Prologue
世の中には、天才と呼ばれる者がいる。
中学三年の冬まで、俺は自身がそうであることを疑っていなかった。
独自の理論構築。流用の利かない動作構造。他の到達を許さない、精神武装。
幼少期から積み上げてきた剣道の経験値は、その証明でもあった。
……まぁ想像がつくだろうが、これはただの思い上がりだ。
井の中の蛙と言い換えてもいい。
結論から言おう。
天才とは、人間という種族における別の生き物の名である。
比類ない才能を、天才とは呼ばない。
それは、秀才と呼ばれるべきだろう。
人間の多くは、実の所、生まれ持ったもので勝負をかけているのではない。
才能はあくまで切欠であり、指標であり、導き手である。
早い話が、才能は看板だ。
お前はあっちに進むべきだ、と己自身が訴える、人生の道しるべである。
真っ当な人間であれば、大抵はそれを無碍にもしないし、無視もしない。
故に、人は往々にして才能を生まれ持ったものと勘違いをする。
それに対し、天才とは才能として見ればどうか。
あれは、理由や理屈に因らない、生物としての欠陥に他ならない。
人間は長い年月と世代を積み重ね、効率的な成長方法を確立してきた。
自分が得意とするところ、自分が好むところ。
それらを判断し、自らが輝ける場所で生きるよう、土台として完成されている。
無論、それが意思の力を超えることは難しい。
様々な理由から不得手な環境で生きることを強いられる場合もあるだろうが、それはまぁ……正直、環境や運命の話であり、天才とは別の議題だ。
続けよう。
欠陥とはどういう事か。
文字通り、人間という生き物として、致命的に欠けているものを指す。
天才を語る上で、そう呼ばれる彼らは根底が違い過ぎるのだ。
剣道であれば、それは剣の道を通じて人格形成を行う、ある種の修行である。
礼に始まり、礼に終わる。
人として成すべき姿勢。
剣を携える者として、律するべき道義がある。
それが、天才にはない。
――身体の先が疼くような、海底じみた冬の道場。
――剣士は、砂のような勝利を握りしめていた。
あの、呼吸さえ忘れた冬を思い出す。
あの日、俺は天才を知った。
結果は俺の勝利。
相手は竹刀の先一つ動かすことの出来ない、完璧な勝利だ。
周囲もそれを当然として認知している。
あぁ――あれほど、背筋に悪寒が奔ったことはない。
微動だにしない竹刀。
瞬き一つなかった眼光。
俺の顛末を見届け、それに納得するかのような息吹。
その全てが、俺の勝利を意味していた。
あの日から、牛島剛という人間における、剣の道は閉ざされた。
もう一度繰り返そう。
天才は、その根底が違う。
剣の道を以て、人格を形成するのではない。
礼に始まり、礼に終わるのではない。
やつらは既に、人格も礼儀も済ませている。
生まれ持った「完成」がそこにあり、ただそれを行使するだけの存在。
それが、あの時、俺が見た天才という生き物だった。
「先生」
白い部屋。
呆然と人生を漂いながら、流れ着いたそこで、俺はうなされるように口を開く。
「努力って、なんでしょう」
積み上げ、磨き上げることに全てを傾けた。
しかし、それでも尚、届くことはない先が自らの目指す地点だと気づいた時、人は絶望する。
まるであべこべだ。
俺は生きて、死ぬまでにどこまで剣道を極められるかに目を輝かせた。
けれども、俺が目指した先にいる人間は。
死んだ目で、どこまで先天的な才能から逃げられるかに、命を懸けていた。
あの冬の道場で、俺はその片鱗に触れてしまったのだ。
どうかしている。
あんな生き方、人間は出来ない。
「……難しい質問だね、牛島剛くん」
白衣を着た、金髪の男性は沈痛な面持ちで口を開いた。
「君は、努力に裏切られたのかな」
いや、努力は裏切らない。
その結果に満足するかどうかは、人間側の――人格の領分だ。
努力自体は不変であり、自ずから変化することはない。
だから、俺は首を横に振る。
「そうか。でも、それは幸福だよ。努力に裏切られる人間もいるからね」
「……」
まぁ、そういう不幸も、あるだろう。
「切り口を変えようか」
――君は、何に失望したんだい?
