策士へと姿を変えていたのである!
皆と違うって――でも、考えてみればそうだ――もし、この奸計に嵌り、僕だけが彼女を「神宮寺」などと呼んでいた日には……。
「特に、先輩の前では何かしらの効果がありそうなのになぁ」
「……神宮寺さん、遊んでる?」
「まさか。これはちょっとしたスキンシップです。まだ出会って日が浅い男女が、その仲を深める青い春という名の過程だよ?」
だよ?――ではない。
断言するが、彼女は完全に僕で遊んでいる。
こっちが女子に対して免疫も経験も乏しいことを良いことに、高みの見物にしゃれ込もうとしているのだ……!
「も、もう少し平和的な方法を所望します」
「んー……そっかぁ。なら、仕方ない。今回の『案』は、一旦保留ということで」
お願いだから、そのままシュレッダーにでもかけて、破棄して欲しい。
「そういえば」
他の学生の姿も増えてきた頃、思い出したように神宮寺さんは切り出した。
「今朝のニュース、見た?」
「あぁ……公園で女性の遺体が見つかったやつかな?」
「そうそう。物騒だよねぇ。朝から流す情報にしては、重たすぎなくらい」
「はは、それは確かに。……僕はまだ街をよく知らないけど、あの辺りは危ないの?」
「ううん、別に。夜だと人通りは少なくなるだろうけど、一切なくなるわけじゃないし。近隣に交番もあったはず。……相手も、結構思い切ったことするよね」
――最後の一言だけ、ふと鋭さを覚える声音だった。
「クドウくんも、夜はふらふらしてちゃダメだよ?」
「うん、出歩かないようにする。……あ、でも」
「久遠先輩?」
「う、うん……その、ごもんかい?の仕事で、夜に出掛けることがあるから、心配だな」
そもそも、女の子が夜遅くに一人で出歩くこと自体が危ない。
いくら日本でも、悪人は万国共通の存在だ。
まして、容姿端麗であれば尚のこと。
しかし、そんな僕の心配とは裏腹に、神宮寺さんは「大丈夫、大丈夫」とおかしく笑う。
「久遠先輩は、強いから。そう簡単には、やられないよ」
賑やかな登校時間。
周囲の雑踏に紛れたその言葉は、すぐ隣の僕にだけ届いた。
返す言葉も忘れ、ただ――「殺られないよ」と聞こえたことを、必死に気のせいだと蓋をする。
いくら物騒だとしても、それではもう、日常的に命の取り合いをしている風に聞こえてしまうから。
下駄箱のところまで来ると、僕は神宮寺さんと別れ、それぞれのクラスへと向かう。
一週間も経てば、少しずつ習慣化していく動きに実感がある。
まだ友達という友達は出来てないけれど、学校生活自体は平穏と呼ぶに不足はなかった。
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放課後、僕は一人で帰路につく。
一日を通して、今日は久遠先輩が学校に来ていないことが判明していた。
制服姿に学生鞄まで用意があれば、てっきり学校には来ているものと思っていた僕は、純粋に何かあったのかと聞きたい欲求を抱えている。
何事もなく校外の屋敷まで辿り着き、中へ入る。
そこで。
「あら、おかえりなさい、満君」
「久遠先輩!」
彼女も丁度帰ってきたところなのか、学生鞄を片手にリビングへ移動する背中が、踵を返して振り向いた。
早々、その人には不満げな色が浮かんでいる。
僕はハッとして、すぐに言い直した。
「た、ただいま、麗華さん。あと、おかえりなさい」
お互いにそう大差がないと見て、「ただいま」と「おかえりなさい」を伝えておく。
すると、麗華さんは満足したように頷き、「えぇ、ただいま」といつもの調子で返してくれた。
呼び方を決めた日から、この辺りの線引きが厳しいのが僕の中での、久遠麗華という少女の特徴になっている。
特に元々先輩呼びが嫌なせいか、お屋敷でさっきのようにうっかり先輩と呼ぶと、目に見えて不機嫌になるのだった。
それはそうと、僕にはいち早く聞きたい内容があり、その背をすぐ追いかける。
「麗華さん、今日学校お休みしたんですか?」
「残念ながらね。休むつもりはなかったのだけど、思ったより余裕がなかったのよ。……悪かったわ、朝もバタバタしてしまったし」
ごめんなさい、と。
彼女は申し訳ない、というよりも、自らの落ち度を認めるような潔さを含んだ謝罪を口にする。
「御紋会のお仕事、ですか?」
