幕間 クドウミツル
久遠満――という人物について、思案をしよう。
まずは初歩的に、表面上のことから。
彼は、目立った特徴がなかった。
強いて言うならば、男としてみれば、小柄であることだろうか。
おそらく、身長は百五十もない。
うん、特徴として捉えようと思えば、十分にそれは特徴だった。
だが、それは今の話題に沿う内容ではないので、無視をする。
身も蓋もないが、彼は一般的男子高校生像の地味めモデルをそのまんま投影したかのような、特筆し難い「普通性」を持っている。
おそらくではあるが、飾る、という概念が相当に欠如しているのだろう。
それこそ、そこら辺から雛形を拾ってきてあてがったと言われても、何ら違和感がない。
それはつまり――人間として、自身という存在の弱さを示す。
ただの性格的なものであれば、それ以上でもそれ以下でもないが。
問題として提起する場合として、その弱さ、存在の希薄さに「意味」があること。
そうすべき理屈が彼にそうさせているならば、それは彼が「不死者」である理由付けに、一歩近づくことになる。
――不死者。
それは、旧い人間の呼び名だ。
現代の社会に適応出来なくなった人間が、その幕引きに踏み切れなかった時、生きる手段として「失われた機能」を取り戻すことがある。
早い話が、臨死を経て異能に目覚めた者。それが不死者である。
なんとも縁起の悪い名前であるが、見方を変えれば突飛な名付けでもない。
「死ぬ力」にさえ恵まれなかった弱者が、他ならぬ私達だ。
さて、話が逸れたが、次は内面といこう。
がしかし、これに関しては更に情報が少なかった。
私は同級生として遠巻きに彼を観察してみたが、どうにも掴めない。
というより、あの二十四時間稼働している小心者スタイルは、どういうメカニズムなのだろう。
まるで、野性を生きる小動物のようだ。
常に危険に晒されている。
常に命が暴かれている。
社会という整備された環境で生きる姿として、その有り様は異常と判断するに容易い。
怯えている、という表現は不適切だ。
そうではない。
まるで――いつ、刃物を突きつけられても逃げ出せるような、そんな生き方だ。
少し表現を変えれば、彼はいつも、スタートラインに一人だけ立ち、一人だけ走り出す姿勢を保ち続けている感じ。
競う相手も、観る観客も、取り仕切る運営も、何一つないまっさらな場所で、だ。
それに何の意味があるかは分からないが、それこそ狂気の沙汰であろう。
ここで一度、仮初めの結論を出す。
彼が不死者である可能性は、五分といったところ。
半々となると数字上のインパクトは微妙だろうが、確率としては高い部類だ。
何より、あの久遠家の屋敷に住んでいる時点で、「私達と同じ」である可能性の方に軍配が上がる。
あの家には、長らく久遠麗華しか住んでいなかった。
使用人の出入りはあるようだが、大家や御紋会の人間で、あの要塞じみた屋敷に足を踏み入れた人物はいない。
以前、本気になって調べたことがあるが、それでもあの「久遠家」について得られた情報は、その信憑性において担保のない使い物にならないものばかりだった。
神宮寺の情報網を以てしてもその体たらくとあれば、逆にあの血筋がいかに特殊であるかが窺える。
加えて、父は久遠家について、何かを隠している節がある。
そんな曰く付きの一族の屋敷に迎え入れられたとあっては、クドウミツルという人物にも同様の疑惑は持たざるを得ないだろう。
でなければ、わざわざ御紋会最高責任者に面通しなど、するはずがない。
彼には、何か秘密がある。
ともすれば、彼自身もそれを知らないのではないか。
隠し事は不死者の特権だが、ここ最近の治安の乱れを考慮すると、何かの前触れである気がしてならない。
規模、数は不明。詳細は一切掴み切れていない。
なのに、この美小野坂に「集結しつつある」という結果だけが、足りないピースからでも推測出来た。
ここ数日、私――神宮寺薫を突き動かす原動力は、ひとえに姿形のない驚異への警戒だった。
残念ながらその経過は芳しくないが、やめるわけにもいかない。
神宮寺家の当主として、この街の行く末が脅かされるならば、それを阻止する使命がある。
不死者の不始末は、不死者でやるのが鉄則。
須く、同族殺しに勤しむのが、我々の歴史だ。
皮肉ではあるが。
――その一点だけで見れば、不死者は何ら一般とは変わらない。
時刻は深夜一時半を過ぎた頃。
慌ただしく人の足音が行き交う気配から、事件の発生を感知する。
それさえ、嵐の前の静けさかもしれない、と。
不吉な予感が胸をざわつかせる。
夜は更け、まだ続く。
おそらくだが――地獄は、始まったばかりだろう。