アルマ、初めての感情に戸惑う
「では、そこの子供……アルマを、ワタクシに譲ってくださらない?」
まるで店頭に置いてある果物でも買うような調子で発せられたその言葉は。
誇張でも何でもなく、室内の温度を急激に下げた。
そう感じさせるほどに凍てついたタンザナイトの瞳が、眼前の高慢な少女を文字通り刺し貫く。
「――――お引き取りを」
隣で言葉を失っていたアルマには分かった。これはディートハルトに残された最後の理性だ。
ここで引くならば首の皮一枚繋がるが、踏み込むのであれば決して容赦はしない。
そういった類の圧力をかけての発言。
ピンと張り詰めて今にも破裂しそうな室内の空気に、この場の支配者たるディートハルト以外は誰もが怖気づき、わずかな身じろぎにすら神経を擦り減らす。
そんな状況下で、それでも目の前の男に抗うことなど誰が出来るだろうか。
結果、ディートハルトの逆鱗の一端に手をかけたことを骨の髄まで理解させられたエリーチカは、顔を真っ青にしながらぎゅっと唇を噛んだ。
カタカタと音が鳴りそうなほどに全身を震わせながら、それでも最後の矜持で涙だけは見せず、彼女は唇を戦慄かせる。
「…………発言を、撤回いたしますわ」
そのあまりの弱弱しい声と態度に、彼女の背後に立つミーシャが思わずといった様子で「お嬢様」と心配を色濃く滲ませながら肩を抱く。普通の紳士であれば、そこで威圧を解き、優しい言葉の一つでも掛けるところだろう。
だが、ディートハルトは違う。
「では、速やかに帰途の準備を」
言って、使用人に目で合図を送ると、彼はソファーから立ち上がった。
そして当然のような顔でアルマに向かって右手を差し出す。その眼差しは、既にいつものディートハルトのものに戻っていた。
「夕食はまだですよね? そろそろ用意も出来ている頃でしょうし、一緒に行きましょう」
「あ……えっと……」
アルマは迷った。ディートハルトの帰宅前にエリーチカ用の夕食の手配をお願いしたことをこの場で話すべきかを。だが、言ったところでエリーチカが食事を共にするような雰囲気にはもはや到底なりえない。対応に困ったアルマは思わず女性二人の方に視線を飛ばす。エリーチカは憔悴したように俯いていたが、ミーシャはこちらを向いていた。そして、目線だけで彼女は頷いてくる。
それを「このまま帰宅する」という意思表示であると認識したアルマは、そこでようやくディートハルトの手を取った。
そこへ、ミーシャの緊張を多分に孕んだ声が響く。
「……アメルハウザー閣下、そしてアルマ……様。本日はお助けいただいたにも関わらず、大変失礼をいたしました。主に代わってお詫び申し上げます」
「い、いえ……こちらこそ、お構いも出来ず申し訳ありません。どうぞお気をつけてお帰りください」
月並みな言葉しか返せなかったが、アルマはなるべく柔らかく聞こえるような声音を心掛ける。
するとミーシャも少しだけホッとしたような笑みを浮かべたので、おそらくはこれで正解だったのだろう。
このままこの場に留まる方が帰りづらいだろうと判断し、アルマはディートハルトの手を軽く引く。
そしてもう一度エリーチカたちへ頭を下げると、ディートハルトと共に応接間を後にした。
エリーチカは最後まで、顔を伏せたままだった。
「……ディー、ごめんね。勝手なことして」
ディートハルトの私室で、アルマはディートハルトを見上げて謝罪の言葉を口にした。
応接間を出たところでディートハルトが着替えをするために一度私室に向かうというので、アルマもそのまま付いてきたのだ。
首元を飾るタイを緩めながら、ディートハルトはアルマの謝罪に対して少し困ったような苦笑いを漏らした。
「あまり危ないことには首を突っ込まないで欲しいですが、アルマの性格上、彼女たちを見捨てられなかったのは分かりますから。気にする必要はありません」
「……それにしては、彼女たちに対して辛辣だったよね?」
「護衛の方はともかく、グランツ辺境伯令嬢の発言は非常に不快でしたので」
わずかに棘を持ったディートハルトの返しに、アルマは小さく嘆息する。
「別に彼女もわたしのことは本気で言ったわけじゃないと思うよ? 婚姻の方は本気だっただろうけど」
「関係ありません。彼女は僕にとって最も譲れない一線を越えようとした。だから二度とそんな気が起きないように釘を刺しただけですよ」
そう淡々と口にしながらディートハルトが上着のボタンに手をかけたので、アルマはこれ以上は見てはいけないと咄嗟に顔を背ける。するとディートハルトがそんなアルマの反応にクスリと笑みの声を零した。
「別に僕の着替えくらい何度も見てるじゃないですか。今更でしょう?」
「いやだって騎士団に居た頃とはわけが違うから! わたし、一度廊下に出た方がいいよね?」
「いえ、このままでいてください。恥ずかしいなら背を向けていてくれれば良いので。……それよりも、僕はもっと貴女と会話がしたいです。今日は久しぶりに長く離れましたから」