口を衝いて出た質問は、唯一の接点だからこそだった。
僕と彼女の中で、普段の生活以外での疑問点を洗い出せば、行き着く先は「不死者」というワードだ。
少し驚いたような表情で見返す麗華さんに、踏み込み過ぎたかな、と不安になりかけるが、それを掻き消したのは彼女のため息だった。
「はぁ……井村ね。いずれは話すことになるし、丁度いいか」
麗華さんは壁に掛けられた時計で時刻を確認すると、「少し長くなるから、座っていなさい」と僕に言う。
言われるがまま座っていると、目の前で手際よく紅茶を淹れる麗華さんの姿が。
……ふと、僕って何もしていないな、と思ってしまった。
何度かお互いにティーカップを傾け、一息つくと、麗華さんが話し始める。
「御紋会というのが、不死者の管理や統括を行っている団体、というのは話したでしょう?」
「はい。車の中で、聞いた覚えがあります」
「よろしい。御紋会は、主な役割として街の治安を維持している。警察機関と協同し、御紋会は『不死者絡みの事件』を処理するのが仕事。私は大家という立場上、どうしても今日はこちらを優先せざるをえなくてね」
「……そうなんですね。不死者って、その、超能力者なんですか?」
確か、麗華さんはそう言っていた。
「語弊を恐れずに言えばね。正確には、不死者というのは臨死を経て異能に目覚めた人間のことよ。あるいは、生きる為に退化した存在、とも言えるかしら」
後半の難しい表現に、僕は首を傾げる。
けど――臨死を経て、という点だけは、僕にも思い当たる節はあった。
ほんの一瞬、記憶の奥に仕舞い込んだ白く冷たい光景が胸を擦る。
「元々、人間には現代で言うところの『特別な力』があった。けど、それは自然社会で生き抜く為のものであり、人間用に整備された人工社会では、次第にその必要性を大きく欠いていく。今を生きる人間というのはね、『人間社会に特化したカタチ』なのよ。二千年以上もの年月をかけて、人類は自分達が生物的に最も弱い形でも生きていけるよう、独自の世界を創り上げた」
――それが、現代社会である、と。
久遠麗華という不死者は、まるで他の世界の事を話すように語る。
「それでも、完全な世界を創るまでには至らない。必ず零れ落ちる者は生まれてしまう。それが、不死者。様々な理由から社会に適合出来ず、かといって人生に終止符が打てる強さすら、叶わなかった者」
――今の時代において、最も旧く、弱い人間が「不死者」なのだと、彼女は言う。
「でも、それだと、特別な力はあるんですよね。それなら――」
「万能ではないわ。生きる為だけに、社会生活では不必要な機能を取り戻したに過ぎないのだから」
ぴしゃり、と僕の考えを抑え込む。
「満君、忘れないで頂戴。異能や超能力なんてものは、時代遅れなのよ。そもそも、能力の方向性が違い過ぎる。社会を廻す歯車ではなく、生命体としてだけ特化した能力は、決して現代に馴染まない」
そういう時代は、もう随分と昔に終わってしまったの、と。
まるで遠い故郷を想うように、彼女は一つの時代の終わりを明確にする。
そこで一度、会話が途切れた。
お互いに区切りをつけるように紅茶を飲むと、再び麗華さんが口を開く。
「話を戻します。今言った通り、不死者は各々が特殊な力を持っている。だから、通常の警察力では対応が難しい場合が少なくないの。一応は専門の部署もあるけど、あまり公には出来ない。その存在自体が社会には大きな波紋を起こしてしまうから、極力秘密裏に終わらせたい。そうした社会構造があって、御紋会は専属的に不死者が引き起こした事件の捜査をしているというわけ」
「それに、麗華さんも?」
「えぇ。久遠の家は今、私しか直接動ける人間がいないから。大家の立場もある以上、今回の騒動は無視出来ない。満君も、もしかしたら知っているんじゃないかしら……今朝の報道」
やっぱり。
まぁ、あれだけ異常性のある事件であれば、今の話を聞く限り悠長にしている暇はないと思う。
被害者が更に増えれば、それだけ世間に与える影響も広がっていくわけだし。
「今、御紋会は犯人の目的と動向に神経を尖らせているわ。なんせ、あんな分かりやすく異常な殺しをするくらいだもの。必ず二度目もある。そして、その可能性は全ての不死者が持っている」
「……?」
