ディートハルト、断罪する
彼女の体温に触れるまで、生きた心地がしなかった。
九年前の悪夢がどうしたって幾度となく頭を過り、その度に心臓が無数の針を突き立てられたように痛む。
それは一度は完全に喪い、奇跡的にその魂を取り戻したというのに、再び喪うかもしれない恐怖によるもの。
ディートハルト・アメルハウザーにとって、彼女を喪うということは、世界が終わることと同義だ。
一度目は託された願いのために自死を選べなかった。
だが、二度目はもう無理だ。彼女のいない世界で生きる意味なんて見いだせない。
彼女がいるから、この世界に価値が生まれる。他の誰に何と言われようが、それがディートハルトにとっての真実だ。
だからこそ、今この腕の中で意識を手放しながらも寝息を立てているアルマの姿が、愛おしくて。
ディートハルトは縋るようにその身体を掻き抱きながら、しばらくその場を動けずにいた。
そんなディートハルトが現実に引き戻されたのは、駆け付けてきた部下による焦燥混じりの叫びによるもの。
「団長ーッッ!!! もうホント勝手に突っ走るの止めて貰えませんかねぇ!!!」
「……ダグラス、遅いぞ」
ディートハルトが蹴破って侵入した天井扉は、大人が一人通るだけでもかなりギリギリのサイズだ。長身のダグラスは苦労しながら室内へと入ってくると、辺りを見回して大きく溜息を吐いた。
壁際で右肩から血を流して倒れるヨルダンと、ベッドの間近で腹を押さえた体勢で固まるミーシャ。本件の実行犯と思しき二人は既に気絶しており、しかも男の方は放置すれば早晩死にそうである。
「なんとなく状況は分かるんですが、アルマは無事ですよね?」
「命に別状はない。が、首を絞められて殺される寸前だった。踏み込むのが数分遅れていたら間に合わなかったかもしれない」
「ッ! ……このクソ野郎が!!」
ディートハルトの言葉で顔色が変わったダグラスはそう吐き捨てながら、床に転がるヨルダン・ネッケを鋭く睨みつけた。震えるほどに握りしめられた拳から怒りの程が知れる。ダグラスにとっても、アルマはある意味で特別な存在だ。そんな彼女が害されたことに憤慨するのも無理はない。
さらにそこへ複数の足音――騎士の増援が近づいてくるのを耳で捉えたディートハルトは、アルマを大事に抱え直すと表情を無にして立ち上がる。
「ダグラス、そこの二名を拘束して騎士団庁舎に連行しろ。現行犯だ。その後の部下への指揮はお前に任せる」
「了解しました。アルマは団長が連れてくんですよね? ていうかアルマも気絶してるんだから早く医者に見せないと」
「……そう、だな。医者と従者は我が家の者を呼ぶ。それまでは私が付いているから問題ない」
アルマの精神に負荷をかけて最終的に気絶させたのが自分であるという自覚がある分、ディートハルトにしては珍しく歯切れの悪い受け答えになった。だが、ダグラスは特に気づいた様子もなく「では、公爵家へは騎士団から使いを出します」とディートハルトの意を汲んで駆けつけた他の騎士たちに指示を出し始める。
「あ、団長。よければ使ってください」
さらにダグラスは腰に下げていた小剣をディートハルトに差し出す。その目線の先はアルマを縛る縄に向けられていた。ディートハルトは「助かる」と言って受け取ると、後の指揮をすべてダグラスに丸投げし、アルマを優しく抱きかかえたまま部屋を出るべく歩を進める。
そうして部屋を出る直前。
最後にヨルダンを一瞥したディートハルトは誰に聞かせるでもなく呟いた。
「――殺しはしない、そう簡単には」
ディートハルトはそのまま気絶したアルマと共に王城内の大広間へと戻ってきた。
騒然とする会場内――それもその筈。なにせ夜会の中断宣言から時間にしてまだ一時間も経っていない。それでもディートハルトは再びこの場に現れ、しかもその腕には大切そうに一人の少女を抱えている。当然、彼女がディートハルトの言う身内であることは明らかだった。
必然的に飛び交う好奇と憶測の視線。
それらすべて一身に集めてもなお、ディートハルトの表情に変化はない。むしろ全身から溢れ出す冷徹な気配に誰もが息を呑み、向けていた目を慌てて逸らした。
好き好んで虎の尾を踏みに行くような愚か者はいない。
逆にディートハルトの進路を妨害しないよう、貴族たちは自然と往く道を譲った。まるで美貌の支配者へ恭順するかの如く。
そうした周囲の計らいなど一切歯牙にもかけず、ディートハルトは真っ直ぐに王族専用の雛壇までやってくると、ある人物に冷ややかな視線を向けた。
そこには国王陛下に肩を抱かれた女性――クラリスの姿がある。
真っ青な顔をした彼女はディートハルトと、その腕の中で依然として手足を縛られたままの状態にあるアルマを目に映した途端、グッと奥歯を噛みしめるようにしてその端正な顔を歪ませた。
