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短編集・散文集

ポスト

作者: Berthe

 なかなか進まない時計も、ようやく午後三時をまわったところで、ひな子は俄に急き立つように立ち上がって今一度階下におり、ポストをのぞきこむと、またしても期待を裏切るので、予想してはいたもののちょっとムッとしても来て、いつ届くんだろうとはやる心でエレベーターに乗り込んでボタンを押しながら、まあまだ指定した時刻は過ぎてないしと、騒いだ胸をようよう抑えて部屋にもどっても、それから始終むずむずして、どうにも腰が落ち着かない。

 文庫本のお届け時刻を午後二時から四時のあいだに指定したのはひな子自身なので、三時になってもポストに届いてないからといってぶつぶつ言う資格はないのだが、彼女が思うのは、べつに二時キッカリにポストに投函してくれてもいいはずで、もっと言ったら、その時間内での優先順位が上のほうに来るひとのポストにはもうすっかり投函されているかもしれず、というより絶対投函されているのだし、自分だって始めのほうに受け取りたいのである。もちろん宅配業者やその運転手さんにはそれぞれに決めたルートがあるはずで、それに沿ってこなしていくと、たまたま今日みたいに彼女が後になる時もあれば、先になる日もきっとあって、ひな子もそれを自分ではちゃんとわかっているつもりではあるけれども、今振り返って考えてみると、これまで一度として指定した時刻の最初のほうに、つまりいの一番に届いたためしがなく、それはもしかしたら失念しているだけかもしれないけれど、いずれにしろそんな嬉しかった日の思い出は彼女の記憶にないのである。

 で、お昼まえに起き、歯磨きをしてシャワーを浴びているうちぼんやりそれに心づいてみると、今日も結句、三時過ぎとか四時前に届くかもしれないと、まだ結末は決まってもいないのにもうすっかり諦め気分で、せっかく楽しみにしている本を受け取るのにどうも鬱々しかけた気持ちを、濃く淹れたあつあつの珈琲で元気づけ、トーストしたパンにハムやチーズを挟んでほおばり精をつけて、二時十分を待ち階下のポストをのぞいてみれば、ふっと顔をしかめることになったのである。

 ときどき時計とにらめっこしながら、二時三十五分にもおりて同じ結果に遭い、今回が三回目だったのだけれど、三度もバッサリ裏切られればそろそろ悲しみが募ってくる。それに、エレベーターをおりてポストまでたどり着くには、管理人さんの前をいやでも通らなければならず、二度目におりた折、管理人室の窓のほうをちらっとのぞいたときにはおじさんは横を向いて座っていたので、もしかするとこっちには気づいてないのかもしれないけれど、同じくらいの背の同じような洋服の女が短時間に何度も往復すれば、たとえ目の端にとらえていたにせよ気づかないはずがない。

 詮索されると思ってしまうのはこっちの勝手な思い込みで、相手にはそんな気はさらさらなく、きっとない事は彼女も頭の隅ではわかっているはずだけれども、ちいさい頃から人の視線がどうも苦手で、それも実際に見られることばかりでなく、ないはずの目を自分でわざわざこしらえて冷や汗をかいたり、背筋をびくつかせたりする。それを怖がって病気になったりするほどではないけれど、未だにその癖が抜けないので、今日もおりていくたび、心にも体にも要らないはずの負荷をかけてしまう。

  *

 ひな子がそれほどになって、今か今かと心待ちにしているのは、アメリカの女流犯罪小説家が遺したシリーズもので、文庫にして五冊になるのだが、彼女が今日受け取る予定ですぐさま読みふけろうと思っているのはその三番目の刊で、一応全巻既刊ではあるけれども、それを一冊一冊買って読み進めるのを今の楽しみにしているのである。彼女は子供のころから、警察や探偵が主役のサスペンスドラマを見ていても、親が毎週夢中になって見ている隣でどうも退屈でならず、毎回同じような展開になり、オチは毎度決まって崖や浜辺で犯人が警察に追い詰められて自供をするのが、馬鹿馬鹿しくてならない一方で、週末の夜などたまに流れたりする、犯人側が主人公の洋画には時折、食い入るように見入った。