全ての、とはどういう意味だろう。
僕が言葉を探していると。
「御紋会という団体はね、相互監視を最大の存在理由としているの。裏では、誰もが誰もを疑っている。あれは仲好しこよしの集まりではなく、『迅速に問題を解決する』ことだけを効率化した、誇張のない実力組織よ」
「――――」
それを、なんの臆面もなく話すことに、僕の脳が停止する。
じゃあ、あの顔出しとは、何だったのか。
何の為に、僕はあの場所に連れて行かれたのか。
それが伝わったのか、麗華さんは「安心なさい」と肩を落とす。
「あくまで、実害を被るのは世の中を乱そうとする場合に限ります。あの顔出しは、自分の身分証明をしに行ったようなものよ。別に、それで貴方がどうこうされるわけじゃないわ」
「そ、そうです……けど」
そう簡単に、「そうですか。ならよかった」とはならない。
聞く限り、麗華さんが語る世界はあまりにも殺伐としていて、実感よりも不安が大きい。
「無理に順応する必要はないわ。恐ろしいなら、それでいい」
「……え」
「夜は大人しく、この屋敷にいなさい。それが、今の貴方に出来ることでしょう」
そこで彼女は紅茶を飲み終えたのか、固まる僕を前に一人立ち上がり。
「冷める前に飲みなさい」
そう、僕を置いて片付けに向かった。
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その日の夕飯は、どこか味がしなかった。
朝は麗華さんが日課として作っているが、昼と夜は井村さんが用意してくれている。
その為、朝も含めて、この家で出てくる食事の質はすこぶる良い。
おかげで、それを楽しむという唯一の役割をこなせなかった自分に、僕は酷く落ち込んでいた。
理由は明白。
「……はぁ、とんでもない世界だぞ、こりゃ」
その日の営みを全て終え、僕は自室のベッドに転がりながら、天井へ向けて独り言ちる。
当然、返ってくる言葉はないが、少しでも吐き出さなければ破裂しそうだった。
不死者なんていう、まるで創作物そのままの存在。
それこそ本当に、この世界の裏側に広がる死者の世界みたいだ。
「これが、ドッキリだったりしないかなぁ」
別にドッキリでなくてもいい。
嘘の話であって欲しいと、僕は内心で考えていた。
実感はないのに、不安だけは僕を掴んで離さない。
いや、逆だ。
不安を、どういうわけだか僕自身が離すことを拒否している。
まるで、それがお前の命綱だぞ、とでも言うように。
ぼんやりと終わりの見えない考えを反芻していると、時刻は日付を変えたあたりにまでなっていた。
寝過ごした、というよりも、寝付けない。
これではいけない、と僕は部屋を後にする。
こういう時は、水の一杯でも飲んで、ぼんやりとくだらないテレビ番組で、一度心を漂白するべきだ。
真っ白になってしまえば、自然と眠気が勝ってくる。
広い建物だからか、屋敷はほんの小さくだが、所々に明りがある。
薄暗い廊下を進み、台所で常備されているミネラルウォーターをグラスへ移し、喉を潤した。
水と使ったグラスも洗ってから片付けた後、今朝のようにテレビのある部屋で赴く。
眠くなる為だからということで、部屋の明りは小さめに。
緩慢な動作でテレビの主電源を点けた。
「――たった今、事件が起こった現場に来ています。昨日に続き、今日も――」
不吉な映像が、飛び込んで来た。
場所は閑静な住宅街。
被害者はまたもや女性。
今回に限っては身元を証明するものが見つからず。
ただ、現場から制服と思しき。
学生である可能性が。
――脳が、断片的にしか、情報を処理出来ない――
加速する想像の中で、見たくもない誰かの遺体が、バラバラのカラダが、砂嵐じみた映像で映し出される。
急いで寝間着のポケットに手を突っ込み、携帯を取り出す。
「――っ! くそ、連絡先も知らないとか、馬鹿か僕!」
一緒の家に住んでいながら、僕はまだ、連絡先すら聞けないでいた。
そんな事実が、今となっては腹立たしい。
確証はない。ただ、胸騒ぎだけが吐き気を催すほど色濃くこみ上げてくる。
これは不安じゃない。
不穏だ。
部屋を飛び出し、自室へ戻ると手早く私服に着替えて、屋敷を飛び出した。
慌ただしかったにも関わらず、呼び止める声は一つもない。
きっと、屋敷には僕しかいなかったのだろう。