アルマ、誤解を解く
少しの間とはいえ気絶していたからだろうか。
クラリスとグランツ卿を見送った頃にはだいぶ宵も更けていたが、アルマは眠気を感じていなかった。
肉体的にも精神的にも相当に疲弊しているはずだが、逆に神経が昂っているのかもしれない。
入浴と着替えを済ませ、自室でベッドに入ってからも目は冴えてしまっていた。
だから非常に控えめに叩かれたノック音に、
「……はい、起きてますよ」
簡単に反応して言葉を返してしまう。すると、扉の向こうからやや戸惑った気配がした。
それでアルマは、扉を叩いた主に見当が付いた。思わず笑みが零れてくる。
「――ディー、だよね? 入って良いよ」
ややあって、ゆっくりと扉は開かれる。
予想通り、そこにはラフな格好をしたディートハルトが、やや苦笑気味に立っていた。
アルマが手招きをすれば、彼は「失礼します」と中に足を踏み入れる。
一方でアルマはベッドから起き上がり、ベッド脇のサイドテーブルにあったランプに火を入れた。部屋を温かなオレンジ色が満たすと、アルマはベッドの縁に腰かけ、自分の隣をポンポンと叩いた。
「ちょうど眠れなかったところなの。良かったら少し話に付き合って?」
「……はい。喜んで」
僅かに肩の力を抜いて微笑んだディートハルトが隣に座るのに、アルマは目を細める。
「心配して、見に来てくれたんだよね? ありがとう」
「いいえ、そんなんじゃありません……僕が、不安で眠れなくて。気づいたらこちらに足を向けてしまったんです」
「不安?」
「……貴女を、また喪っていたかと思うと、とても眠れそうになくて」
せめて寝顔を見れば安心出来るかなと思って来てしまいました――と、ディートハルトはランプの明かりを見つめながら呟いた。横から覗くタンザナイトの瞳の中で揺れる炎の色が、温かなのにどこか寂しくて。アルマはディートハルトにそんな顔をさせてしまった自分を悔やむ。
しかし謝罪の言葉を口にしても意味はないとも思った。だから代わりに、ディートハルトの左手に自分の小さな手を重ねる。ひやりとした彼の指先に、自分の熱を移すように。
「わたしは、ちゃんと生きてるよ。ディーが守ってくれたから」
驚いたようにこちらを振り返ったその表情は、少しだけ泣きそうに見えた。
だからもっと安心して欲しくて、さらに強く手を握る。自分はここにいるのだと教えるように。
しかしディートハルトにしては珍しく、暗い表情のまま小さく被りを振った。
「すべてを守れたわけではありません。貴女の大切な身体をヨルダンに触れさせた事実は消せない」
「ん? ああ、首絞められたこと? こんなのすぐ治るし怪我のうちに入らないよ」
「それもですが……キス、されたんですよね? 初めてをヨルダンのような男に奪われるなど、到底赦されることでは――」
「――――さ」
「さ?」
「されてないっ!!! キスされてないから!! 勘違いだから!!! みっ、未遂です!!!!」
アルマは思わず叫んで全力で否定した。
これを勘違いされるのだけは我慢ならない。
他ならぬディートハルトにだけは絶対に。
「だからわたしのファーストキスはディーが……って、あれは消毒だからやっぱり未遂かな!? それとも人命救助的な感じ!?!?」
自分で言ってて訳が分からなくなってきたアルマが吟味することなく思考を垂れ流す中、
「……未遂」
ディートハルトは己の唇に右手を添えながらポツリと零す。その仕草と表情が妙に艶めいていて、アルマは反射的に目を背けた。なんだか見てはいけないものを見てしまった気分である。
微妙な空気が室内を支配する中で、アルマはわざとらしくコホン、と咳払いした。そして大きく息を吐いた後で、改めてまだ少しぼんやりしているディートハルトと向き合う。
「とにかく、そういうことだからディーが気にする必要なんてないの! 分かった?」
「…………分かりました」
「よし!」
「ですが、なかったことにはしません」
「……んん??」
首を大きく傾けたアルマの頬に、ディートハルトの手が伸びてくる。
そのまま右側を大きな掌で包まれ、
「今までもこれからも――貴女に触れていいのは、僕だけだ」
とても真剣な表情で彼は明確な独占欲を口にした。
瞬間、ぶわっとアルマの全身に形容しがたい熱が回る。
猛烈に恥ずかしい。今すぐ逃げたい。だけど、彼の手を振り払うことは出来ない。
「約束してください。僕以外には触れさせないと」
続く懇願に、気づけばアルマは真っ赤になって首肯していた。もとより自分の身体をむやみに他者に触れさせる気はない。こんなに近い距離を赦す異性だって、前世から数えてもディートハルトしかいないのが事実。
アルマが素直に聞き入れたことで、ディートハルトの纏っていた空気が嬉し気に緩む。他者への冷徹な態度を見ている分、その気配が特別なものであると既に十分理解していた。
だからこそ、その想いに報いたい。
「……ディーは、他にわたしに何か望むことはある?」
アルマの問いに、ディートハルトの瞳が一瞬だけ、戸惑うように揺らぐ。
告げるか否かを迷う様子に急かすことなく無言で待っていると。
瞬きをした彼が、躊躇いがちに、言った。
「もう二度と……僕より先に、死なないでください」
それはまるで、祈りのような響きだった。
かつてレスティアが少年だったディートハルトにした願いを。
今、彼はアルマへと口にした。
「貴女が生きてさえいてくれるなら、僕はもう、それだけでいい」
声と共にアルマの肩口に下りてきたディートハルトの額の重み。
それを感じながら、アルマは静かに涙を零した。
こんなにも大きく成長したディートハルトの、それでも今この瞬間の頼りない背中に腕を回して、堪らずぎゅうっと抱きしめる。
もう認めよう。ディートハルトの気持ちも。自分の気持ちも。
恋とか愛とか、そんな簡単な言葉に当てはめる必要なんてない。
ただ互いを求めている。その事実さえあればいい。
「……約束する。今度は、わたしが」
レスティアであった頃、この少年に遺してしまったもの。
それは約束という名の呪いだったのかもしれない。ならば、今度はこちらが背負う番だ。
「ディーが死ぬまで、ちゃんと傍に居るから……」
ふと、肩に冷たい雫が落ちる。逆に自分の背中に回された腕は、どうしようもないほど熱くて。
心臓の音さえも混ざり合う距離を心地よいと感じながら、アルマはそっと、慈しむように目を閉じた。




