アルマ、もてなす
ネッケ侯爵令息の魔の手から無事に屋敷内へと逃げおおせた結果。
「……まったく! あの男、本当に気持ち悪いったらないわ!!!」
アメルハウザー邸内でも一等豪華な応接間へと通されたエリーチカは、供された紅茶のカップを片手に鼻息荒く吐き捨てた。それを受け、向かい側に座るアルマは「あはは……」と乾いた笑いを浮かべるほかなかった。ちなみに革張りの豪奢なソファーに座るエリーチカの背後に立つ護衛女性は、アルマに対して大変申し訳なさそうに顔を俯けている。
行きがかり上、屋敷に招くことになった手前、粗相は出来ない。なんせ相手は辺境伯家のご令嬢だ。
ということで、アルマはゴードンやサマンサに頭を下げつつ、こうしてエリーチカを賓客としてもてなすことにした。夕暮れ時ということもあり、すぐに帰すと不自然なため、ディナーの用意も急遽進めている。
これはディートハルトが帰って来た時の反応が怖いな、と内心では冷や汗を掻きつつ、
「先ほどの方……ネッケ侯爵令息様でしたか。少々揉めておられたようですが、お話をお聞きしても構いませんか?」
アルマは取り急ぎ先ほどの経緯について質問を始めることにした。するとその言葉を待っていたかの如く、エリーチカは水を得た魚のような饒舌さでルージュに彩られた美しい唇を動かし始めた。
「いいわよ聞かせてあげる! あの男はね、あろうことかこのワタクシに執拗に縁談を迫ってきてるのよ! 断っても断ってもホントしつこくって最悪よ!! あんなのが侯爵家の三男なんだから、この国の貴族の質も落ちたものよね!!!」
「……エリーチカ様は、あの方とご縁を結ぶ気は一切ない……と?」
「当たり前じゃない! あんな顔だけ強引男を婿にだなんて冗談じゃないわ!! これで政略上の旨みでもあれば、まぁワタクシとしても家のために考えないこともないけど……その場合はせめてネッケの嫡男を出してもらわなければ割に合わないわ!」
「嫡男だったら良かったのですか?」
「まぁ一考の余地はあったかもしれないわね。でもどうせ駄目よ。ワタクシに釣り合う殿方なんてこの国にはディートハルト様以外にいらっしゃらないのだから!」
ディートハルトの名前が出てきたことで、アルマは少し考えてから言葉を重ねる。
「……エリーチカ様は、我が主のどこをそこまでお気に召していらっしゃるのですか?」
「そんなもの決まってるでしょ! 全部よ全部! 顔も地位も最上級じゃない。ワタクシの隣に並び立つのに、ディートハルト様ほど相応しい相手はいないわ! 彼と比べたらネッケの三男なんて羽虫よ、羽虫!」
鮮やかなオレンジ色の髪を煩わし気に片手で払いながら、エリーチカは断言する。その自信に満ち溢れた佇まいが、実のところアルマは嫌いではなかった。
この国ではまだまだ女性が男性の下に見られることが当然とされているが、おそらくグランツ辺境伯家の教育方針なのだろう。こうして自分の意見を曲げることなく口に出来るだけでも、実際的にはかなり勇気のいることなのだ。
「……お嬢様、だからと言って、ネッケ侯爵家を敵に回すことは得策ではございませんよ……」
そう口にしたのは護衛の女性だった。この発言から、先ほどネッケ侯爵令息に対して強硬手段に出れなかった背景がなんとなく伺える。勿論、実際にエリーチカへと被害が及ぶようであれば反撃に応じていたのだろうが、護衛である自身にのみ危害を加えられている状況では、それが難しかったのだろう。
その上、アルマの見立てではおそらくネッケ侯爵令息の方が護衛の女性よりも手練れだ。
「あら? ミーシャったらワタクシに口答えするつもり?」
「……どう受け取っていただいても構いません。私一人での護衛は限界があります。せめてもう何名か、供を増やすべきかと。少なくともネッケ侯爵令息がお嬢様を諦めるまでは――」
「嫌よ! 窮屈だし、それに貴女よりも優れた護衛はうちにはいないじゃない!」
エリーチカの言葉に引っ掛かりを覚え、アルマは恐る恐る口を挟む。
「……あの、差し出がましいとは思いますが、わたしも護衛は増やした方が得策かと思います。女性の護衛がお一人では、やはり何かあった際に対応に不安が生じますし……」
「ワタクシ、周りに極力男を置きたくありませんの。かといって女性の護衛を増やすにしても、ミーシャ以上の使い手はそうそういないし……って」
そこで不自然に言葉を切ったエリーチカに。
アルマは嫌な予感を覚えたが、それは即座に回収された。
「――いるじゃない、ここに」
ぴっと人差し指で指し示され、アルマは自分が墓穴を掘ったことを自覚する。
「そうよお前、ワタクシの従者になれば良いんじゃない! そしたらディートハルト様の周りを勝手にウロチョロすることもなくなるから一石二鳥だわ!! ああ、ワタクシったら天才ね!!!」
まさに名案という勢いで腕を組み納得顔をするエリーチカ。
対するアルマは蟀谷を思わず押さえていた。頭痛不可避である。
「……あの、大変光栄なお話ではありますが、わたしはディートハルト様に雇われている身ですので、エリーチカ様にお仕えすることは出来ません」
「ふぅん……じゃあいくら払えばいいのかしら? 今なら言い値で雇って差し上げてよ?」
