幕間 追憶
血の匂いがする。
臓物の熱がする。
骨の砕けた音が耳にこびりつき、肉の裂ける感触が脳を冒す。
部屋は密室で、モノというモノのないだだっ広い空間だった。
そこに、命の凄惨な姿がある。
たったさっきまで生きていた誰かは、途方もない暴力に晒されて、熟れた果実のように外も中身も真っ赤に染まっている。
見下ろせば、そこには同じ朱を湛えた掌が二つ。
呼吸が乱れる。
視界が震える。
自分のしたことは理解しているのに、自分の「行動原理」が分からず、ただただ混乱と恐怖に息が詰る。
「――ハッ――――ッ」
首元を抑え、その場で膝を折った。
息が出来ない。
動悸が治まらない。
僕は、なんで、■■■■■をしたのだろう。
僕は、どうして、■■■■■ができたのだろう。
意識が混濁する中、知らない大人達が僕を介抱していることに気がついた。
「素晴らしい。これが『勇者』の証紋か」
「紛い物でコレとは、末恐ろしいな」
「院長はこの力で、三法を牛耳ると言うが。本当に、大丈夫なのか」
「元より『勇者』の証紋は、人類の生み出したもの。今更、何が正義、何が悪など、我々に分かるものか」
大人達の会話は、僕の知り得る範疇を超えている。
覚束ない意識の中でさえ、それだけはハッキリとしていた。
故に――。
自分がもう、取り返しのつかない場所にいることも、なんとなく分かったのだ。
その後、再びしっかりと意識を取り戻した頃には、僕はその前に数日を過ごした、やけに消毒の匂いが強い真っ白な部屋にいた。
まるで、記憶までもが消されていくような、脳がじんじんする匂い。
いつまでそうしていただろうか。
ぼんやりと横たえられていたベッドで意識を漂白されていると、ふいに誰かが部屋に入ってくる気配がした。
満足に反応する気力さえ残っていない僕は、ただ瞼を開いているだけで精一杯だ。
「……だいじょうぶ?」
気配は、ベッドの傍で止まると、人間の輪郭と共にそう言葉を発した。
言葉を返すことは出来ず、その人が誰なのかを揺れる視界で捉えることに全力を尽くす。
「かわいそうに。あの院長に気に入られちゃったんだね」
そこには、雪のように真っ白な髪の中性的な幼顔があった。
僕と同じか――いや、雰囲気的には少し上くらいだろうか。
落ち着いた様子に、哀しげな表情を浮かべながら、その白い人は僕の額に掌を重ねる。
「ごめんね。少しだけしか楽にしてあげられない」
僕に、その言葉の直接的な意味は分からなかった。
けれど、不思議なことに、触れられている額からじんわりと熱が伝わると、徐々に意識がハッキリとしていくのが分かる。
「……ありがとう」
気づけば、僕はそう零していた。
僕がお礼を言ったことも、口を開いたことも意外だったのか、その白い人は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたあと。
「どういたしまして」
にこり、と柔らかな笑みを返してくれた。
「そろそろ戻らないと。病院の人には内緒ね」
「……うん」
そう言い、肩に触れるか触れないかほどの白髪を揺らしながら、その人は踵を返して部屋を出て行った。
その後ろ姿――簡素な緑色の患者衣を見て、その人も僕と「同じような人」なのかな、と想像する。
真っ白な病室には、モノらしいモノがない。
窓もなければ、あるのは最低限の机と椅子くらいなものだった。
壁に掛けられた丸時計だけが、外界との繋がりを微かに思わせる唯一の品だ。
ふと、ここに来た経緯を思い出す。
身も蓋もない言い方をすれば、僕は大きな不幸に見舞われて、一命を取り留めながらも、こうして別の地獄に落ちてしまった。
運がないのか、あるいは運命の悪戯なのか。
いずれにしたって、一人の子供にとっては起こった事、起きている今だけが全てだった。
大好きだった父と母がいなくなって。
ひとりぼっちの僕を引き取ってくれる人達がいる――そんな話だけを頭に入れて、大人達についてきた。
遠い親戚の人だと聞いていたけど、結局、僕が辿り着いたのはこの得体の知れない建物の何処かだった。
継ぎ接ぎの記憶に残るのは、身の回りの世話をしてくれるのは看護婦さんで、男のお医者さんが来ると、大体……嫌な気分になる。
病院で、親戚の人のお家に行く前に検査が必要だと聞かされたけど、すぐに子供だましの嘘だと分かった。
きっと、僕は捨てられたんだと思う。
身寄りもなく、両親という唯一の味方を失えば、子供なんてものは丸裸も同然だ。
だから……どんなに嫌でも、どこかで死にたくない、生きたいと思って、大人達の言う通りにしてしまう。
……例え、それが自身を追い詰める破滅の一歩だとしても。
遠い、複数の足音が聞こえて、条件反射的に身体が跳ねた。
無意識に呼吸が浅くなり、動悸が速まり、冷たい汗が肌に浮き出る。
その足音達は僕の部屋の傍で立ち止まると、次の瞬間には、スライドドアがゆっくりと開くのが見えた。
「あぁ、目を覚ましたのかい」
何人かの大人達の中で、どういうわけか、僕はたった一人にだけ視線を釘付けにされていた。
その眼に、幾重にも皺を刻んだ老人の顔に、僕はひどく怯えている。
「おはよう、久遠満くん。気分はどうかな?」
にちゃり、と悪意が嗤いながら口を開く。
その眼は、僕を見ているわけではないことを、子供ながらに理解していた。
「なんでも言いたまえ。我々大人は、君の痛みを和らげるためにいるんだよ」
痛み。
傷だらけの自分を見下ろしながら、僕は再びその老人を見返した。
その視線が。
その嗤いが。
「さぁ、見せてご覧。大切な大切な――私の証紋を」
僕の知らない、僕の価値を視ている。
僕は、ただただ、それが恐ろしくて仕方がなかったのだ。




