あなたは気付いていないだろうが、私の頭の中は今大変なことになっている。
朝起きた時から、いつも通りの欲求不満気味だった。
「……多々良」
心許ない感じ。触れたい感じ。抱き締めたい感じ。あとは抱き締められたい感じ。人寂しくて、人恋しい。
胸の少し上、鎖骨に近い辺りで、それは疼いている。
あまりに疼くものだから、少し急ぎ目に登校をして、二年D組の自席に着き、窓の外を見ていた。
私の前の席のクラスメイト、多々良景子が登校するのを待っていた。
待ち焦がれていると、それほど掛からずに彼女は現れた。
背が高く、さらりとした黒い長髪が綺麗で、涼しげで、少し目が冷たくて……そして、胸が大きい。
彼女は教室の後ろの戸から入ると、席に着くために私の横を通り過ぎた。そして振り返り、私を見る。
「おはようございます、芹」
「あぁ。おはよう。多々良」
彼女は私を芹と呼ぶ。私の名前は芹沢凜。出来ることなら、本当は名前で呼んで欲しい。だって、芹って。七草粥かって。
まぁ、でも良い。多々良に名前を呼ばれるだけで、心はだいぶ落ち着く。
「今日は随分早いのですね」
「随分早くに目が覚めちゃってね。時間を持て余したのよ」
「それは良いことだと思いますよ」
涼しげな声が耳に心地良い。
多々良は落ち着いて穏やかで、何ごとにも動じない。動じたところを見たことがない。
そんでもって、頭も良い。意外と運動も出来る。
なんとも、腹が立つほど出来が良い。少しくらい弱みを見たい。
「芹は遅刻するかしないかの登校が多いので、冷や冷やしてしまいます」
「そいつは悪かったわね」
そんな言葉に、笑って返事をする。
私は、多々良と話が出来れば、それだけで笑顔になってしまえた。
今年から同じクラスメイトになって、それ以来の関係。私は1年の頃に、彼女を認識していなかった。
同クラスになって、挨拶をして……正直、一目惚れだった。
でも、勿論告白なんてしていない。ただ席が近かったから、こうして話しをする関係になっただけ。運が良かっただけ。だから、多々良からすれば、席が近いクラスメイト以外の何物でもないだろう。
彼女の特別になりたいとはずっと思っている。そうすれば、きっと私が抱いている人寂しさは、消えるのだと思うから。
でも、それが高望みなのは知っているから、あくまでも『宝くじが当たりますように』というのと同じ程度の願いでしかない。
大好きな相手と、気兼ねなく話しができて、一緒に遊んだりできている。それだけで、だいぶ充分過ぎる。
ただまぁ、今日は特に渇きが酷いので、少しくらい補充しても良いかな。
「あ、そうだ。ねぇ、多々良。手、貸して」
「ん? 手を貸すって、どういう意味で云っているのかしら?」
「そのままの意味。握手握手」
私は、多々良に向かい手を伸ばし、グーパーグーパーと見せる。
「握手ですか。本気で握ってきたりしては嫌ですよ」
「しないわ」
彼女は少し、恐る恐るという感じで手を伸ばしてきた。
それを、パシリと掴む。そして親指で手の甲を優しく撫でる。
すべすべだ……しなやかだ。
ゾクゾクと背中に刺激が走る。思わず目を瞑る。
それほど長い時間は握らず、パッと手を放す。
「ありがとう」
「何に感謝をされているのか判らないのだけど」
「握手で挨拶するって云うでしょ? どういう感じなのかなって思ったのよ。それで試してみたくて」
「なるほど。それで、どうでした?」
少し目を細めて、多々良は笑った。その鋭さに、ときめく。
「ん。け、結構、良かったわ。洋画の様で、ちょっと格好良い感じがして」
「そう? なら、今後は握手で朝の挨拶でもしてみますか?」
それは、酷く甘美な提案だった。
……ただ、それは、あまりに甘くて、にやけそうで……
「やめておくわ。自分の手汗が気になって仕方ないから」
「あら。それは少し、残念ですね」
くすくすと、多々良は楽しげに笑っていた。
彼女の落ち着いた表情を見る度に、もしも彼女が驚き顔をしたら、困った顔をしたら、怯えた顔をしたらと、妄想してしまう。
叶うことはないと判っていても……彼女を縛り付けて、自由を奪う様な、そんな妄想を、私は本人の真後ろでしてしまう。
……はぁ。絶対に、口に出さないように注意しないと。
あぁ……多々良を、抱き締めたい……
***
私、多々良景子の後ろには、芹沢凜が座っています。
彼女は、休み時間の度に私に話し掛けてきました。
「ねぇ、多々良。今日喫茶店往かない? なんか今、すっごくミルクレープ食べたいんだけど」
「良いですけど、昨日もアップルパイが食べたいからって往ったと思うのだけど、体重は大丈夫ですか?」
「……ギリギリ」
「あまり太っては駄目ですよ。私、芹はほっそりしてる方が似合うと思ってますから」
ぷいっと凜はそっぽを向きました。
凜はいつも気怠そうにしながら、それでも明るく笑っている。サラッとした女の子。ほっそりしたシルエットに、整った顔、ふわっとした髪。
あぁ、凜……凜々しくて、可愛らしい凜。好き。あぁ、本当、凜。
先程手を握られて、もう、そのまま凜の手に口づけでもしたかった。引き寄せて抱き締めてしまいたかった……いえ、引き寄せられて、抱き締めて欲しかった。
私は、凜が大好きだった。
一年生の頃、隣のクラスに居た凜を見た。彼女は体育、私は教室で数学だったかしら。
夏が近付いていた時の体育の授業。汗だくになって、校庭の蛇口で頭を洗っていた彼女。そして、気持ち良さそうに顔を上げ、髪に付いた水滴を飛ばしていた彼女。
その一瞬が、あまりに鮮明に焼き付いて……一目惚れ、というのかしら。
それから、彼女のことを遠目で見ていた。そうしたら、ますます気持ちが強くなって、今になっても変わらず、気持ちは積もる一方。
それ以来、私はずっと、凜のことを目で追っていた。
そして、今年度は、同じクラス。そして、前後の席。席替えでこうなった時は、危うく、絶頂してしまうところでした。
しかし、惜しむらくは前後関係。これでは、私は授業中、凜の背中を見ることが出来ない。
凜が話し掛けてくれるのは凄く嬉しいのだけど……髪が、首が、服が見えない。
想像するだけで、胸がはち切れそう。
「ほっそりって。私痩せすぎって云われてるのよ?」
「そうね。でも私、芹がぽっちゃりしちゃったら、ふふ、笑ってしまいます」
「極端!」
あぁ、芹。あばらが浮いている芹。
もしあなたが、今後太ってしまったとして、それはそれで私は変わらずあなたを好きだと思う。けれど、抱き締めたら折れてしまいそうなあなたが、今は凄く好き。
「まぁ、ジョギングとかしてるし、大丈夫よ」
「それは健康的で良いですね」
「でしょ?」
楽しそうに話す凜。その頬に、指を添えたい。あなたにも、私の頬に指を添えて欲しい。
あなたには名前で呼んで欲しいけれど、もし名前で呼んで終ったら、想いを口にしてしまいそうで、苗字で呼ぶことしかできない。
この気持ちは、絶対にあなたに云えないけれど……あなたの近くに居させて欲しい。
あぁ……凜に、抱き締められたい……