ディートハルトの追憶(6)
その日の夜。
夕食と入浴を終えたディートハルトは、レスティアとの待ち合わせ場所である騎士団宿舎の裏口脇に立っていた。するとそこへ、外出先から戻ってきたと思しき一人の男が現れる。
ディートハルトはその顔に見覚えがあった。そして男の方も、ディートハルトの顔を見て「あ」と声を出す。
「珍しいな、お前さんがこんなところにいるなんて……って、悪い。いきなり話しかけても俺が誰か分からんよな。俺は――」
「第三騎兵隊所属のダグラス副隊長、ですよね。レスティア様の同期の」
「なんだ、俺のこと知ってたのか」
ディートハルトは首肯する。忘れるわけがない。あの日。初めてレスティアが泣いているところを見た日。直前まで現場に居て、彼女が深く傷つく原因に関与していた男なのだから。当然調べた。
「面倒見がよく、先輩後輩に関わらず慕われている方だとお聞きしています。騎士としての力量も達者であると」
「おいおい……なんだよ照れるじゃねぇか……」
突然の賛辞に頬を照れくさそうに掻きながらも、ダグラスは満更でもなさそうに口もとを歪める。
「俺もお前さんの噂は聞いてるぞ。第五騎兵隊の神童ディートハルトってな。特にレスティアのやつ、会うたびにお前の自慢話スゲーしてくんだよなぁ」
「レスティア様が、僕の話を?」
「ああ、素直で真面目で伸びしろしかなくて毎日一緒に訓練してて楽しいってよ。ったく……羨ましいったらないぜ……」
ダグラスの言葉の端々から、ディートハルトはこの男がレスティアに気があることを察する。同期でレスティアとも仲が良さそうな分、他の騎士たちよりも警戒レベルを上げたほうが良いかもしれない。
そんな風に考えていたところへ、別の声が掛かった。
「ディートハルト、お待たせ! って、あれ? ダグラスもいる」
「お、なんだレスティア。こいつの待ち合わせ相手はお前だったのかよ」
「うん、私から誘ったの。今からちょっと出てくるけど、内緒にしておいてね?」
「は? え、なんだよ……二人でこれから出かけんのか?」
明らかに動揺が声に乗るダグラスに、レスティアがあっけらかんとした調子で返す。
どうやらレスティアはダグラスの気持ちに全くと言っていいほど気づいていないようだ。
「別に庁舎の外には出ないよ。ちょっと二人きりで話したいことがあるから。じゃあ、行こうかディートハルト」
「はい、レスティア様」
言って、ディートハルトはチラリとダグラスへ視線を飛ばす。そして、牽制の意味も込めて獲物を見つけた猫のように目を細めて見せた。ばっちり目が合ったので、きっと意図は伝わったことだろう。
そのまま上機嫌なレスティアの横に並んで歩き出したディートハルトは、置き去りにされたダグラスを相手にほんの少しだけ優越感というものを覚えたのだった。
レスティアの案内で歩くこと数分。
やって来たのは、庁舎や宿舎から少し離れた位置にある、現在は使われていないレンガ造りの見張り櫓だった。縦に長い円柱状の建物は施錠扉などなく、四階建てくらいの高さがある。
そこへ躊躇なく入っていくレスティアの背を追いかけて階段を上がれば、人が三人ほどいれば窮屈なくらいの狭い空間に出た。東側に大きく取られた窓から見えるのは、遠くに見える城下街へと続く舗装された街道と森林、そして夜空を彩る満天の星空である。
ディートハルトに風景を楽しむ趣味はないが、この景色は美しいものだと純粋に思った。
「……ここはね、私のお気に入りの場所なんだ」
窓枠に手をかけながら、レスティアがディートハルトに対して優しく微笑む。
「今はもう使われてないし滅多に人が来ないから、一人になりたくなった時にはよく来てたの。最近はあまり来てなかったんだけどね」
「……どうして、僕をここへ連れてきてくれたんですか?」
「んー……一応、私からのささやかなプレゼントってことで」
「プレゼント……?」
「うん。今日で入団からちょうど一年でしょう? だからそのお祝いがしたくて。……本当は何か形に残るものを贈りたかったんだけど、用意出来なくてごめんね」
申し訳なさそうに眉を下げたレスティアに、ディートハルトは慌てて首を大きく横に振る。
「いいえ! その……まさか気に掛けて貰えるとは思ってなくて、驚いてしまって。あの、すごく嬉しいです! ありがとうございます、レスティア様」
ディートハルトが心から嬉しそうに破顔すれば、レスティアも「良かった」とホッとしたように目を細める。きっとディートハルトが喜ぶかどうか不安だったのだろう。レスティアがしてくれることならば、ディートハルトはなんだって嬉しいし、幸せな気分になるのだから、そんなのは杞憂なのだが。