「いやそういう問題じゃなくてですね……」
「そうと決まれば早速ディートハルト様に交渉するわ! なるほど、お祖父様が仰っていたのはこういうことだったのね!」
「……グランツ卿が、何か仰っていたのですか?」
「ええ! お祖父様は『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』と仰っていたのよ! つまりお前を得れば自動的にディートハルト様にもお近づきになれるってことでしょう?」
やたらとテンション高くそう主張するエリーチカに、アルマは思わずため息をつく。
おそらくグランツ卿の言葉の意味は半分正解で、半分間違っている。
良くも悪くも、ディートハルトにとってアルマという存在は唯一無二だ。
そのアルマを手中に収めれば、ディートハルトを御しやすくなる。おそらくはそんな意図だろう。
しかしディートハルトが易々と自分を手放すことはないはずだ。そしてアルマもディートハルトの不利益になるようなことをするつもりは一切ないし、今のところ望まれる限りは傍に居ようと考えている。なのでエリーチカの願いが叶う可能性はないのだが――
「うふふ……これでお父様からも護衛を増やせって言われなくなるし、いいこと尽くめじゃない……! ディートハルト様との共通の話題にも使えるし……お前、やっぱりなかなか使えるわね」
本人的には既に確定事項扱いのようである。
アルマは助けを求めて護衛のミーシャに目線を向けるが、彼女は彼女で苦笑を浮かべるだけだった。どうやら諫める気はないらしい。
「……ところで、ディートハルト様は本日はいつ戻られるのかしら?」
上機嫌なエリーチカの言葉とは対照的に、アルマは疲れきった声で返す。
「夕食の前には戻られるという話でしたが、王家からの呼び出しと窺っておりますので何とも……」
「……は? 王家ですって?」
瞬間、エリーチカの声のトーンが三段階ほど下がった。
アルマが驚いて顔を上げれば、先ほどとは打って変わって大層不機嫌そうな表情とかち合う。
「あの女狐……まだワタクシのディートハルト様に色目使ってるのかしら忌々しい……!」
親指の爪を噛みながらぶつぶつと呟くエリーチカに、アルマは思わず疑問をぶつけた。
「エリーチカ様は、ディートハルト様の呼び出しの理由にお心当たりがあるのですか?」
「王家からの呼び出しなら、十中八九あの女狐……第二王女が絡んでるでしょうね。あの女、昔っからディートハルト様との婚姻を狙ってるし、本当に目障り! すぐにベタベタくっつこうとする様も品がないったらありゃしないわ!」
第二王女――隣国との開戦直後に生まれたその王女は、確かレスティアが死んだ時には八歳だったはずだ。つまり現在は十七歳。二十一歳のディートハルトとは確かに釣り合いの取れた年齢である。
「……エリーチカ様は、第二王女殿下とは面識が?」
「あるに決まってるでしょ、同い年だし。夜会でも毎回ディートハルト様にダンスを強請ったりエスコートをさせたりと厚かましい女なのよ……まぁ断然見た目はワタクシの方が上だけど!!!」
ソファーにふんぞり返りながら胸を張るエリーチカをしりめに。
アルマは改めてディートハルトの取り巻く状況について思いを巡らせる。
名門公爵家の若き当主にして第二騎士団の団長を務めるほどの実力者。おまけにあの美貌である。
それを世間が放っておく道理はない。高位貴族の女性や王族の女性までもがこぞってその妻の座を欲するほどの存在。それが客観的に見たディートハルト・アメルハウザー公爵の姿だ。
今日の呼び出しは、てっきりアメルハウザー公爵家の領地や国政に関わるものだとばかり思っていた。
けれど、その中には当然ディートハルトの婚姻事情だって含まれていて不思議はない。その可能性を無意識に排除していた自分に、アルマは驚きを隠せなかった。
しかも相手がこの国の王女であっては、ディートハルトの地位をもってしても無下には出来まい。
「……その、第二王女殿下とディートハルト様は、いつか婚姻なさるのでしょうか?」
「お前ワタクシの話を聞いていたの? ディートハルト様と結婚するのはワタクシよ! ……まぁ、王命とあれば強制的に婚姻という可能性もなくはないけれど……」
王命。その言葉に心臓が一際大きく音を立てたような錯覚に陥る。
決して逆らうことの出来ない命令。一度下されれば拒否は赦されない。
それがたとえ、自分の生死に関わることだとしても――
「だからそうなる前に、ワタクシがディートハルト様と婚姻を結ぶ必要があるのよ!!! お前もワタクシの従者になるなら勿論、協力を――」
そこで、不自然にエリーチカの言葉が途切れる。
彼女はアルマの方をまじまじと見ながら、どこか苦虫を嚙み潰したような顔で、言った。
「…………お前、なんて顔してるの」
アルマは反射的に自分の顔に手を当てる。が、鏡のないこの場ではどんな表情を浮かべているのか自分自身でも良く分からない。
そんな中で、ひとつだけ分かったことは。
――ディートハルトの傍に居られなくなる日が、そう遠くないうちに来るかもしれない。
その純然たる事実に対する、微かな痛みだけだった。