 で、いつか小説に親しむようになって自分で文庫本を選んで買うようになってからも、一応最初はアガサ・クリスティのような王道を読んでみたり、友達に絶対面白いからと勧められて、日本の作家の書いた飛ぶように売れている犯罪推理小説を読んでみたりもしたものの、どちらも謎解きが主眼になっていて、面白いことは面白くて、それ以上に感心したのだったが、読んだそばから印象は頭をすっぱり去っていて、名画を観たときのようにハッと胸をつかまれて心を惹きつけられはしなかった。

 何がキッカケで手に取ったのかは、すでに記憶の彼方に置き忘れてしまってもう参照できないけれども、たぶんかねて名画とされるその原作映画を借りて観たのが始まりで、その犯罪者の主人公の端整な超絶イケメンっぷりにただただやられてしまったのも、勿論あるにはあるにしても、最後には結局つかまることになる彼の活躍に心ときめいてその姿が胸を離れず、原作があるのを知ってさっそく次の日の帰り道に寄った本屋で見つけて迷わず買い、その日のうちに読みはじめたところ、だいぶ趣がちがった。主人公の性格も違えば、物語の細部や、それに結末が決定的にちがう。完全犯罪がついに達成されそうな瞬間、露見してしまう映画とは異なり、小説のほうでは綱渡りのうえに綱渡りをしながら、なぜか最後までバレず、これは主人公が途方もない強運の持ち主なのか、単に警察がバカなのかどっちなのかというより、どっちも上手い具合に作用しあってまんまと逃げおおせてしまう。

 ひな子はそれを読んだとき面白くてたまらず、すっかり心惹かれもし、どことなく彼のその後の活躍を期待したものだった。調べてみると、物語には後日談がちゃんとあって、しかも五冊目まで続いている人気シリーズらしい。すぐにECサイトをひらいてみるとしかし、シリーズの二冊目以降は新品の出品はなく、翻訳の版元をあたってみても、品切・重版未定になっていて、どうしても読みたいなら古本しかない。そこですっと気がそがれて、そのまま打ちやっているうちにも、何やかやと日々の生活に忙しく、それと彼女はひとつの本にずっと恋するたちでは元来ないので、気楽に新品が買えないと知るや否や、興も他の書籍におのずと移って行っていつとはなしに忘却していた折から、原作者の他作品の映画公開を知ったのである。

 その原作本の邦訳出版を皮切りに、これまで重版未定になっていた品切本がつぎつぎに復刊され、ひな子もさっそくシリーズ二冊目を購入して開いてみると、一冊目と舞台も雰囲気も変わり、最初はちょっぴり戸惑い面食らったもののページを繰るうち次第次第に惹きこまれて、彼の性格はより陰影を深めずる賢さは増し、自分とこの男とは絶対性格も生き方も違うはずなのに、読み終わる頃には早くつぎを急かす心持ちになっていた。ひな子はその気持ちをぐっと抑えて、他の本にあたりながら、それでもむくむくと胸が沸き立ってくるのを知ってある日行きつけの書店をたずねると、期待に反して在庫はなく、彼女はがっかりして別の本屋に足も延ばさず、そのままとぼとぼ家に帰りつくと俄に気を取り直し、夕食の準備もあとにしてECサイトで注文し、そして今、ついに届くはずのそれを待ち焦がれて部屋とポストを行ったり来たりしているのである。

 たとえば漫画やドラマのつづきを待ち焦がれたことは、彼女にも覚えがあったものの、本を待ちきれないという経験はこれまでの人生では露知らず、それは本を手にするときには大抵一冊で完結しているものを手に取るばかりで、何冊もつづくものを買う習慣がなかったからだが、といって文芸誌を追うほどに文学に特別興味があるわけでもなく、要は自分のペースで自分の読みたい時に、自分の好みの作品に浸りたいというのが隠し立てすることのない彼女の気持ちだったのだけれども、ふと今の状況に心づいてみると、なんだかいつになく追われる心持ちになっている。今日読みふけることになるだろう作品の主人公も、いつも誰かに追われて、つねに視線を気にしていたのが、ふっとひな子の体に落ちてきて、びくっと身内を何かが通り抜ける。ひとまず落ち着こうと、おもむろに立ってキッチンへ行き、コーヒーメーカーから珈琲が抽出されるのをぼんやり見つめるうち目を切って、まずは上着を着がえた。

読んでいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 待ち遠しい気持ちと何かに追われている感。期待と焦燥の心理描写が面白いですね。
2021/01/17 08:38 退会済み
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