「本当に……こんなに素晴らしいプレゼントを貰ったのは生まれて初めてです」
「そんな大げさな……誕生日とかにはもっと凄いプレゼントとかいくらでも貰えたでしょう?」
「いいえ? そもそも僕は誕生日を祝って貰ったことがないので」
「え……どうして?」
「母の命日なんです。だから、その日は喪に服すことになってます」
さらりと事実を告げただけのつもりだった。が、レスティアの顔がみるみる歪んでいく。そこで失敗を悟り、ディートハルトは焦って言葉を重ねた。
「あ、すみません。別に気にしてないんでレスティア様もどうかお気になさらず――」
「っき……気にするに決まってるでしょ!? じゃあなに!? ディートハルトはずっと誕生日を祝って貰ってなかったの……? 公爵家の令息がそんな……」
「父も僕に対して特に愛情というものを示したことはないですし、僕自身も求めてませんから」
「……ちなみに、ディートハルトの誕生日っていつなの?」
その問いに一瞬、迷った。だが、嘘をついても仕方がないので正直に答える。
「……昨日、です」
するとレスティアが強い衝撃を受けたような顔でその場にしゃがみ込んだ。そのまま頭を抱えて蹲る。
「知ってれば……! 知ってればなんとしてもプレゼントを用意したのに……!!」
打ちひしがれて悔やむようなその声に、ディートハルトは思わず笑ってしまった。未だかつて、自分に対してここまで心を砕いてくれた人はいなかった。そしてそのたった一人が、自分の好きな人なのだ。これほどに幸福なことなんてない。
しかしレスティアは納得出来ないようで、勢いよく立ち上がるとディートハルトの両肩を掴んで顔を覗き込んできた。真剣そのものの表情が急に間近に来て、わずかに体温が上がる。
「……私は、ディートハルトが生まれてきて、ここに居てくれて、凄く嬉しい。ご家族の代わりにはなれないかもしれないけど――だけど、言わせて」
彼女のシャンパンガーネットの瞳に、自分が映り込む。その美しさに、息を呑んだ。
「お誕生日おめでとう、ディー……生まれてきてくれて、ありがとう」
その言葉と共に優しく抱きしめられて、ディートハルトは目を見開いた。
温かな抱擁に、戸惑いと、恥ずかしさと、嬉しさが込み上げてきて、心がざわつく。
誰かに大切に想われるということ。そのくすぐったさ。染み入るような甘さと切なさを、ディートハルトはこの時初めて知った。
「……ありがとうございます、レスティア様」
家族の愛情など、期待したこともなければ欲しいと思ったこともなかった。
だけど彼女からの愛は――無限に欲してしまう。それがどんな形であれ、自分に向けられていると思うだけでも満たされていくものが確かにあった。
しばらくして、レスティアがそっと腕の力を緩める。彼女はいつものようにディートハルトの髪に指を滑らせると、前髪越しの額にそっと唇を落とした。まるで母親が眠る前の子供にするような、そんな柔らかさで。
「っ……レスティア様!?」
「これね、おまじないみたいなものなの。貴方に幸福が訪れますようにって。嫌だった?」
「い、いえ……ただ驚いてしまって」
「良かった。じゃあ、そろそろ戻ろうか。明日も早いしね」
言って、レスティアが階段を降りようと足をそちらへ向ける。
それに続こうとしたディートハルトだったが、ひとつ、思い浮かんだことがあった。
「……レスティア様。ひとつだけ、お願いをしても良いですか?」
「ん? 何かな?」
「僕のことを……先ほどのように、ディーと、呼んでくれませんか?」
レスティアから愛称で呼ばれた時に感じた高揚感。
それを今後も味わいたくて、ディートハルトはそう提案する。
他の誰にも呼ばせない、彼女だけに呼んでもらう、特別な響き。
ディートハルトにとってどんなに高価なものよりも価値のあるそれを欲すれば、
「ディー?」
すぐさまレスティアが、確かめるように囁く。
その愛おしい音を聞きながら、ディートハルトは笑みを深めた。
今にして思えば、十一歳という時期はディートハルトにとって幸福の日々だった。
厳しい訓練も、小難しい書類仕事も、面倒な雑用も、本当に僅かばかりの休日も、どんな時も。
隣にはいつもレスティアがいた。だから、幸せだった。
しかし幸せだった分、喪った時の絶望は底が知れない。
それを身をもって体験することになるとは、この時のディートハルトには想像もつかなかった。
明日からまた時間軸が戻ります。
そろそろクライマックスが近づいてきましたので、引き続き応援していただけると嬉しいです。