この間も背後からは衣擦れの音が絶えず聞こえてくる。完全に部屋を出るタイミングを失ったアルマは、仕方なくそのままディートハルトの方を見ずに会話を続けることにした。
ちょうど、気になっていることもあったので。
「……話を蒸し返すようで悪いんだけど」
「なんですか?」
「ディーは、その、エリーチカ様じゃなくても、誰か他の人と結婚する気はないの?」
そう問いかけるアルマの脳裏をかすめるのは、まだ見ぬ第二王女の影だった。身分も年齢も何もかもが釣り合った、公爵であるディートハルトにとって最良とも呼べる相手。
心なしか自分の鼓動の音が大きくなったような気がする。それを聞かれないように両手でやんわりと押さえながら答えを待っていたアルマに、
「――アルマ」
着替えの手を止めたのだろう。ディートハルトの声だけがクリアに耳へと届く。
しかしその声はいつもよりも低く艶めきながら、どこか咎めるような色をも含んでいた。
「何度でも言いますが、僕が婚姻を結ぶとしたらその相手は貴女以外にありません。他はいらない」
表情が見えない分、その言葉はアルマをじわじわと侵食していく。
まるで遅効性の甘い毒のように。
「で、でも……」
「でも? なんですか?」
「王命で、婚姻を縛られることだってあるでしょう? ディーは高位貴族なんだから」
「もし仮にそのような王命が下ったとして、僕がそれを受けると本気でお思いですか?」
「……実はさっき、エリーチカ様から聞いた。第二王女殿下が、ディーとの婚姻を望んでるって」
「僕がクラリスと? 何の冗談ですかそれは」
――クラリス。
ごく自然と彼の口から零れたその名に、胸の奥がズキリと疼いた。
「……呼び捨てにするほど、王女殿下とは仲がいいの?」
「まさか。ただの腐れ縁ですよ。互いに利害が一致しているので、夜会などではパートナーを務めることも確かにありますが……アルマ?」
不思議そうなニュアンスで名前を呼ばれて、肩がわずかに上下する。
アルマはそこでぎゅっと目を瞑った。どうしてディートハルトが自分以外の女性を呼び捨てにしたくらいで、こんなにも動揺してしまうのか。こんな気持ちになったのは前世の経験を足しても初めてで、どう扱うのが正解なのか皆目見当もつかない。
必然的に言葉に詰まったアルマだったが、
「…………自惚れかもしれませんが」
代わりにディートハルトが、一つの回答を示唆する。
「もしかして、クラリスに嫉妬してますか?」
いつの間にか着替えは済んだのか、ディートハルトがこちらとの距離を詰めていた。
気配から察するに今はすぐ背後に居て、振り向けばおそらく至近距離で見つめ合うことになる。
しかしそんな勇気は到底持てなくて、アルマは頑なに目を閉ざしたままで、なんとか返せそうな言葉を探す。そして、
「っ……よくわかんない……けど」
「けど?」
「さっきから、胸の奥が、なんか……モヤモヤする」
現在自分の身に起こっていることを感じたままに吐露した。
途端に背後から息を呑んだような音が聞こえてきて。アルマは恐る恐る目を開けると、ディートハルトの反応を確かめるべく、意を決してゆっくりと後ろを振り返った。
なのに待ち受けていたのは、予想外の表情で。
「なっ……なんでそんなに喜んでるの!?」
そう、ディートハルトは彼にしては非常に珍しいくらい、心の底から嬉しそうな顔をしていた。
驚きの声を上げるアルマに、彼はさらに笑みを深める。幸せだ、と言わんばかりに。
「いえ……まさかアルマが僕に独占欲を持ってくれるとは思ってなかったんで」
「独占欲!? それってむしろ悪いんじゃ……なのになんでそんなにいい笑顔なの!?」
「表情がみっともなくなるくらいは赦してください。本音を言えば今すぐに抱きしめたいくらいの気持ちなんですから」
いっそ本当に抱きしめても良いですか?
冗談めかしにそう言って楽し気に微笑むディートハルトを間近で直視したアルマは。
「っ~~~……もうっ! わたし先に食堂に行ってるから!」
恥ずかしさも手伝って即時の戦略的撤退を選択した。
そして急ぎこの場を離脱すべく扉の方へと小走りに駆けるアルマの背に向けて、
「アルマ」
上機嫌を隠そうともしないディートハルトの甘く柔らかな声が降ってくる。
「…………僕はアルマだけが好きです。それだけは疑わないでくださいね?」
「うっ……! わ、わたしだって! そんなこと言ったら、ディーが一番大切なんだからね!!!」
それは、半ば苦し紛れの言葉でもあり。しかし紛れもない本心でもあった。
アルマは自分でも訳の分からないまま大声でそう叫ぶと、小動物のような身軽さで扉の外へと走り去っていった。
一方、残されたディートハルトは。
「――その言い逃げは、ずるくないですか……」
口もとを片手で覆いながら、ほんのりと顔を赤くしてポツリと愚痴とも惚気ともつかない溜息を零したのだった。




