アルマ、夜会へ行く(5)
――落ち着け。アルマはそう自分に強く言い聞かせながら、ヨルダンの動向を観察する。
現状で彼は何もおかしなことはしていない。相対するクラリスにも変化はなく、上機嫌な様子でシャンパングラスを傾けているだけだ。
彼らの周囲は大勢の貴族たちが取り巻いており、到底馬鹿な真似をするとは思えない。
杞憂ならばそれでもいい。だが、万が一の時には取り返しがつかない事態になりかねない。
アルマはふっと張り詰めていた息を吐き出すと、ここでようやくディートハルトを仰いだ。それを待っていたかのように、彼もまたこちらを見つめている。
珍しくその瞳に甘さはなく、どこか咎めるような色をしていた。
「駄目ですよ」
「っ……!」
そして機先を制したのもディートハルトの方だった。良くも悪くも互いの性格を知り尽くしているため、余計な会話をせずとも言いたいことは理解できてしまう。
すなわち、関わるなと。わざわざ危険に飛び込むなと。彼はそう言いたいのだ。
しかしアルマはそれを承服せず、ディートハルトをじっと覗き返した。
「そう仰るってことは、ディートハルトさまも気づいているんですよね? ヨルダンの不穏な動向を」
「……ええ、ですが僕たちが積極的に介入する必要はありません。クラリスなら自分で対処しますよ。そこまで間の抜けた人間ではないので」
確かに、それはそうなのかもしれない。先ほど初めて知り合ったアルマでは判断がつかないが、長い付き合いだというディートハルトがそう評価しているのならば、むしろアルマがでしゃばるだけ余計な要素をもたらす可能性がある。
どうもヨルダンに対する警戒心からか、過剰に反応しているのかもしれない。
アルマは額に手を当てると目を瞑った。ここは冷静になる必要がある。
しかしタイミングの悪いことに、アルマが心を落ち着けようと意識を内側に向けた刹那、
「きゃっ!?」
すぐ傍で若い女性の悲鳴が聞こえた。
反射的に顔を上げれば、ちょうどアルマの真正面に位置するドレス姿の若いご令嬢が目を見開いたままこちらへと倒れ込んできていた。視界の端では彼女が手にしていたと思しきワインのグラスが空中を舞っている。
瞬時に避けようという考えと、避けたら彼女が床に倒れ込んでしまうという考えが並列し、結果としてアルマの動作は遅れた。
そこで衝突は免れないと判断したアルマが咄嗟に相手を支えようと手を伸ばしかけた時、
「――――そのままで」
短く言い捨てたディートハルトがアルマと位置を入れ替えるように一瞬のうちに前へ出て、ご令嬢の身体を片腕だけで抱き留めた。
実にスマートなその動きに、周囲から「おおっ」と感嘆とも驚きとも取れる声が漏れる。身構えていたアルマもその光景を目にしたことでホッとし、無意識のうちに身体をわずかに弛緩させた。
だが、予想外の不運は続く。
アルマのすぐ近くでパリン、という音がした。それは彼女が持っていたワイングラスが大理石の床を叩いた音で、周囲には中身の白ワインとグラスの破片が勢いよく飛び散る。
幸いにして破片で怪我をする者はいなかったが、
「っつめた……」
アルマの左足の一部は白ワインの飛沫をもろに浴びてしまった。
慌ててドレスの裾を軽く持ち上げ、染みが出来ていないか確認しようとしたアルマだったが、
「アルマ! 怪我は!?」
「ちょっ!?」
目にも止まらぬ速さで駆け寄り、なんの躊躇もなくアルマのもとに跪いたディートハルトの行動の方に目を剥いた。パッとドレスの裾から手を離したアルマはディートハルトの肩に手を置くと彼の耳元で早口に捲くし立てる。
「わたしは大丈夫だからお願い早く立って目立つ目立つ」
「本当に怪我はないんですか? ガラスで切ったりなどは――」
「してないから! ちょっとワインが掛かっただけ!!」
力説するアルマの必死さが伝わったのか、ディートハルトは何事もなかったかのように立ち上がった。
しかしその視線はアルマから決して外れることはなく、何か異常や異変がないかチェックしてくる。
そんな彼の背後から、半泣きのご令嬢がプルプル震えながら謝罪の言葉を口にする。
「ほ、本当に申し訳ありませんでした……!! 何かに足を取られてしまって、それでわたくし……っ」