「……アメルハウザー公爵」
そこで声を上げたのは、国王陛下だった。
「その腕に抱いている少女は、貴公の身内に相違ないか?」
「……ああ、先ほどこの手で救出した。犯人も既に騎士団の方で捕縛している」
「そっそうか……して、犯人というのは――」
国王陛下の僅かに焦りを帯びた声に、ディートハルトは再びクラリスを視線で射抜く。
その意図が正しく伝わったのだろう。国王陛下は娘を守るようにより強く彼女の肩を抱き寄せると、ディートハルトに対して挑むような目線でもって牽制した。
ディートハルトは思考する。
ここですべてを詳らかにして王家の権威を失墜させることは容易だ。
だが、それを実行すればその後の自分の立ち位置が面倒になることも避けられない。
所詮は王家などいつでも、どうとでも出来る相手。
ならばここはひとつ貸しとしておくべきだろう。
この件に深く食い込むもう一人と合わせて、ただでは決して済まさないが。
ディートハルトはそこで一度目を伏せると、身体ごと会場全体を見渡せる方向へと踵を返した。
そして目的の人物を視界に捉えると、おもむろに口を開く。
「――ネッケ侯爵、前へ」
「……は?」
名指しにされた壮年の男性――ネッケ侯爵家当主は、愕然とした面持ちでディートハルトを見上げた。
同時に潮が引くようにネッケ侯爵の周囲にいた他の貴族たちが後ずさる。
ぽかりとそこだけ孔が空いたように、ネッケ侯爵は訳も分からないまま孤立した。
呆然と立ち尽くす哀れな男に、ディートハルトは淡々と告げる。
「ネッケ侯爵、貴様の息子であるヨルダン・ネッケが本件における現行犯だ。未成年者に対する拉致監禁及び殺人未遂のな」
「…………な、なにかの、間違い……で、は……?」
「現場を押さえたのは他ならぬ私だ。それに、ヨルダン・ネッケには今回の件に限らず婦女暴行や脅迫、殺人の容疑も掛かっている。――そうだろう、クラリス・ヘスター?」
ディートハルトの言葉に、未だ顔色の悪いクラリスはそれでも背筋を伸ばすと明確に首肯する。
せめてこれだけは自分の役割だとでも言わんばかりに。
「……アメルハウザー公爵の言葉の通りだ。それに私自身、先ほど無理やりヨルダン・ネッケ侯爵令息に人気のない場所へと連れ込まれそうになった。何やら強い酒も飲まされたしな……調べて貰えれば何か出てくるのではないだろうか」
次々と飛び出してくる証言にネッケ侯爵の顔は、青を通り越して紙のように真っ白になっていた。
当然ながら息子の手癖の悪さについて一切知らなかった、ということはあり得ないだろう。だが、ここまでの失態を犯すとは思っていなかったに違いない。
もともとヨルダン・ネッケは慎重な男だった。多数の罪を犯しながらも、今までそれが白日の下に晒されない程度には狡賢く、周到だった。
しかし、それもすべて終わりだ。
何故ならディートハルト・アメルハウザーの身内に手を出したから。
アメルハウザー公爵家。
建国以来続く由緒ある家門にして、富める領地と王族に次ぐ権力を有するリーンヘイム王国の筆頭公爵家。
しかし、それは表向きのものである。
三年前、十八歳の時に当時の当主から爵位を簒奪した若き青年は、当主の座に就いて二年後には一族のみならず国内の半数にも上る貴族家を実質的な傘下に置いた。
勿論、そのほとんどが先代から引き継いだ地盤だったが――その圧倒的な統率力と支配力は王家をも簡単に凌駕し、国内で現アメルハウザー公爵に逆らえる者は実質的に消滅した。
それは国王陛下ですらも例外ではない。
ただ、現王家はアメルハウザー公爵が王位に興味がないからこそ、そのまま生かされているに過ぎない。
そんなディートハルトの身内に手を出すということは、遠回りな自殺に他ならなかった。
周囲から憐みの視線を向けられながら、ネッケ侯爵が精気の抜けきった表情のまま膝を折る。
ディートハルトは破滅の運命を悟ったネッケ侯爵から視線を外すと、
「ネッケ侯爵家に連なる者をすべて拘束しろ」
周囲にいた近衛騎士たちに当然のようにそう命ずる。会場内のいたるところでネッケ侯爵家と繋がりがある者たちの悲鳴が上がる中、ディートハルトはこちらを窺うクラリスへと近づくとその耳元に唇を寄せた。
「――――後ほど、我が屋敷を訪ねて来い。グランツ辺境伯と共にな」
驚愕の表情を向けるクラリスの返事を待たず、ディートハルトは用は済んだとばかりに雛壇を下りると、大広間からその姿を消した。
そうして残された貴族たちはディートハルトが完全に立ち去ったことを確認すると、ネッケ侯爵家という餌に群がる蟻のように、そこかしこで噂話に花を咲かせ始めたのだった。
本日は夜にもう1話更新予定です。よろしくお願いいたします。