その質問は、乾いた心に一滴の雫のような痕を残す。
「・・・・・・え?」
俺は、失望をしているのだろうか。
前後不覚な自分では分からず、聞き返しながら、次の返答を待つしか出来ない。
「人はね、生きる力を失う理由として、よく絶望をあげる」
それは間違ってはいない、と先生は語った。
確かに望みを絶たれた人間は、その先行きの見えない暗闇に竦んでしまうだろう、と。
「けどね、それはあくまで『絶たれた側』の話。君は、もしかしたら望みを『失った側』なんじゃないかい」
……答えられない。
望みを失う、とはどういうことか。
そも、断たれることと、失うことに、そう大きな違いなどあるのだろうか。
俺はただ、今までの自分の価値を信用できなくなっただけのように思う。
「望みとは、人々の目指す理想さ。その理想がハリボテだったことに気づき、時にそれを自らの手で破くことがある。それを、私は『失望』と呼んでいる。理想の価値が保たれたまま、それを奪われる『絶望』とは、明確に違う――ある種の裏切りだよ」
失望。
伸ばした手の先にある光を奪われるのではなく。
伸ばした手の先にあるものは、光などではなかったことに気づくこと。
望みという輝きに、裏切られた者の末路だ。
「……俺は、剣道に裏切られたんですか」
「敷かれた道、築かれた信条そのものに罪を問うのは難しい。もし、君が明確に『裏切られた』と感じるなら、それは――」
――それは、「人」に対してではないのかな。
と、その人は俺の罪を暴くように、優しく告げた。
言葉が止まる。
幼い頃から、僅かに感じてきた違和感。
それは毛先ほどもない、気を抜けば違和感にすら至らない、牛島剛という人間のズレ。
剣道は、俺の全てだった。
幼い頃、引きずるようにして竹刀を握ったその時、運命をすら感じた。
胸が高鳴り、気分が緊張と高揚を繰り返し、握ったその柄を離したくない、とこみ上げる熱に頭を振った。
そう、同時に。
そんな自分が普通ではないことを、隠すようにして。
「……あぁ、そうか」
虚しく、ひとつの答えに辿り着く。
剣道が俺を裏切ったのではない。
初めから、俺が剣を裏切っていたのだ。
無理もない。
剣に想いを募らせる人間など、子供の時分でさえ、公言することはおろか秘めることすら許されないと察するに難くはなかった。
「俺はずっと、自分を偽って生きてきたんだ」
己で己を裏切った。
懸命に人が説いた「当然の在り方」をなぞった結果、俺はその生き方を選ばなかった天才という生き物に、自分の罪を突きつけられたのだ。
なんという恥だ。
剣士としてだけではなく、人間としてさえ敗れていたなんて。
「仕方がない。人間として生きるということは、時に個人へ残酷な決断を迫るものだ。君自身がその偽りに罪を感じているなら、私にそれを消す術はない。罰は罪と向き合う機会であって、罪そのものを消し去る赦しではないからね」
その通りだ。
この人の言う通り、俺の過ちは消えない。
今に至るまで少しずつ積み重なったズレ。
牛島剛という個人の歪みを正す機会は、永遠に失われている。
それを。
「――故に、君は本当の自分を知った。新たな人生は、これからではないかな」
悪魔の言葉が、違うぞ、と遮った。
先生はにこり、と肩が軽くなるような笑みを向ける。
あぁ、きっと、俺は救って貰えるかもしれない、とそんな想像が鎌首をもたげた。
死んだ心は枯れ果てている。
そこに水を注ぐような言葉は、落ち葉のような俺では抗えない。
「人はね、時に死んでいながら動き出すことがある。肉体の終わりではなく、心の終わり。人格の間際に立った時、それでも諦めきれない気持ちが、人を不死者へと変えるんだ」
「……ふし、しゃ?」
「そう。不死者というのはね、社会不適合者のことさ。けど、それは見方を変えれば、ただ単に社会という枠から外れたカタチを持って生まれた個人に過ぎない」
先生は語る。
それは、社会で生きる事に不器用なだけで。
決して、人間という生き物の範疇を超えているワケではないと。
「牛島剛君。おそらく、君もその一人だった。それだけのことだよ」
「……けど、それなら俺はもう、生きてはいけません。もう俺には、何も残っていないから」
剣道も辞め、ありのままの自分だけが遺ったところで、この社会のどこに、自分の居場所があるというのだろう。
「それは間違いだ、牛島剛。まだ自分を偽るつもりかい」
「――――え」
「初めからあるじゃないか。君の居場所。君の才能が指し示したモノが」
そう言い、先生は立ち上がると、少しの間、その場を離れた。
俺の前に戻ってきた時には、その手に見慣れない剣が握られていた。
「彼女は君よりも早く、私の元に来た患者なのだがね。いやはや、運命とは面白いものだよ。……世界の滅びさえ乗り越えて、実るものもあるとはね」
肩を竦めながら、先生は祝福するようにその剣を、差し出してくる。
「さぁ、受け取りなさい。ようやく、牛島剛として生きる時が来た」
ごくり、と喉が鳴る。
手にすれば戻れないと本能が囁き、手にしなければ今度こそ、本当に死んでしまうぞ、と本能が欲情する。
無骨な片手剣。
飾らないその姿に、俺は目を奪われていた。
「おめでとう、二人とも」
気づけば、俺は剣を手にしていた。
鞘をなぞる指先に、恥じらうような感情を錯覚する。
「さて、私は少し席を外すよ」
弁えているとばかりに、その人は俺と剣を残し、部屋を去る。
その最後。
「ごゆっくり。なにせ、世界さえ超えた逢瀬なのだから」
――先生は、優しく、嗤っていた。