「どうぞお気になさらず。怪我もしておりませんし、ワインが少し足に掛かった程度ですから」
アルマはご令嬢が罪悪感を抱かないようニッコリと笑みを作る。
と、そこへ騒ぎに気づいた給仕や侍女が事態の収拾のために数人近寄ってきた。その中の一人である給仕服を着た妙齢の女性が、アルマの足元を気にしながら声を掛けてくる。
「お嬢様、どうぞこちらへ。化粧室の方へご案内いたします」
「あ、はい。助かります。ありがとうございます」
アルマはその気遣いを素直に受け入れ、
「ディートハルトさま、すぐに戻りますので少々お待ちくださいませ」
一応ディートハルトにも一言残す。何も言わなければ当然のように付いてきそうな気がしたので、先んじて「一人で行ってくるのでここで待っていて欲しい」と暗に伝えた。
やや不服そうな表情のディートハルトだが、流石に止める言葉はなかった。
未だに謝罪し続けるご令嬢に笑顔で手を振ってから、アルマは給仕の女性の案内に従って会場を出る。
とはいえ、実のところアルマに案内は必要なかった。何故なら騎士であったレスティア時代に、この城の構造は頭に叩き込んでいたからだ。
ほどなく化粧室へと辿り着き、給仕の女性の手によって靴と足が清められる。白ワインだったので汚れが目立つようなこともなく、少しだけ靴に湿り気は残ったものの、大きな問題はなかった。
あまり長い時間が掛かると心配したディートハルトが何をするか分からないため、アルマは早々に会場へと戻ることにする。
来た道を女性と二人で歩き、真っ直ぐ進めば会場へ、右に曲がれば休憩室へ向かうことが出来る廊下の交差地点に差し掛かった時だった。
休憩室の方向からバタバタと走る音がし、アルマは自然と音の方へと顔を動かす。
そして驚きに思わず目を見張った。
こちらに走ってきたのが、グランツ辺境伯家に仕える護衛の女性ミーシャだったからだ。
酷く焦ったような表情をした彼女は、アルマの姿をその目に捉えると天の助けとばかりに声を上げる。
「――アルマ様! お嬢様を……エリーチカ様をお見掛けにはなりませんでしたか!?」
そう言ってこちらの前で息を乱しながら立ち止まったミーシャに、アルマは首を横に振る。
「夜会が始まる前にお会いしましたが、その後はお見掛けしてません。何かあったのですか?」
「先ほどから姿が見えないのです。会場内にはいないとのことで、手分けして探しているのですが……」
「いなくなってからどのくらい経ってますか?」
「既に三十分ほどは姿が見えません」
アルマは思考する。ご令嬢が姿を消すとすれば逢引きが一番に頭を過るが、先ほどディートハルトに振られたばかりのエリーチカの場合それは考えにくい。
友人たちと会場の外で歓談しているならすぐに見つかるだろうし、化粧室はアルマがたった今出てきたばかりだ。
アルマは脳内で城の地図を描きながら、
「……分かりました、わたしも探すのを手伝います」
そうミーシャに告げ、この状況をハラハラと窺っていた給仕の女性に伝言を頼む。
「会場内に居るアメルハウザー公爵閣下に、今見聞きしたことを伝えていただけますか? それと、すぐに戻れなくて申し訳ありません、とも」
給仕の女性は戸惑いつつも、アルマが譲る気がないのを察してか「畏まりました」と頭を下げ、急いで会場の方へと走っていく。強制的に巻き込む形にはなるが、自分が介入したことで結果的にディートハルトもエリーチカ捜索に協力してくれるだろう。
そこまで考えたアルマは小さくなった給仕女性の背から目を外し、
「では、我々も動きましょう。まだ探していないところは――……」
ミーシャの方を振り返ろうとした――が、それは叶わなかった。
背後から拘束され鼻と口元になにか濡れた布のようなもので塞がれた瞬間、アルマは自分の過信と迂闊さを呪った。
まずい、と思って藻掻こうとしても、呼吸すらままならず拘束された身体は上手く動いてはくれない。
完全なる不意打ちに対して、子供の器はあまりにも無力だった。
やがて目がかすみ、視界は暗転していく。
――――……ディー、ごめん……
最後に声にならない叫びを上げながら、アルマの意識はそこで闇に沈んでいった。




