ディートハルトの追憶(9)
流血、暴力等の描写などあります。苦手な方はご注意ください。
――結論から言えば、ディートハルトは間に合わなかった。
交渉の後、ダグラス旗下三十余名と共に駆け付けたグラーツ渓谷で。
雨で煙る視界が捉えた光景を、ディートハルトは生涯忘れることはないだろう。
血と泥に塗れながらも美しい人が、無数の矢傷を受けて地に臥していた。
脇目も振らず敵陣を突っ切り、転がるように馬から降りたディートハルトは、自分でもよく分からない呻きのような奇声を上げながら、本能のままに彼女へと触れる。雨に濡れた彼女の身体は冷えていたが、それでも柔らかく、まだ生温かった。
同時にほとんど消えかけながらも零れた呼吸音が、彼女の生存をディートハルトに知らせる。
刹那、ディートハルトは泣きながら彼女の名前を叫んだ。
「……ッ…………レスティア様ッ!!!!」
敵陣のど真ん中をしてあまりの愚行と知りながらも、それを制御するだけの理性は失われていた。
雨音が煩い。
彼女の声が聞こえない。
でもまだ生きてる。
早く手当てを。
死なないで。
死なないで。
死なないで――おいていかないで。
「レスティア様! 目を開けてください! レスティア様!!!」
血の気が失せた白い彼女の手を握り、必死で呼びかける。だが、閉ざされた瞼はピクリとも動かない。目から止めどなく流れる涙を拭うこともせず、ディートハルトは零れ落ちていく魂を繋ぎ止めようと声を上げて足掻き続けた――刹那。
ディートハルトの脳は後方よりの衝撃に揺れた。
頭を強く叩かれたのだと気づくのと前後して、見知った男の大音声が雨音をかき消すように耳朶を打つ。
「馬鹿野郎ッ!! ここで叫ぶくらいならさっさと撤退準備をしろ!!!」
鬼気迫るダグラスの言葉でようやく我に返ったディートハルトは、弾かれるように顔を上げた。
五感を研ぎ澄ませ、周囲の状況を把握する。
『――常に状況の俯瞰を心掛けて。戦場は基本的に乱戦になるから、今のうちから周囲への警戒と反応するための訓練には力を入れようね』
他でもない彼女から教わったことが、骨の髄まで浸透していた。
そうして気づく。敵騎兵の数は想像以上に少ない。視界不良の乱戦のために敵の連携もほとんど取れておらず、何よりバロール中将の戦死が効いていた。指揮官を失った直後の動揺は致命的な思考停止を生む。本来、敵からすれば恰好の的であったはずのディートハルト自身がまだ生きていることが、何よりの証左だった。
「ダグラス隊長! レスティア様を馬に!! 僕が時間を稼ぎますッ!!!」
言って、ディートハルトは自馬を指笛で呼びつつ腰の剣を抜き放つ。
今はダグラスがレスティアを馬に乗せるまでの時間を捻出するだけでいい。彼女に鍛えられた自分に、それが出来ないはずがない。
ダグラスはすぐさまディートハルトの意図を汲み、馬を降りてレスティアを肩に担ぎ上げる。そこへ猛然と斬りかかろうとした敵兵に対し、ディートハルトは一切の躊躇なく剣を振るった。
死の手応えを感じながらも、頭は驚くほど平静だった。やることが決まっている方が、悩まずに済む。
ほどなくダグラスがレスティアと共に馬に乗り、迷わず撤退へと動いた。
ディートハルトは幸いにも生きて近くまで戻ってきてくれた優秀な自馬を見つけて走り寄り、一呼吸の間に騎乗を完了する。
「ディートハルト、行けるかッ!?」
「問題ありません! 背後は死守しますから早くレスティア様を!!!!」
視界の端でダグラスが首肯するのを捉えながら、ディートハルトはぬるつく指先に力を籠める。血と雨でずぶ濡れになった刀身を勢いよく振って水気を飛ばしながら、ディートハルトは周辺警戒を続けつつひたすら馬を操りダグラスの背を追った。
これが、後世に残る【グラーツ渓谷の夜】の顛末。
本作戦行動中における死者は計二十八名。
そのすべてが第二騎士団第五騎兵隊の騎士であり、その中にはレスティア・マクミランの名も刻まれた。
――ディートハルトは間に合わなかった。
敵陣から撤退し、近隣の村に駆け込んだ時点で。
レスティア・マクミランの死亡が確認された。手の施しようはなかった。
かくして彼女はその命と引き換えに――救国の英雄の一人となった。
十二歳のディートハルトは、赦されるのならば、彼女の後を追って死んでしまいたかった。
彼女のいない世界で生きる苦痛を思えば、それはこの上なく焦がれる選択肢だった。
だが、それを選ぶことはディートハルトには出来ない。
何故なら、彼女が望んだから。
『私は、ディーには立派な公爵になって欲しいよ。この戦争は、終わった後の方がきっと大変だから……ディーがこの国の未来を担ってくれたら、私はすごく安心出来るから』
それはディートハルトにとって道標となり、また呪縛ともなった。
