以津真天の哭く時
いっちゃんの家はいつも、鳥の鳴き声がきこえてた。
あたしはペットを飼うのに憧れていたから、それが羨ましくって、
「鳥飼ってるんだ。いいなあ」
そう、いっちゃんに言ったら変な顔された。
「…………鳥なんか、飼ってないけど……」
え? じゃあ、あの鳥の声は何? って思ったわ。いっちゃんの家の前を通る度に鳴いているのに。
「おばあちゃんが元気な頃は、あの人が庭木の枝にミカンとか刺してたけどね。メジロやヒヨドリが来るからって」
「今は?」
いっちゃんは、黙って首を横に振った。
「おばあちゃんがああなってからは、もうしてないの。元々私も母さんも鳥アレルギーだし、羽根や糞がおちるから庭汚れちゃうし。庭に干したもの着ても息苦しいって言うのに、おばあちゃんは『アレルギーなんか病気じゃない。甘えてるだけ』なんて言って聞く耳持たないし。あの人が小鳥に餌付けしてた頃、外に洗濯物も干せなかったんだよ」
そういえば、いっちゃんはちょっと前までひどく咳き込む事が多かった。
「……ゆうこちゃん、私ね、部活やめたんだ。身内の介護があるからって言ったら、割とあっさりやめられた。あの人、ボケひどくなってきちゃってさぁ……」
今日出た課題を大急ぎで片付けながら、流れる汗を拭きつつ、いっちゃんは呟いた。蒸し暑い教室の中は、あたしといっちゃんの二人だけだ。グラウンドからは野球部の練習に打ち込む声がきこえてくる。
「……やめたくなかったなあ」
家でやる時間が無いからと、いっちゃんはいつも教室で課題をすませている。
「頭完全にボケてるけど、体が元気だからタチ悪いんだよね。体が動くからヘルパーさんは頼み辛いし。介護度数が足りてないからデイやショートもあまり受けられないしね。……はじめは私だって、頑張ろう、優しくしようって思ったよ。そうしてたよ。けどさ、」
終わりが見えないのって、やっぱ辛いよ。おばあちゃん、うちらに対して、ブンケの子だから育ちが悪いって言って冷たかったしさ。
ぎゃぁぁ ぎゃぁぁぎゃぁぁ…………
野球部の歓声に混じり、鳥の声がうつろに響いた。
いっちゃんの家の前を通る度にきこえる声だ。いつもよりずっと大きな、寒気がするほど耳障りな声。鳥と呼ぶにはあまりにも、粘ついた声だった。
「身内だけどさ、私…………おばあちゃん大っ嫌いだ。小さい頃から、ずっと」
鳥の、粘つく声は、いっちゃんの周りからきこえていた。
「ただいま」
鍵を開け玄関に入ると、ひどい臭いが鼻をついた。この臭いは壁や床に染み着いて取れない。
(また、おばあちゃんパンツ替えてないんだ)
祖母は少し前から紙パンツを使っている。排泄はトイレでするものだと理解はしているが、間に合わないのだ。自分では『漏れた』感覚がわからないらしく、三日でも四日でも同じものを履いているため、こちらで注意しなければならない。注意しても聞くものではないけど。
「おばあちゃん、トイレの後パンツ替えないと」
「何でよ。汚れてるとでも言うの。細かいことばっかり言ってこれだから分家の子は」
また始まった。私は聞かないふりをしながら、なお食い下がる。
「そうは言ってもね、替えた方がサッパリするでしょ」
「五月蝿いっ!」
思いきり、顔を引っ掻かれた。ああ、またか。ほとんど何もわからなくなっても、無駄に高いプライドだけは残っているから始末が悪い。
(また、皮膚科に行かなきゃなあ……)
どこか他人事のように、そう思う自分がいた。
ぎゃぁぁ……ぎゃぁぁ……ぎゃぁぁぎゃぁぁ……
何処かで、鳥の声が、する。
何かを、訴えるように、粘つく声で、鳴いている。
ィぎゃぁぁ……ぎゃぁぁ……ゥァぎゃぁぁぎゃぁェ……
きっと、訴えようとしているのは、怨み言だろう。
「おはよう、ゆうこちゃん」
翌日、教室で会ったいっちゃんは、ひどくつかれて見えた。顔や手に絆創膏をはっているけど、引っ掻き傷は隠せない。
「紙パンツ替えるように言ったら、キレちゃってさ」
「紙パンツ?」
「……おしめのこと」
『おしめ』って言葉を使わないのは、いっちゃんの優しさだ。小さな子扱いすると嫌な気持ちになるだろうと考える、いっちゃんの気遣いだ。
「デリケートな問題だから、キレるのも仕方ないけどね。……やっぱり腹が立ったよ」
おばあちゃんはボケちゃってるから仕方ないといっちゃんは言うけど、そんなの横暴だ。なんでいっちゃんばかり我慢しなきゃいけないの?
「でも、身内だからね」
そう、いっちゃんは言う。
放っておけばいいのに。あたしなら放っとくわ。散々バカにしてたのに今さら頼ってくるなんて、そんなの虫がよすぎる。
「情なんて、もう無いよ。……ううん、はじめから無かった。お互いに。…………ゆうこちゃん、私ね。…………おばあちゃんが死んでも悲しむ自分が想像出来ないんだ。喜ぶまでいかないけど、ホッとすると思う……」
感情を殺した、平べったい声。
ィぎゃぁぁ……ぎゃぁぁ……ゥァぎゃぁぁぎゃぁェ……
また、あの鳥の声だ。昨日より、もっとはっきり聴こえる。ぞわぁ……と、全身が総毛立つ。思わず身をすくめたとき、いっちゃんがポツリと呟いた。
「…………きこえてたよ。私にも、鳥の声。……ずっと前から。喋ってるみたいな、鳥の声」
ィぎゃぁぁ……ゥァぁぁぎゃぁェ……
「何て言ってると思う? あの子」
あの不気味な声を、いっちゃんは『あの子』と呼んだ。
「いっちゃん……怖く、ないの?」
「最初は怖かった。けどね、あの子は、私の気持ちがわかってるみたいだったから」
いっちゃんは薄笑いをうかべ、言葉を切った。
「あの子ね……『いつまで、いつまで』って鳴いているのよ。『いつまで生きてるつもりなんだ』って鳴いているのよ。最近頻繁に、鳴くようになった」
もう鳴かなくていいのにね。
虚ろに響く鳥の声と、いっちゃんの声がダブって聞こえ、雨に濡れた錆びた釘みたいな匂いがするのに気がついた。
今、いっちゃんの家は空き家になっている。