ほどなく戦争は終結した。兵役義務から解放されたディートハルトだったが、騎士団への籍はそのままに、アメルハウザー公爵家を継ぐための教育と人脈形成に勤しみ始めた。
この頃には既に、ディートハルトの心は酷く凪いでいた。波立つことのない感情は貴族としては非常に有用であり、自身を含め世界を俯瞰する能力も重宝した。
必要な知識を得、活動範囲が広がれば広がる程に、ディートハルトは貴族として大きく成長した。
そんな中で転機が訪れたのは、ディートハルトが十四歳になった頃のこと。
騎士団内においても順調に出世し、かつてのレスティアと同じ小隊長の座に就いていたディートハルトは、とある調査結果を手にセルゲイ第二騎士団長のもとを訪れた。
厳重に人払いをした後にディートハルトはセルゲイ団長へ冷然と告げる。
「仕組んだのは、父だったのですね」
無造作に机へ投げられた調査報告書に記載された表題は【グラーツ渓谷夜襲作戦における人選について】。
そこには本作戦における当初の人選が【第一騎士団第七騎兵隊】であったことが記録されている。
しかし計画策定の最終段階で突然、その人選は覆された。
「最終的に第二騎士団第五騎兵隊が選出された理由は、現アメルハウザー公爵家当主による政治的圧力によるもの――ですね」
ディートハルトの確信を持った声にセルゲイ団長は口もとを大きく歪めた。
その顔に刻まれた感情は、理不尽に対する怒りと己の無力さを嘆く悲しみ。
「……儂の力では、どうすることも出来なかった。第五騎兵隊は君を除き、ほとんどが平民出身だったことも大きい。一方、第一騎士団第七騎兵隊は貴族の子息も数名在籍していた」
「それは単なる後付けでしょう? 貴族の子息と言っても次男や三男ばかりだ。だからこそ当初は第七騎兵隊に作戦司令が下る予定だった。そこに父がわざわざ横槍を入れた理由なんて一つしかない」
ディートハルトはセルゲイ団長を真っ直ぐに射抜き、無表情のままで言った。
「アメルハウザー公爵は息子が特別視するレスティア・マクミランという女性を合理的に排除したかった。だから彼女の小隊を死地へ送った。つまり、第五騎兵隊の死の間接的な原因は――」
「ディートハルトよ、それ以上は口にするな」
セルゲイ団長は眉を顰めて首を横に振り、向かい合うディートハルトを諫めた。
「第五騎兵隊の騎士たちは立派に責務を果たした。遺された我々はその結果を誇り、讃えるべきだろう。今更……当時の経緯を徒に暴くことに意味はない」
詭弁だな、とディートハルトは思ったが、口には出さなかった。
自分がここに来た目的は最終的な裏取りだ。セルゲイ団長の言動から己が手駒を駆使して得た調査結果が間違いではなかったと判断出来たので、用は済んだ。
持ち込んだ書類を回収することもせず、さっさと退室しようとディートハルトは腰を上げる。するとセルゲイ団長が何やら焦ったように声を掛けた。
「ディートハルト、くれぐれも馬鹿なことは考えるな。もう――終わったことだ」
老翁の心配を孕んだ忠言を、ディートハルトはきちんと耳に入れた。
しかし特に心が動かされることはない。
ただただ客観的に、彼女を直接的に死地に送り込んだのが父であったという事実を胸に刻んだ。
それからおおよそ五年の歳月をかけて。
ディートハルトはありとあらゆる手段を用いてアメルハウザー公爵家当主の座を力尽くで手に入れた。
裏を返せば、前アメルハウザー公爵である父が持っていたすべてを簒奪したとも言い換えられる。
世間的には身体を壊し領地で隠居の身となっている父だが、本当は森の奥深くの別邸に幽閉されている。当然、ディートハルトの指示によるものだ。
殺してはいない。
安易に殺すよりも、生かし続ける方が長く絶望させられると知っているからだ。
かつての手駒に裏切られ監視され、孤立無援の中で自ら死ぬことも赦されず、ただ無意味に生かされるだけの日々を送らせている。
一度は権力の栄華を極めた男からそのすべてを取り上げ、幽閉生活を強いるのは想像を絶するほどの屈辱だろう。
それが、ディートハルトが父に与えるささやかな報復だった。
同時に父が築き上げてきたものはすべて有効活用することとした。
地位も名誉も財も人脈も何もかもを使い、領主として領地を豊かに治め、ひいては他国に侵されぬ盤石な国を作り上げる。――彼女がそう、望んだから。
やがて寿命が尽きるその時まで、彼女の遺した願いを叶えるために生きること。
それこそが、置き去りにされたディートハルトに残された唯一の道だった。
――かくして、レスティア・マクミランを喪った日から九年以上もの間、そのように生きてきたディートハルト・アメルハウザーは。
いつの間にか王族以上の力を有し、畏怖の念から氷の騎士公爵などとあだ名されるようになった。
これにて過去編は終了となります。
そして次回からまたアルマ視点に戻ります。
物語の最後までぜひ、お付き合いいただければ幸いです。




